2-3
きっかり10秒ぐらいは経ったと思う。
フェリノスは握手を諦めて、くるりと身を翻して道を開ける。旅行鞄を手に取る前に、それがふわりと宙に浮いた。まるで私が魔法を使ったかのような現象に、一瞬目を瞠ってしまった。
慌てて取り繕って、握り締めていたスカートのすそを正すように叩いたあと、堂々とした足取りでフェリノスが開けてくれた道を歩く。ふよふよと私の後ろをついてくる鞄。
(もしかして……私がアリアストラだとわかっていてやってるのかしら……?)
嫁ぐ前の一か月でエルヴノール領の情報をあらかた頭に詰め込んだのだが、彼らは主従関係がとてもシビアであり良好なようだ。魔力の高い主人にあてがわれたのが魔力のない人間だとわかれば、城内で反発が起きる可能性だってなくはない。もしかしたらフェリノスはそれを見越して、私に魔力があるように見せかけている――……わけないか。変な勘繰りはよそう。
城内に足を踏み入れ、使用人とすれ違うたびに、何人かは怪訝な顔をしていた。やっぱりわかる人間がいるのだろう。
(参ったな……。予想外に〝わかっていそう〟な人が多すぎる。余計な争いはうみたくないのだけれど)
使用人の立場から、フェリノスに話を通すことなく王国へ通報することは考えられない。わかる人間がいたとしても、フェリノスが私を妻として認めてくれさえすれば、私の立場は盤石とまではいかなくても守られる……と、信じたい。
婚姻の儀は5大公家は『木』のシルヴァ家から始まり、『火』のイグドラン家、『土』のバルドラ家ときて『金』のヴィレオン家、そして『水』のエルヴノール家の順番に執り行われる。
婚儀の形や招待客の数など自由であるものの、2人きりで挙式を行う場合でも必ず大司教を呼び、目の前で「誓いの言葉」を聞かせ、誓いの証である結婚証明書にサインをしたものを王に提出するという決まりがあるのだ。
今回はヴィレオン家とエルヴノール家の婚姻なので、4番目に婚儀が行われる。挙式は12日後だ。
12日間は長いけれど、なんとかこの空気に耐えて大人しくしていよう。
緊張しっぱなしの心臓をなんとか落ち着かせ、連れてこられたのはフェリノスの居室と内扉で繋がった部屋、つまりは奥方が使う部屋である。
壁紙から家具、敷物まですべて白と金で統一されている。ヴィレオン家を尊重してくれている色合いの部屋に、やっと私の心は落ち着きを取り戻した。
「この部屋を使ってくれ。御手洗いも湯殿も奥にある。湯は用意させているから、今日は温まってゆっくり休んでくれ。夕飯は君の部屋に持ってこさせよう。今、君の侍女を――」
「あ、いいえ。手伝いの人間はいりま……いらないわ。私ひとりでできますから」
もし、私に魔力が無いとわかる侍女になってしまったら大変だ。挙式前に大事にはさせたくない。バレたくないのは無理があったとしても、バレないように工夫することはできる。避けられるものは避けるが吉だ。
だがフェリノスは私の思いとは裏腹に、指をパチンと鳴らして廊下に待機していたのであろう侍女を呼び寄せてしまった。
目の前に現れたのは、うなじの位置で一つに束ねられた赤毛の三つ編みを肩から垂らし、そばかすの似合う可愛らしい丸顔、菫色の美しい瞳。年は私よりも少しだけ上に見える。
緊張気味に笑いかけてくれた彼女が恭しく頭を下げた。
「初めまして、奥様。リナリアと申します。今後はどんなご要望も私にお申し付けください」
「――フェリノス様」
「女主人になる君に侍女をつけないなど、周りに示しがつかない。君の立場を守る為だ。辛抱してくれ」
わかってくれと目顔で言われてしまい、言葉を飲み込んだ。
立場を守る為と言われれば黙るしかない。フェリノスの顔を立てるためにも、ここは大人しく従っておこう。
「……わかりました」
「……。何かあったら内扉をノックするといい。たいていの場合、俺はここにいるから。それじゃあ、また明日」
そう言いながら、私の部屋を通って内扉を開け、隣の部屋に去っていくフェリノスの背中を呆然と見つめた。
(……ここを……通っていくのね……)
いったん外に出るとかじゃないんだ。まぁ、夫婦になるのだから、別に変なことではないのでしょうけれど。
気持ちを切り替えて、リナリアに向き直る。何か話したそうにそわそわしている様子だが、よそから来た人間というのもあって、距離を測ろうと気を遣ってくれているのだろう。
なんとなく悪い人ではないというのが理解できた。
「えっと、初めまして、リナリア。これからもよろしくね。さっそくで申し訳ないのだけれど、湯浴みをしてくるわ」
「お手伝いいたします」
「いいえ、大丈夫。ごめんなさい、ひとりでゆっくり入りたいの」
「そういうことでしたら……では、頃合いを見て夕飯を運んでおきますね。御用がございましたらこちらのベルを鳴らしてください。私に直接知らせがくるように魔法を施していただきましたので、飛んで参ります」
「わかったわ。ありがとう」
それではと短く挨拶をして、部屋から出ていくリナリアを見送る。ぱたんと扉が閉まって、近くにあったソファに沈み込むように深く座った。