第19話 言いかけた音だけ、残る
食卓に湯気は立っているのに、部屋だけが冷えていた。
白い皿の中央で、鱒の皮が薄く光る。香草の香りも、焼き加減も、付け合わせの根菜の並びも、何1つ失敗していない。けれど、向かいの席に座るリュシアン様は、昼の社交会から帰ってきてから一度も「美味い」と言わなかった。
言わない人ではない。短くても、必要な分だけは落とす人だ。だからこそ、今夜の沈黙は耳に触る。
私はパン皿の角度を指先で揃えた。揃えなくても困らない。困らないことほど、手は勝手に整えたがる。そうしないと、別のことを考えてしまうからだ。
「明日から、しばらく人の出入りを絞る」
最初に口を開いたのは彼だった。視線は皿ではなく、卓上の水差しに落ちている。公の顔で言葉を選ぶ時の癖だ、ともう知っている。
「そうですか」
返事は平らに出た。昼の社交会で、誰がどこまで聞いていたか。どの令嬢がどんな顔で私を見たか。考えないようにしていたものが、その一言で卓上へ戻ってくる。
「噂が広がっている。お前を見世物にしたくない」
見世物。私はその語だけを拾ってしまった。
守るための言葉だと分かる。分かるのに、胸の奥では別の音に聞こえた。隠す。退かせる。席を外す。王宮で一度、きれいな言葉のまま切り捨てられた記憶は、こういう時だけやけに鮮やかだ。
5年前の控えの間で、アルヴィスはこんな顔で何も言わなかった。何も言わないことが、全てを言っているのだと、その時に学んだ。
「では私は、どこに置かれるのですか」
自分でも驚くほど静かな声だった。怒鳴るより、ずっと刺さる声だと知っている。
彼が顔を上げる。そこで初めて、言い過ぎたのはお互い様だと分かった。彼は私を閉じ込めたいわけではない。ただ、外の手を切りたいだけだ。けれど私は、切られる側の音ばかり先に聞いてしまう。
「そういう意味じゃない」
その言葉が、一番、切った。否定して余計に傷つけるやり方。分かっているのに、彼も詞が足りないのだ。
「ええ。そういう意味ではないのでしょうね」
立ち上がる。椅子の脚が床を擦る音が、小さく響いた。
厨房へ逃げるつもりはなかったのに、足は勝手に火のある方へ向かう。私は泣かない。泣く代わりに、塩壺の向きを直し、明日の朝食札の順を揃え、冷める前のスープ鍋の蓋を少しだけずらす。手順は裏切らない。感情だけが、毎回順番を乱す。
その瞬間、彼が無言のまま、パンかごから1切れを取る。パンの最も美しい断面を壊さないよう、端の方から。その手の角度が、守りたい癖だと分かってしまう。
「セレ」
背後から、彼の声。
喉が詰まった。このまま向き直れば、泣く。泣かずに向き直れば、どこか冷たい言葉だけが出る。だから振り返らない。手だけが勝手に鍋蓋の脇に落ちたパンくずを払う。気まずいのに、その1つの仕草だけが、いつもどおりだ。
生活は、感情より先に噛み合う。その矛盾が、私の胸を切る。
◇
私は……
続きが出ない。言えば、戻れなくなる気がした。守られたいのか。置いていかれたくないのか。それとも、そんなふうに扱われる立場ではないと意地を張りたいだけなのか。分からないまま、言葉だけが喉で止まる。
「続けろ」
彼の声が、要求ではなく懇願に聞こえた。その音だけが、この部屋で生の音だった。
だから余計に、口が開かない。開けば、私のすべてが音になる。5年間、記録室の棚の前で積み重ねてきた沈黙が、ここで、この瞬間だけ、人前に解き放たれてしまう。
掌が冷えた。背中が冷えた。けれど彼は何も言わない。言えば、私を傷つけると知っているから。黙ることで、彼は守ろうとしている。けれど黙ることは、同時に、私を置き去りにしている。
その矛盾の中で、私は立ったままだ。
「お休みなさい」
立ち去る前に、短く言った。返事を待たずに、廊下へ出た。振り返らない。振り返れば、戻る理由が増える。
◇
朝が来た。
部屋の窓が、白みかけている。夜通し眠れなかった。眠るなら、昨日の言葉の続きが浮かぶ気がして。
私は……何がしたい。誰のそばにいたい。どの立場で。その問いが、夜明け前の暗さの中で、答えを持たないまま燻り続けている。
廊下を歩く足音がした。誰かが走っている。朝の使用人ではない。もっと固い、重い足音だ。何かが起きた。何かが、来た。
侍従が立て続けに3つのドアをノックして回っていた。執務室、そして私の部屋の前。その音が何を知らせているのか、私は理解する前に、すでに胸が冷えていた。
「セレスティーヌ様。お目覚めでしょうか」
声は平らだが、肩が少し強張っている。この人物は、昨日の社交会の直後から、何か知っている。見つめる視線の質が変わった。気の毒さと、記録の視線が混じっている。
「はい。どうしました」
立ち上がる。夜通し眠らなかった分、体が鉛のように重い。
「王都からの報告が届いております。執務室へお通しします」
その一言で、全てが動き始めた。報告ではなく、報が来たのだ。何かが起きた証拠が、文の形で家に入ってくる。
廊下を歩きながら、侍従の歩幅を見ていた。いつもより速い。邸内に何か不穏な事態が起きている、という知らせを、その足だけで表現している。彼も、この重さを背負って、何度も使用人を呼び回したのだ。
執務室に着く。
リュシアンはすでに立っていた。夜通し眠らなかったのは、彼も同じなのだろう。机の上に置かれた封筒は、昨日と違う色だ。深い茶色の封蝋。王都の色。
「どうしたのです」
聞いたのではなく、確認した。昨日から、彼の顔の筋肉の動きで、大体のことは分かる。
「見ればわかる」
彼は短く言い、封筒の側面をほんの少し、私の方へ向けた。表面に、文字が見える。セレスティーヌ・クランメール。私の名前だ。個人宛の文。
その瞬間、昨日の言葉が蘇った。
「私は……」
続かなかった言葉の先は、もう来ない。代わりに来るのは、公文だ。
朝日がまだ窓の向こう側に隠れている薄明の中、侍従の持つ封筒盆の上で、深い茶色の蝋だけが、光を失わずに静かに光っていた。
それが全てを言っていた。昨日の食卓の冷えは、これからの序章だったのだ。期限が、来た。
「開けるのですか」
「開ける」
彼は手を伸ばす。彼の指先が、わずかに止まった。その1拍だけが、彼も迷っていることを示していた。
けれど彼は、文を開く。
赤い蝋片が白い紙に落ちた。落ちた先で、私の名前と、3日という数字が見える。
「3日か」
彼の呟きが、部屋の空気を切った。
侍従が細筆を走らせる。その筆音だけが、静かに部屋を満たす。
私は無意識のうちに、椅子の端に落ちた割れた封蝋片を、大きさ順へ揃え始めていた。場は冷えているのに、指だけが、いつもの職業病で動いている。その違和感が、この瞬間だけ、唯一のくっきりとした現実だった。
3日。
その3日の間に、私は何を選ぶのか。誰と向かうのか。それとも、一人で。
昨日「私は……」と言いかけた言葉は、もう言う必要がない。代わりに、期限が、全てを言い切っている。
開く前から、汚れた封蝋だ。けれど、開かない選択肢ももう、ない。
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