表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第2部 辺境の居場所/噂で壊れる 第6章 召喚3日──幸福が試される

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

20/45

第20話 小さな火が署名を呼ぶ

沈黙は、一晩置いても薄くならなかった。


翌朝の執務卓には、まだ昨夜の言い残しが沈んでいるようだった。窓から入る光は明るいのに、机の上の紙だけが冷たい。侍従が差し出した封筒を受け取った瞬間、私は指先で紙質を確かめる。王都の報告書は、だいたい匂いで分かる。乾いた糊。急いで閉じた角。綺麗すぎる折り目。今日のそれは、内容より先に、整いすぎていた。


「23日目の小火について、です」


小火。軽い語だ。軽い語ほど、現場では重いことがある。私は立ったまま封を切り、最初の2行で息を止めた。軽微。処置済み。再発防止に努める。責任所在は現在確認中。どこにでもある報告の形だ。だからこそ嫌な予感がする。現場の匂いが1つもない。


「何だ」


向かいから問われ、私はすぐには答えなかった。代わりに2枚目へ進み、火元の記述と人員配置の欄を見比べる。抜けている。というより、抜かれている。誰が水桶を替え、誰が火を落とし、誰が最後に見回ったのか。その順番がごっそり消えていた。


「配置表が、ありません」


声に出すと、急に背筋が冷えた。辺境邸の厨房では、夜番が火を見て、水桶の位置を確かめ、札を裏返して帰る。それだけのことだ。けれど、それだけのことが1枚に載っているから、誰が何を忘れたかが分かる。配置表が消えれば、責任の線も消える。


私は紙を持ったまま厨房へ降りた。ボルドーが大鍋の前で胡椒を挽いている。朝の仕込みの音は正直だ。刻む音、煮える音、蓋の触れる音。王都の報告書より、よほど事実に近い。


「水桶はどこですか」


「いつもの場所だ」


「夜番の札は」


「裏返してある」


私はそれを1つずつ見て、報告書へ戻る。紙の上では、火は勝手についたことになっている。現場では、そんなふうには燃えない。燃える前に、人がどこかで順を飛ばしたのだ。


リュシアン様が横に立つ。昨夜の気まずさは消えていないのに、同じ紙を見る時だけ距離が少し縮むのが厄介だ。その矛盾が胸を締め上げる。守られているつもりで、切られているのではないか。それでも、今この瞬間だけは――同じ傷を見ている。


「怪我人は」


「まだそこじゃありません」


私の返事に、彼が眉を寄せる。きつく聞こえただろうかと思ったが、もう遅い。私は末尾の署名へ目を落とし、そこで指を止めた。癖がある。速く書いた字ではなく、速く書いたように見せたい字だ。止めるべき場所で止まっていない。現場の人間なら、こんな余白の残し方はしない。


「この署名、変です」


紙の上の火は小さい。けれど、誰かがそこへ手を入れた痕は、小さくない。


私は2枚目を握り直す。手順の欄が消えた。配置表が消えた。そして末尾の署名が、妙に整えられている。誰が、どの目的で。


「小火ではありません。手順が燃えています」


言った瞬間、自分の声が思ったより静かだと気づいた。それは認識ではなく、告発の前段だ。問題は火ではなく、火を隠した人間だ。


リュシアン様がわずかに身を向ける。机の縁に置いた指先が少し強くなるのが見える。怒りと耐え、その両方が一度に浮かぶ。昨夜、彼は私を守ろうとして傷つけた。今、その守りが、現場まで波及しているのを知ったのだ。


その瞬間、無意識のうちに紙へパンくずが落ちた。リュシアン様の朝食から。彼は急いで払おうとしたが、私が反射で手を出す。気まずいのに、その1つの仕草だけがいつもどおりだった。生活は感情より先に噛み合う。その矛盾が、この状況をより冷たく見せる。


「署名を見てください」


パンくずを払った指で、末尾を示す。筆圧が揃いすぎている。本来なら、急いで書く時は勢いの差が出る。角度も、止めも、払いも――全部が「急いだ顔をしている」字だった。


「現在確認中、とありますが。誰が書いたのか、書き手の癖が全部消されている」


これが記録官としての第1の仕事だ。見えない人間の手跡を、紙の上から読む。呼吸の速さ。躊躇。修正の有無。全部が、その人間の経歴と立場を語る。


「この署名は、複数の人間に修正されています。最初の筆跡を、上から塗り直している」


王都から来た紙に、辺境の私たちが触れた痕跡はない。けれど、その紙は触れられた後に、さらに誰かが触れたのだ。手順を削り、署名を整える。遠い王都で、小さな火を大きな隠蔽に変えた人間がいる。


「28日目の報告が、上書きされています」


呟く私の声を、彼は黙ったまま聞いている。その沈黙は受け入れか、拒否か。もう分からない。昨夜「私は……」と言いかけた言葉も、今は「手順が燃えています」に変わってしまった。


3時間後、小火報告への返書を認めた。火元は確認、再発防止は継続、配置表の欠落は不可抗力――そう書いた。嘘ではない。書かないだけだ。書けば、王都が動く。動けば、現場が傷つく。だから記録官は時々、見えないことにする技術を使う。


夕刻、侍従が立ち上がった。その足音は、昨朝のものとは違う。もっと固い。もっと重い。


「ご報告です。王都から、正式な順番で――」


その瞬間、執務卓の光が変わった。


深い色の封蝋。王宮の色。それは小火報告より大きな荷を運んでいた。私の名前を書いた封筒が、侍従の盆の上で静かに光っていた。


昨夜「私は……」と言いかけた言葉の先は、もう来ない。代わりに来るのは、期限だ。


「二十三日目の小火について」と書かれた報告書が、今度は質問に変わって戻ってくる。そしてそこに書かれた署名が、「押した人の癖」ではなく「押した人の指示」が見える形に変わって、戻ってくる。


深い茶色の蝋は、私の左手から指を離さない。1拍だけ、その縁を見る。欠けている、と言うほど大きくはない。けれど、蝋の端がほんの少しだけ不自然だった。乾き切る前に触れたような、鈍い乱れ。小火報告の署名と同じ種類の違和感が、今度は紙の外側にある。


だから分かった。これは始まりではなく、続きなのだ。


2日前の社交会で、私の記録室の机の上の言葉が改竄された。昨日、その改竄を指摘した瞬間に、この小火報告が上書きされた。そして今、王都の封蝋が落ちている。


一連の線が、1本に繋がった。


「開けるのですか」


リュシアン様に問うと、彼は長く息を吸った。その呼吸の長さが、全部を言っていた。彼も、気づいている。気づいているが、言えない。言えば、私がここにいられなくなると知っているから。


けれど私は、もう逃げたくない。


「開けます」


深い茶色の蝋だけが、執務卓の上で、光を失わずに待っている。


読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