第21話 残り3日、扉の前へ
封蝋は、閉じているだけで人を黙らせる。
夕刻、応接室へ通された時には、もう椅子の数まで数えていた。使者が1人、侍従が1人、立会いの書記が1人。誰も声を荒げない。誰もこちらを責めない。ただ、必要な人数だけが揃っていて、それがいちばん息苦しい。礼儀が整っている場ほど、逃げ道は少ない。
書記の手元には細筆と記録板がある。この場で発された言葉は全て残る。残るという事実だけで、私の口は半分閉じられたようなものだ。
卓上に置かれた文の封は、昨夜執務卓で見たものと同じ深い色をしていた。私は手を伸ばす前に、その縁を見る。欠けている、と言うほど大きくはない。けれど、蝋の端がほんの少しだけ不自然だった。乾き切る前に触れたような、鈍い乱れ。昨日の小火報告の署名と同じ種類の違和感が、今度は紙の外側にある。
指先がその欠けを覚えたがっている。記録官ですので、と心の中で言い訳する。
「開封を」
使者の声は平らだった。命じるでもなく、譲るでもない。届けるべき文を、順番どおりに開かせる。それだけの人間だ。けれど、その「それだけ」が今はいちばん重い。
私は頷き、封を切る。蝋の割れる音が、部屋の中でやけに大きかった。
割れた欠片が卓上に散る。私は無意識のうちに、その破片を大きさ順へ揃え始めていた。場は冷えているのに、指だけが、いつもの仕事で動いている。使者も書記も、その手元をほんの一瞬だけ見て、何も言わなかった。言うべき言葉が見つからなかったのだろう。私だって見つからない。ただ、手だけが正直だ。
文面は簡潔だった。出頭。期限は3日。対象者は私。必要に応じて再配置、記録照合、守秘の遵守。あまりに整っていて、読むほどに息が詰まる。急いで出した文のはずなのに、急ごしらえに見えない。前からこの形へ落とすつもりだったような、隙のなさだ。
隣でリュシアン様が紙を受け取り、最後まで読む。表情は動かない。動かないが、机の縁に置いた左手だけが少し強くなる。あの癖だ。怒っているのか、耐えているのか。その両方かもしれない。
「拒否は」
先に口を開いたのは彼だった。使者へ向けた声は低く、短い。彼の言葉はいつもそうだ。足りないくせに、刺さる。
使者は表情を変えず、ほんの僅かに首を傾けた。
「正式な手続きですので」
それだけで事足りた。拒否すれば、辺境伯の立場が傷つく。拒否しなければ、私がここからいなくなる。どちらに転んでも、誰かの居場所が削れる。
書記が静かに筆を構えている。ご発言はそのまま記す、というあの目だ。私の答えが、この場で固定される。恋人の言葉ではなく、公の記録として。
◇
私はすぐに答えられなかった。
拒否できるなら、したい。できるなら、ここにいたい。昨夜の食卓の続きを、もっとましな言い方でやり直したい。「私は……」と言いかけて飲み込んだ言葉を、今度こそ最後まで出したい。
けれど、ここで私が引けば、小火の報告も、欠けた封蝋も、不自然な署名も、全部「都合よく逃げた人間の言い分」になる。王宮は、逃げた人間の声を聞かない。それは5年間で嫌というほど知っている。
「しません」
喉が乾いていた。声は思ったよりもちゃんと出た。
書記の細筆が、小さく動く。「しません」が記録に残る音だ。私の言葉が、紙の上に固定される。もう撤回はできない。
「……行くのか」
リュシアン様の声が変わった。使者への問いではない。私への、もっと柔らかい、もっと痛い声だった。机の縁を押さえた左手が、ほんの少しだけ緩む。怒りが消えたのではない。怒る相手が、目の前にいないのだ。
「逃げません」
そう答えた瞬間、自分が何を選んだのか分かった。王宮の扉の前に立つのは、切り捨てられるためではない。誰がどこを触ったのか、見るためだ。小火の報告から消えた配置表。整いすぎた署名。そして今、私の手の中で割れた封蝋の、あの不自然な欠け。全部が同じ線の上にある。
「でも、従うだけでもありません」
言った瞬間、やっと自分の足元が少しだけ戻った気がした。使者も書記も、何も言わない。紙は人の決意に関心がない。ただ、期限だけを残す。
リュシアン様が、黙ったまま私を見ている。守る、とも、行くな、とも言わない。昨夜なら言っただろう。「見世物にしたくない」と、また言っただろう。けれど今は、違う。
彼の目は、怒っていない。怯えてもいない。ただ、同じ紙を読んだ人間の目をしている。
「3日で足りる形に、残します」
私はそう続けた。厨房のこと。朝食札の順番。保存棚の使い方。夜番の引き継ぎ。私がいなくても回る形を、3日で作る。それは敗北ではない。ここで得た幸福が本物なら、私が欠けても壊れない形を残せるはずだ。
使者が立ち上がった。書記が記録板を閉じる。「立会い済みとして残します」という声が、部屋の空気を事務に戻した。
2人が去った後、応接室には私とリュシアン様だけが残った。
窓の外で、夕日が沈みかけている。3日。私はその短さを頭の中で割る。残せる手順。持っていく控え。置いていく順番。泣く時間は、そこに入らない。
リュシアン様が、卓上に残った封蝋の欠片を1つ摘まんだ。私が揃えた大きさ順の、もっとも小さな1片。指先で転がし、何かを確かめるように見ている。
「同じ欠け方だ」
低い声だった。守るとも行くなとも言わない。ただ同じ傷を見ている。
それだけで、私の胸の奥がひどく揺れた。昨夜、「どこに置かれるのですか」と刺した時には得られなかった答えが、今この沈黙の中にある。彼は私を置く場所を探しているのではない。同じ場所に立とうとしている。
涙は出ない。出ないが、喉の奥に熱いものがせり上がる。泣く代わりに、私は卓上の欠片をもうひとつ、指先で揃えた。仕事の手で、感情を押さえる。いつもの癖だ。
「はい。印そのものより、押した人の癖です」
声が震えそうになった。震えを手順で押さえる。記録官ですので。
彼は頷いた。短く、静かに。その頷きの中に、昨夜の「見世物にしたくない」の続きが見えた気がした。あの時は守るつもりで刺した言葉。今は、黙ることで並んでいる。
3日後、王宮の扉の前に立つ。その時、私の隣に誰がいるのか――まだ、聞けない。聞けば、この人の立場を削る。だから今は、封蝋の欠片だけを2人で見る。
窓の外が暗くなった。応接室を出る時、廊下の先に厨房の灯りが見えた。ボルドーがまだ鍋の前に立っているのだろう。あの厨房を、3日で手放す準備をしなければならない。手放すのではない。預けるのだ。戻る前提で。
出立まで、あと3日。
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