表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
「連載版」「献立なんて誰にでも組める」と婚約破棄された宮廷の配膳記録官ですが、帳面72冊が止まったら王宮の食卓も止まるようですよ  作者: 夢見叶
第2部 辺境の居場所/噂で壊れる 第4章 封のある文──開けないほど怖い

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

11/24

第11話 届くまで48刻、何で繋ぐ

 香りが足りない。

 

 鍋に火を入れる前に、セレスティーヌはそれを嗅ぎ分けた。塩はある。酸も作れる。だが、香りの核がないと「間に合わせ」はただの我慢になる。彼女は棚の前で立ち止まり、指で数えるように空気を撫でた。いつもなら、ここで小さな瓶が鳴るはずだった。

 

 無い。

 

 それだけで、今日という1日が薄くなる。

 王宮にいた時、この「足りない」は許されなかった。献立は完全であるべきで、欠けが出ればそれは記録官の失敗として記された。だから彼女は事前に5段階の代替案を用意し、誰にも気づかせずに献立を整えてきた。5年間、そうやって戦ってきた。

 

 ここ辺境は違う。不足は日常で、それでも回すしかない。だからこそ、「足りない」を前提にした献立を組む方法を、彼女は学び始めていた。


     ◇


 倉庫番が申し訳なさそうに樽を叩く。その音は澄んでいて、樽の中身が少ないことを素直に告げていた。

 

「次の荷は、48刻後です」

 

 セレスティーヌは眉をひそめたまま頷いた。48刻。王宮なら一通の文で済む距離が、ここでは火と風と泥に挟まれる時間になる。2日。その間に、誰かが倒れるかもしれない。季節が変わるかもしれない。何かが壊れるかもしれない。48刻は「短い」と言うには、あまりに無防備だ。

 

 彼女は紙に線を引く。香りの代わりに焼き目。焼き目の代わりに酸。酸の代わりに塩。足りない穴を、別の穴で塞がない。別の形に組み替える。その時、ペン先が紙に触れる音だけが、台所の中の証拠になる。

 

 ――足りないなら、足りない献立にする。

 

 言葉にした瞬間、少しだけ胸が軽くなった。逃げてきたのに、また戦っている。その事実が、逆に彼女を生かす。


     ◇


 市場へ向かう途中、布袋の小銭が掌で鳴った。

 

 リュシアンが机の端に置いた、あの無言の許可だ。彼女は借りの重さを数えそうになり、慌てて歩幅を早める。

 

 生活に借りはつきものだと知っているのに、彼から受け取ると妙に息が詰まる。なぜなら、王宮では「許可」は必ず「代償」を呼び込む言葉だったから。しかし彼の許可は違う。短く、静かで、まるで「当たり前」のように下りてくる。

 

 市場の並びは限られている。選べない市場で、それでも選ぶしかない。ここは王都ではなく辺境で、時間は金よりずっと重い。セレスティーヌは倉庫番の口癖を思い出しながら、手に取る品を決めていく。香りの代替は梅酒の漬け液。焼き目を深くするには蜂蜜。塩辛さは塩漬けの魚。全部が全部、「本来はこれじゃない」のに、その「じゃない」を言い訳にしない。

 

 ペン先が宙で止まったあの感覚が、ここでも身体に残っていた。書きたいと思う瞬間、それが誰かに見つかる可能性。記録が「証拠」に変わる可能性。だから選ぶ。選ぶことで、その選択に自分を込める。

 

 商人は「足りないんだな」と一度だけ口に出しかけて、黙った。彼女の指先の動きを見れば、足りないのではなく「足りない前提で何かを作っている」と気づいたのだろう。その気づきが、奇妙に温かく感じられた。


     ◇


 中庭で、リュシアンが伝令を呼び止めていた。

 

 彼は何も聞かない。ただ、彼女が書いた紙の線を一度見て、頷き、別の紙に短く命じる。その指の動きは無駄がなく、決定が決定として形を保つ。王宮で見た「命令」のような軽さではなく、もっと重い。現場が動く「まで」を見ている目だ。

 

「回せ。届くまで」

 

 伝令の顔が曇る。

 

「道は荒れています」

 

「それでも」

 

 一言だ。

 

 その言葉は命令というより「諦めるな」という静かな強さに聞こえた。

 

 雨が降れば泥に足を取られる。雪なら、戻れない。偶然はいつも、生活を楽にする方へは転がらない。けれど彼が伝令に何かを渡すのが見えた。小銭ではなく、何かもっと重いもの。信任。導線。「このルートを回す」という意志。それは同時に「セレスティーヌの献立を守る」という意志の形見だった。

 

 セレスティーヌは立ち止まり、それを見守ることしかできなかった。彼の背が荷物を与える時のそのだけ気遣いが、どうしようもなく厳しく見えた。そして同時に、優しいと感じるのが怖かった。優しさは約束で、約束は破裂する。王宮でそれを知った。


