第14話 呼び名が喉で引っかかる
午後の紅茶は、仕事の切れ目にだけ許されるはずだった。
そう帳面の端に書き足したのは、ここへ来て3日目。15時、紅茶。砂糖1。焼き菓子は要相談。要相談、という逃げ方が自分らしいと思って、少しだけ苦くなる。
白い小皿が、音もなく私の前に滑ってくる。焼き菓子が1つ。粉糖が落ちないように、縁ぎりぎりで止められている。給仕の手首が揺れない。訓練の癖だ。
「不要です」
口が勝手に言った。いつもの癖だ。余計なものを受け取れば、受領控えが増える。記録が増えれば、誤差が増える。誤差が増えれば、誰かが責任の名で私を呼ぶ。記録官ですので、と説明するまでもなく、体が拒否を選ぶ。
けれど差し出した指は引かれない。辺境伯リュシアンは、皿の端を押さえたまま、こちらを見もしないで紅茶を口にした。沈黙が、拒否より強い。
給仕は1拍だけ止まり、次に私の皿を見て、彼の皿を見る。視線だけの確認。承認。
——噂は、こうして食卓の上で増える。その仕組みを見てしまった瞬間、息がちょっと詰まった。
私は帳面を閉じる指先で、紙の端を撫でた。消し跡のある行が、見えないのに浮かぶ。公の行は消せる。けれど、消せない行がある。指が無意識に触れるのは、まだ覚えているからだ。
扉の外。用務札の紙音。入退室台帳をめくる乾いた音。その隙間から、笑い声が弾ける。
「——あの記録官、囲われたの?」
薄い声。薄いのに、よく切れる。誰かがわざと囲うという言葉を選んでいる。恋の噂に見せて、権限の匂いを混ぜるやり方だ。
給仕が視線だけで確認を繰り返す。彼女の皿。彼の皿。間に何があるか。その視線の往復が、単なる給仕ではなく、何かの証言に変わり始めている気がした。
彼の左手が、カップの取っ手で1拍だけ止まる。
昨日の私なら見落とした。けれど私は、止まる1拍が「緊張」ではなく「安堵」だと知ってしまったばかりだ。彼が胸のどこかで息を整えて、次の呼吸へ移る。その一瞬が、こんなに明確に見える自分に、戸惑う。
胸が温かくなる前に、冷たいものが背に触れた。
侍従の視線。給仕の承認。用務札の音。すべてが重なって、この食卓が「2人だけの場所」ではないのだと、改めて知らされた。
「……食べろ」
彼の声は短い。命令に聞こえるのに、不思議と押しつけがましくない。皿を押さえる指が、ほんの少しだけ緩んだ。逃げ道を残す癖。
私は、受け取らない。受け取れば、誰かが「受け取った」と書く。受け取らなければ、誰かが「拒んだ」と書く。どちらでも行は残る。筆は動き、記録は増え、噂は食卓から廊下へ、廊下から厨房へ、いつかは王都へ届く。その道筋が見えるようになってしまったのは、記録官だからかもしれない。
だから——私は、帳面を取った。
仕事へ逃げる。いつもの癖だ。気持ちを業務に変える。手順に逃げれば、感情は記録にならない。記録にならなければ、誰かの言質にはならない。その呼吸が、ここでは呼吸のまま留まる。
その瞬間、彼が呼びかけた音が落ちてくる。
「……セレ——」
咳払いに呑まれた。私の名は、喉の奥で止まったまま落ちてこない。けれど、今の音だけで十分だ。
給仕の手が、反射的に止まった。
——見ている。次の瞬間、その視線が別のどこかへ向かう。廊下へ、厨房へ。口から口へ、音から音へ、伝わっていく。
短くても、呼び名は呼び名だ。聞かれた。見られた。そして記録される。帳面には書かないだろう。けれど、誰かの頭の中には行が一つ増える。「15時、紅茶。砂糖1。焼き菓子は——要相談ではなく、彼が差し出した」と。
私は帳面の端を撫でるのを止めた。消し跡に指を置く癖も、意識して止めた。消すまいと思って消した痕跡が、それでもどこかに残るように、今の呼びかけも、彼の声も、完全には消えない。
彼は咳払いの後、何も言わない。言えない。言えば、その言葉自体が証言になる。沈黙が、ここでは正解だ。けれど沈黙には、温度がない。
紅茶は、もう温くなり始めている。
「本日の献立について、ご報告があります」
私の声は、いつもどおり平らだった。業務連絡。手順の音。記録官ですので。その言い切り方で、食卓は再び「2人の場所」から「執務室の一角」へ戻った。
彼が赤鉛筆を握るのが、視界の端に映った。礼状の下書きに、容赦なく直線が引かれる。『本件につき』。報告書みたいな1文に。照れを政治語で隠す。
扉の外では、受領控えを切る音がした。高価な食材が届いたらしい。賄賂か、縁談の材料か。献立検討の試食名目なら通る。けれど記録は残る。残れば、誰かが正式にできる。
私の指が、紅茶のカップに触れた。もう温い。温い紅茶を飲むことさえ、今は誰かに見られている。砂糖1がいくつ入ったかも、焼き菓子を拒んだのは理由があるのか、それとも単なる癖なのかも、全部が問われる時代へ向かっている。
呼び名が喉で引っかかったのは、彼の不器用さだけではない。その音が、何の許可ももらわずに、誰かの耳に落ちたからだ。
今の1拍——誰が聞いて、誰が写す?
その問いだけが、紅茶の湯気の中で繰り返される。
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