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「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第2部 辺境の居場所/噂で壊れる 第5章 噂は恋ではなく、権限を狙う

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第16話 椅子を一つ、わざと空けた。

 食卓の真ん中に、皿は2枚。けれど間に、白い空白がある。誰も座らない椅子が、私たちの間の距離を測る定規みたいに立っていた。

 私は席次メモを置き、指先で線を引いた。客の席、主人の席、その隣。線は簡単に引ける。難しいのは、線の内側に心が入ってしまうことだ。


「守るためです」


 言った瞬間、舌が苦い。守る、という言葉は便利で、残酷だ。


「……だから、離れます。社交会まで」


 5日。あの場に出れば、噂は公認の形を取る。出なければ、噂は事実の顔をする。どちらでも、彼の名が動く。――そして私の肩書も、勝手に値段を付けられる。

 リュシアンは拒む言葉を飲み込み、代わりに政治の声を選んだ。


「必要な……手順だ」


 必要、と言い切れない。彼も同じだ。必要と言えば、私はここに居続けていいと思ってしまう。心が、先に走ってしまう。

 空けた椅子が、寒い。

 皿は完璧なのに、距離だけ冷える。味が落ちるのではない。沈黙が、料理の上に降る。


 彼がふと、挨拶文の下書きを手に取った。社交会の招待状に添える短い礼状――私は柔らかい言葉を選んだはずなのに、彼は赤鉛筆で容赦なく直していく。

『本件につき――』

 報告書みたいな1文に変わっていく文字を見て、笑いそうになって咳払いで潰した。笑えば、この空白に負けた気がする。


 扉の外で、受領控えを切る音がした。高価な食材が届いたらしい。賄賂か、縁談の材料か。献立検討の試食名目なら通る。けれど記録(誰が何を受け取ったか)は残る。残れば、誰かが正式にできる。


 私は立ち上がり、空けた椅子を少しだけ引いた。ほんの数寸。けれどその数寸が、社交の世界では1段分の差になる。


「社交会では、料理で会話の熱を調整します」


 香りの強い皿を先に出し、弱い皿で沈黙を作る。熱い皿で笑いを誘い、冷めない皿で言質を取らせない。食卓は戦場だ。舌で人を測り、香りで思考を変える。それが、私の仕事だ。


 彼は「分かった」とだけ言い、皿を無意識に空けた椅子の方へ寄せた。2人分を真ん中に集める癖。守りたい癖。

 その動きを見たとき、胸に何かが詰まった。きつくて、熱くて、それなのに冷たい感覚。


 守っているのに、守られていないような。守られているのに、置き去りにされているような。その矛盾が、空白の椅子に形を成していた。


 いや。考えるな。感情は仕事を乱す。


「5日後までに方針を決めます」


 言ったのは私なのに、期限の刃は私の胸を先に切った。


     ◇


 部屋を出ると、廊下は静かだった。用務札の紙音もなく、侍従の足音もしない。

 それなのに、妙に視線を感じた。壁の端から、あるいは窓の向こう側から。記録される空気。


 私は帳面を持った。仕事に逃げるなら、今だ。

 厨房に向かう足取りは、いつもより速かった。


「戻った。社交会までの献立案、確認したい」


 厨房長ボルドーは、煤と油の腕を組んだまま、黙ったままこちらを見た。

 彼は何も言わない。それが、いちばん優しい返答だ。


 予定札を目で追っていると、ボルドーが小さく音を立てた。鍋の蓋が閉まる音。

 その蓋の向こう側には、5日分の食事が詰まっている。


「5日か」


 呟いてから、自分の言葉に気づいた。

 5日で、全てが変わる。あるいは、全てが変わらない。


     ◇


 夜が深くなった。

 記録室で帳面を開いていた。社交会の席次と、対応する料理の案。

 椅子の空白は、料理の序列にも影響する。誰の前に何を置くか。誰の隣に誰を座らせるか。

 それらは全て、権力図式を表現する手順だ。


 第1皿は香りの強いもの。馬鹿貝のスープに、白トリュフの削ったもの。季節の高価さと、王族好みの華やかさを同時に出す。

 第2皿は対比。冷たく、塩辛く。思考を研ぎ澄ます。

 第3皿は――


 指先が止まった。

 帳面の端を撫でる癖。消し跡を見つめる癖。

 ここに何かを書いて、消した。いや、まだ消していない。消すべきか、残すべきか。


「セレ」


 背後から、彼の声。


「話がある」


 振り返ると、彼は帳面を見ていなかった。私の顔を見ていた。

 その眼差しが、何かを覚悟している顔に見えた。


「5日後ではなく、明日。決めてほしい」


「……え」


「お前がいなくなれば、俺も──」


 言いかけて、彼は言葉を飲み込んだ。

 何か言いたいことがあるのに、言えない。言えば、彼女を決めることになるから。言えば、政治の道具にしてしまうから。

 その葛藤が、顔に出ていた。


 分かっている。彼の方が分かっていないくらい、私は分かっている。

 だから――


「5日後までに、決めます」


 私は帳面に向き直った。彼の沈黙を背中に感じながら。

 守られているのに、何かが冷えていくのが分かった。

 それが誰の責任なのか、考えないように書き続けた。


「社交会での料理は、2人の関係を表現するもの。それを、第三者がどう解釈するかを計算する。……そういう世界です」


 彼は何も言わなかった。

 言うことができなかったのだろう。


 5日。

 その5日の間に、全てが壊れるか、全てが始まるか。

 あるいは、全てが同じように見えながら、何かだけが根こそぎ消えるか。


 期限は刃だ。残り5日は、もう決まった道を、ただ歩くだけなのかもしれない。

読んでいただき、ありがとうございます。


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