     ◇


 夕方、食卓に並んだ皿は、王都の華やかさとは違う。

 

 けれど温かい。

 

 セレスティーヌは「勝てた」と思ってしまい、すぐにその思いを叱る。勝ちと呼べるのは、明日も同じ皿が出せた時だけだ。不足との闘いに終わりはない。終わったように見えるのは、次の不足がまだ見えないからにすぎない。火が燃え続ける限り、炎は止まらない。48刻は猶予ではなく期限だ。次の補給までの時間は、同時に「失う可能性のある時間」でもある。

 

 彼は「旨い」とは言わない。だが皿を残さない。小菓子に目を向け、不要だと言いかけて黙る。その言い切れなさが、彼の弱さであり、そして彼女をもっとも揺らがす証拠だった。指先が無意識に手に触れたのは、その言い切れなさを「必要とされている」と翻訳しているからだ。

 

 彼女が真顔で「不要なら残してください」と言うと、彼は残せなくなる。

 

 たったそれだけで、喉の奥が熱くなる。それは感謝ではなく、もっと厄介な感情だ。「必要とされる」というその一点だけで、彼女の身体は「ここに繋がっている」と信じてしまう。王宮でも同じことが起きた。だから5年間、あの場所に立ち続けることができた。そして、あっけなく切り捨てられた。今また同じことが起きている。その循環が彼女の内側で回り始めている。


     ◇


 執務室から戻った彼は、机の隅に来たばかりの文を見つめていた。

 

 封蝋が厚い。紙が硬い。王宮の格式が文字通り重いものとして、机の上に落ちた。その差し出す者の手が、いつもより震えていたのを彼女は見ていない。見ていないのに、その文が「何か」を告げていることだけは、空気の歪みで分かった。透き通った空気が、ほんの一筋濁る。その濁りが何を意味するのか、彼女は知りすぎていた。

 

 彼の指が封蝋の端を触れ、一瞬だけ止まる。その止まり方は、昨日彼が食卓で見せた沈黙と同じ質だ。言葉を飲み込む、その深さ。選択を迫られ、選ばない、その重さ。48刻の間に、またあの沈黙に出会うのか。その繰り返しが、彼女の指先を冷たくした。

 

 小さな恐怖が、指の関節一つ一つに刻まれていく。

 

 開けない。

 

 彼がそう判断したことだけは、距離を隔てて伝わってくる。彼は机の隅へ、未開封のままそれを置いた。見えない刃は、見えないまま研がれ続ける。


     ◇


 台所へ戻ろうとしたセレスティーヌは、見てしまう。

 

 執務室の入口から、その文が微かに見える。封の輪郭が、生活の机に乗っている。王都の匂いが、湯気の上に落ちる。その文が増えるたびに、机の端は侵食される。1日に1通か、それ以上か、48刻で何通増えるのか、彼女には計算できない。

 

 ――ここは、私の居場所のはずだった。

 

 ここでなら、献立を「誰かのため」じゃなく、「自分のため」に組み直せるはずだった。王宮で言い切れなかった言葉を、ゆっくり時間をかけて、形にしていくはずだった。彼との距離も、少しずつ詰まっていくはずだった。ただここでなら、「必要とされる」ことが壊れない世界があるはずだと信じていた。

 

 そう言い切れないまま、指先が宙で止まった。

 

 48刻。

 

 その間に、机の隅の未開封がもう一通増えたら――この温かさは、何で繋げばいい。勝ちが揺れた。小さな幸福は、公の封の重さで一瞬で紙のように裂ける。セレスティーヌは知っていた。王宮でそれを何度も見てきた。最初はほんの小さな文が1通。次の日には2通。1週間で机の端が塞がる。1か月で決定になる。そしてその決定の中には、いつも「あなたはもう必要ない」という文言が隠れていた。

 

 彼はそうさせまいとしている。開かずに、積まずに、邸の秩序を守ろうとしている。だからこそ、開かない選択が怖い。言葉を飲み込んだあの一拍。見つめたあの沈黙。彼が「何か」を判断した痕跡だけが、台所の奥でセレスティーヌの指先を止めている。もし彼が開いたら、その中には何が書かれているのか。彼女を守る言葉か、それとも切り捨てる言葉か。開かずに置くことで守っているのなら、いつまでそれが続くのか。

 

 ――では、それまでに、何をしよう。

 

 その問いだけが、台所の暗さの中で、彼女の心臓を打っている。

 

 明日も、香りの献立を繋げるのか。それとも次の荷が届く前に、机の上は「私の居場所」ではなくなるのか。

 

 48刻で、全部が変わる可能性が、彼女の指先を止める。わずか2日で、世界は塗り替わる。その2日を、彼女は何で繋げばいい。皿と火と約束だけで、十分だろうか。

読んでいただき、ありがとうございます。


よければブックマーク・評価・いいねなどしていただけるととても嬉しく思います。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