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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第2部 辺境の居場所/噂で壊れる 第6章 召喚3日──幸福が試される

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第19話 言いかけた音だけ、残る

 食卓に湯気は立っているのに、部屋だけが冷えていた。


 白い皿の中央で、鱒の皮が薄く光る。香草の香りも、焼き加減も、付け合わせの根菜の並びも、何1つ失敗していない。けれど、向かいの席に座るリュシアン様は、昼の社交会から帰ってきてから一度も「美味い」と言わなかった。


 言わない人ではない。短くても、必要な分だけは落とす人だ。だからこそ、今夜の沈黙は耳に触る。


 私はパン皿の角度を指先で揃えた。揃えなくても困らない。困らないことほど、手は勝手に整えたがる。そうしないと、別のことを考えてしまうからだ。


「明日から、しばらく人の出入りを絞る」


 最初に口を開いたのは彼だった。視線は皿ではなく、卓上の水差しに落ちている。公の顔で言葉を選ぶ時の癖だ、ともう知っている。


「そうですか」


 返事は平らに出た。昼の社交会で、誰がどこまで聞いていたか。どの令嬢がどんな顔で私を見たか。考えないようにしていたものが、その一言で卓上へ戻ってくる。


「噂が広がっている。お前を見世物にしたくない」


 見世物。私はその語だけを拾ってしまった。


 守るための言葉だと分かる。分かるのに、胸の奥では別の音に聞こえた。隠す。退かせる。席を外す。王宮で一度、きれいな言葉のまま切り捨てられた記憶は、こういう時だけやけに鮮やかだ。


 5年前の控えの間で、アルヴィスはこんな顔で何も言わなかった。何も言わないことが、全てを言っているのだと、その時に学んだ。


「では私は、どこに置かれるのですか」


 自分でも驚くほど静かな声だった。怒鳴るより、ずっと刺さる声だと知っている。


 彼が顔を上げる。そこで初めて、言い過ぎたのはお互い様だと分かった。彼は私を閉じ込めたいわけではない。ただ、外の手を切りたいだけだ。けれど私は、切られる側の音ばかり先に聞いてしまう。


「そういう意味じゃない」


 その言葉が、一番、切った。否定して余計に傷つけるやり方。分かっているのに、彼も詞が足りないのだ。


「ええ。そういう意味ではないのでしょうね」


 立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、小さく響いた。


 厨房へ逃げるつもりはなかったのに、足は勝手に火のある方へ向かう。私は泣かない。泣く代わりに、塩壺の向きを直し、明日の朝食札の順を揃え、冷める前のスープ鍋の蓋を少しだけずらす。手順は裏切らない。感情だけが、毎回順番を乱す。


 その瞬間、彼が無言のまま、パンかごから1切れを取る。パンの最も美しい断面を壊さないよう、端の方から。その手の角度が、守りたい癖だと分かってしまう。


「セレ」


 背後から、彼の声。


 喉が詰まった。このまま向き直れば、泣く。泣かずに向き直れば、どこか冷たい言葉だけが出る。だから振り返らない。手だけが勝手に鍋蓋の脇に落ちたパンくずを払う。気まずいのに、その1つの仕草だけが、いつもどおりだ。


 生活は、感情より先に噛み合う。その矛盾が、私の胸を切る。


     ◇


 私は……


 続きが出ない。言えば、戻れなくなる気がした。守られたいのか。置いていかれたくないのか。それとも、そんなふうに扱われる立場ではないと意地を張りたいだけなのか。分からないまま、言葉だけが喉で止まる。


「続けろ」


 彼の声が、要求ではなく懇願に聞こえた。その音だけが、この部屋で生の音だった。


 だから余計に、口が開かない。開けば、私のすべてが音になる。5年間、記録室の棚の前で積み重ねてきた沈黙が、ここで、この瞬間だけ、人前に解き放たれてしまう。


 掌が冷えた。背中が冷えた。けれど彼は何も言わない。言えば、私を傷つけると知っているから。黙ることで、彼は守ろうとしている。けれど黙ることは、同時に、私を置き去りにしている。


