第2話 72冊の端に、同じ欠け
夜明け前の王宮は、紙の匂いがいちばん濃い。
まだ火の入っていない廊下は冷え、私の指先のインク染みが黒く浮く。
机の上には、白い束が2つある。
右は引き継ぎ書――20頁。
左は、帳面72冊の目録を書き写した走り書き。
3日で終わらせると言ったのは私だが、終わるのは「作業」だけで、「中身」は終わらないと分かっている。
羽根ペンが走る音だけが部屋を満たす。
禁忌、価格、配置、反応。
見出しだけが増えていく。
本文は書かない。
書けば20頁はすぐに尽きる。
だから入口だけ残す。迷わないための、索引。
要点をまとめるつもりで机に座った。
だが1時間後、私の手は要点ではなく「見出し」を書いていた。
要点を書けば、本文が要る。
本文を書けば、背景が要る。
背景まで書いていては、72冊でも足りない。
だからここに書けるのは、入口の標識だけだ。
引き継ぎ書は手順書ではなく、索引になった。
それが正しい選択なのか、逃げなのか、私には判断できない。
ただ手が、そう動いた。
……それでも、書けない項目が1つだけある。
「胡桃」
紙に落ちた文字を見た瞬間、指が止まった。
書いてしまった。
だから、消さなければならない。
胡桃は引き継げない。
引き継いだ瞬間に、誰かの命を賭けにする。
禁忌のリストには載っていない。
宰相府の公式文書にも記録がない。
ある貴族が口にすれば、喉が塞がる。
それを私は5年前の宴席で、偶然に気づいた。
その日から、私だけが抱えてきた。
引き継ぎ書に残せば、知識として次へ渡る。
だが知識は文脈なしに危うい。
「なぜ避けるか」を知らない人間が「胡桃を出すな」という1行を読んで、「ならば砕いて別の品に混ぜれば気づかれない」と判断した瞬間、誰かが倒れる。
言葉だけ渡しても、渡した言葉の重さまでは渡せない。
私は一行だけ書き、次の瞬間に線で消した。
消した紙片を丸めて捨てる代わりに、引き出しの奥へ滑り込ませる。
燃やさない。
なかったことにもしない。
自分の中でだけ、保管する。
拇指と人差し指に、インクが滲んだ。
引き継げない知識を抱えて去るのが、守ることなのか放棄なのか。
答えを出さないまま、羽根ペンだけが次の見出しへ進んだ。
◇
廊下の時計が小さく鳴った。
3日のうち、残りはもう2日。
通りがかった厨房の出入口から、鍋の蓋が「カチン」と閉まる音がした。
厨房長ボルドーが、煤の染みた腕を組んだまま、無言で火元点検札を2枚、私の机に置いていく。
返事を求めないやり方が、妙に優しい。
私は反射で受領印を探し、札の裏の何もない白さに気づいて手を止めた。
印は持ってきていない。
昨日もこれをやった。
手だけが先に動いて、何もない場所で止まる。
その間の抜け方が可笑しくて、口角が揺れそうになった。
「紙は燃える」
ボルドーが背中を向けたまま言った。
私は頷く代わりに「火は、もっと燃えますね」と返す。
彼は何も言わず、「カチン」ともう一度だけ鍋の蓋を閉めた。
それで全部だった。
別れの言葉より、よほど現場らしい。
火元点検札を2枚、机の端に揃えて置いた。
受領印は明日持ってこよう。
まだ2日ある。仕事は、まだある。
◇
記録室の扉を開けると、革と埃とインクの匂いが満ちた。
封蝋は今日も硬い。
棚札が3列並び、持ち出し札の釘穴が、前回より2つ増えている。
私は一瞬、釘穴の位置を読んだ。
3番棚の末尾と、5番棚の中段。
どの帳面が動いたか、配置を知っていれば目星がつく。
気にするな。
あと2日で、ここは私の管轄ではない。
72冊を一冊ずつ抜いて、机に並べる。
背表紙を確認し、棚奥への差し込み位置を測る。
これは引き継ぎ書に書かなかった作業だ。
書かなかったのではなく、書けなかった。
どの冊がどこに収まるか、「理由」を20頁で説明するには頁が足りない。
だから手だけで覚えてきた。
5年分の積み重ねが、指に宿っている。
1冊ずつ戻しながら、指先が背表紙の端をなぞった。
確認の癖だ。
角が傷んでいれば補強し、汚れていれば書き直す。
紙は燃えなくても、擦れて欠ける。
――そのとき、気づいた。
同じ位置だけ、欠けている。
1冊、2冊ではない。
列の途中から、同じ高さで、同じ角が擦れている。
指でなぞると、欠け方が一定だった。
私の手癖ではない。
私なら、欠ける前に紙で補強する。
それに、この欠け方は「取り出す角度」が私と違う。
棚の右側から引く人間と、左側から引く人間では、摩耗の方向が変わる。
……誰かが、私より先に、同じ順番で触っている。
記録室は、私以外に入る者がいないはずだった。
棚への許可は宰相府を通る。
封蝋の記録は、全部私が管理してきた。
72冊の全部ではない。
最初でも最後でもなく、中ほどの、特定の列だけ。
まるで目当てがあるかのような、均一な欠け。
冷えた空気が、指の先から肩へ伝わった。
私は帳面を元の位置に戻し、扉の方を振り返る。
封蝋は今朝、硬かった。
だが「硬い」ことと「触られていない」ことは、同じではない。
欠けた角の列――その手は、誰の手だ。
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