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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第1部 王宮が止まる/迎えが来る 第1章 退職3日──不在の代償が動き出す

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第3話 最初に気づくのは、誰?

 最後の朝、私の机の上には20頁だけが残っていた。


 紐で綴じた紙束は、驚くほど軽い。

 5年間が、この軽さに収まるはずがない。だが棚の向こうには72冊が眠っている。眠っているだけで、消えてはいない。禁忌423名分も、価格変動も、配置も、王太子の地雷も――紙の薄さの中には、どうしても収まらない。


 表紙に書く文字を迷った末、私は短く「索引」とだけ書いた。

 誰かが迷うとき、入口があれば戻れる。それだけを残す。


 封筒は作らない。

 別れの言葉を書けば、私の字が私情を持つ。気持ちまで業務にしたくないという境界線を、今日だけは守り切りたかった。


 机の引き出しに手をかけ、止まった。

 昨日、線で消した紙片がある。「胡桃」と書いた1行。

 引き継げなかった知識が、畳んで入れたまま、そこに残っている。

 引き出しを開けるか、開けないか。指先が3拍だけ迷った。


 ……開けない。

 最終日に揺れて取り出しては、5年間の段取りが台無しだ。

 私はそのまま鞄を持ち、廊下へ出た。


     ◇


 朝の廊下は冷えていて、絹の裾擦れだけがやけに大きく響く。

 5年間、この音を立てながら歩いてきた。朝は食卓の確認、昼は仕入れと記録の照合、夕刻は翌日の段取り。歩く理由はいつも決まっていた。足が止まらないのは、まだ段取りが残っているからだ。


 厨房の壁板の前を通りかかったとき、予定札が目に入った。

「8日目 午餐会」

 豚を避ける国の大使が来る日。その禁忌の詳細は帳面の第3冊126頁にある。索引には「第3冊・126頁」とだけ書いた。本文は書けなかった。書けば20頁はすぐに尽きる。


 札はただの予定なのに、私には期限の刃に見える。

 3日で私が去り、8日目に現場が噛み合わなくなる。誰かが探し、誰かが私の名前を思い出す。けれどその時、私はもうここにいない。因果はもう走り出している。


 それは私の責任ではない、と自分に言い聞かせた。引き継ぎは渡す。入口は整えた。中に何があるかを知らずに踏み込んだなら、転ぶのは踏み込んだ人間だ。

 ……それでも、指先がわずかに冷えた。


     ◇


 退職手続きの机で、事務官が形式通りに書類を揃えていた。

「長い間、ご苦労だった」

「……記録官ですので」

 私は頷いて、そう返した。

 事務官は笑うべきか迷い、ペンを落としかけて慌てて拾った。小さな音が廊下に響く。こんなことで空気がほどけるのが、可笑しかった。


 旅行鞄を持ち上げると、軽すぎて思わず内側を確かめた。

 ――ペンが入っていない。

 それが一番、私らしくない。手が勝手に段取りの道具を探して、何もない場所で止まる。その間の抜け方を、鞄の底に向けたまま笑いそうになった。


     ◇


 記録室の前に着くと、鍵番の若い書記官が立ち上がりかけた。

 何か言おうとして、言葉が出てこなくて、また椅子に戻った。

 私は鍵を差し出した。彼は受け取り、丁寧に鍵穴へ収める。金属の小さな音がして、扉は変わらず閉じたままだ。


 扉の向こうへ、視線だけ向けた。

 棚の最奥に差し込んだ1冊が、今もそこに眠っている。背表紙のない、名前のない1冊。


 その瞬間、胸の奥で何かが締まった。

 5年間、この棚の前に立ってきた。仕入れ先が変わって価格が跳ねた冬、翌朝4時まで代替案を組み直した夜がある。誰にも言わなかった。記録に残っているだけだ。地雷を踏みそうになった午餐会の直前、怒鳴らないボルドーが背中で圧を出すだけで済んだのも、私が先に動いていたからだ。

 その重さを背中で覚えている。72冊の全部を。


 だがその重さを、20頁という数字は知らない。

 怒りではない。もっと静かで、冷たいものだ。棚の前に立つたびに指先に残ってきたものが、今この瞬間だけ、ひとり分の重さになって浮かんだ。


 ……見えないところに残したものは、見えないまま誰かの手に渡る。渡ってしまえば、もう私の責任ではない。そう決めた。

 視線を外し、廊下へ戻った。振り返らなかった。


     ◇


 厨房の出入口で、ボルドーが机の端に紙袋を置いた。

 硬いパンの匂いがした。

 私は受け取り、指先のインク染みが袋にうっすら移る。

 ボルドーはそれを見て、鍋の蓋を1度だけ「カチン」と閉めた。

「現場は、紙がないと燃える」

 彼は私の方を向かずに言った。

「引き継ぎは、机の上に置きました」

 私は頷く代わりに、そう返した。


 ボルドーは何も言わなかった。

 怒鳴らず、慰めず、続きの仕事があるふりをして厨房へ戻っていく。その背中に、私は静かに頭を下げた。

 送別とはこういうものだ。言葉より音の方が、残る。


     ◇


 王宮の門を出た。

 旅行鞄はひとつ。肩が軽くなるはずなのに、足元がわずかに揺れた。


 自由になったはずだ。3日、やり遂げた。20頁、置いてきた。72冊は棚にある。持ち出したものは何もない。

 それなのに、左手が無意識に握られた。開く。また握る。手が次の段取りを探して、何もない場所で止まる。

 5年間ずっとそうだった。指先が動く前に段取りが始まり、感情はいつもその後回しだった。


 ゆっくりと、手を開いた。

 まだ書けない未来の1行が、指の間に挟まっている気がした。イチジクの甘さも、銀のフォークが一拍迷う瞬間も――まだ名前のないまま、どこかにある。


 振り返らない。振り返れば、戻る理由が増える。


 さて。

 最初に「困る」と口にするのは、誰だろう。


読んでいただき、ありがとうございます。


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