 その矛盾の中で、私は立ったままだ。


「お休みなさい」


 立ち去る前に、短く言った。返事を待たずに、廊下へ出た。振り返らない。振り返れば、戻る理由が増える。


     ◇


 朝が来た。


 部屋の窓が、白みかけている。夜通し眠れなかった。眠るなら、昨日の言葉の続きが浮かぶ気がして。


 私は……何がしたい。誰のそばにいたい。どの立場で。その問いが、夜明け前の暗さの中で、答えを持たないまま燻り続けている。


 廊下を歩く足音がした。誰かが走っている。朝の使用人ではない。もっと固い、重い足音だ。何かが起きた。何かが、来た。


 侍従が立て続けに3つのドアをノックして回っていた。執務室、そして私の部屋の前。その音が何を知らせているのか、私は理解する前に、すでに胸が冷えていた。


「セレスティーヌ様。お目覚めでしょうか」


 声は平らだが、肩が少し強張っている。この人物は、昨日の社交会の直後から、何か知っている。見つめる視線の質が変わった。気の毒さと、記録の視線が混じっている。


「はい。どうしました」


 立ち上がる。夜通し眠らなかった分、体が鉛のように重い。


「王都からの報告が届いております。執務室へお通しします」


 その一言で、全てが動き始めた。報告ではなく、報が来たのだ。何かが起きた証拠が、文の形で家に入ってくる。


 廊下を歩きながら、侍従の歩幅を見ていた。いつもより速い。邸内に何か不穏な事態が起きている、という知らせを、その足だけで表現している。彼も、この重さを背負って、何度も使用人を呼び回したのだ。


 執務室に着く。


 リュシアンはすでに立っていた。夜通し眠らなかったのは、彼も同じなのだろう。机の上に置かれた封筒は、昨日と違う色だ。深い茶色の封蝋。王都の色。


「どうしたのです」


 聞いたのではなく、確認した。昨日から、彼の顔の筋肉の動きで、大体のことは分かる。


「見ればわかる」


 彼は短く言い、封筒の側面をほんの少し、私の方へ向けた。表面に、文字が見える。セレスティーヌ・クランメール。私の名前だ。個人宛の文。


 その瞬間、昨日の言葉が蘇った。


 「私は……」


 続かなかった言葉の先は、もう来ない。代わりに来るのは、公文だ。


 朝日がまだ窓の向こう側に隠れている薄明の中、侍従の持つ封筒盆の上で、深い茶色の蝋だけが、光を失わずに静かに光っていた。


 それが全てを言っていた。昨日の食卓の冷えは、これからの序章だったのだ。期限が、来た。


「開けるのですか」


「開ける」


 彼は手を伸ばす。彼の指先が、わずかに止まった。その1拍だけが、彼も迷っていることを示していた。


 けれど彼は、文を開く。


 赤い蝋片が白い紙に落ちた。落ちた先で、私の名前と、3日という数字が見える。


「3日か」


 彼の呟きが、部屋の空気を切った。


 侍従が細筆を走らせる。その筆音だけが、静かに部屋を満たす。


 私は無意識のうちに、椅子の端に落ちた割れた封蝋片を、大きさ順へ揃え始めていた。場は冷えているのに、指だけが、いつもの職業病で動いている。その違和感が、この瞬間だけ、唯一のくっきりとした現実だった。


 3日。


 その3日の間に、私は何を選ぶのか。誰と向かうのか。それとも、一人で。


 昨日「私は……」と言いかけた言葉は、もう言う必要がない。代わりに、期限が、全てを言い切っている。


 開く前から、汚れた封蝋だ。けれど、開かない選択肢ももう、ない。

読んでいただき、ありがとうございます。


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