最終章 ヒミツの秘密
供述によると、二宮が佐貝を殺害したのは、番組が始まる直前の午後一時ごろのことだった。トイレに行く振りをして打ち合わせ中のスタジオを出ると、現場となった控え室へ向かい、部屋にあったベルトを使って佐貝を絞殺、すぐにスタジオへと戻った。動機は、過去の――若気の至り、では済まされないほどの、あまり褒められたものではない付き合い方をしていた――複数の女性関係の証拠を週刊誌に売る。それが嫌なら……と恐喝を受けていたためだったという。二宮は昨年、助演したヒット映画での演技が注目され、ようやく下積み時代から抜け出せそうな、タレントとして大事な時期だった。佐貝の担当タレント、益田と新潟のテレビで共演することを知り、キー局ではなく、地方局であれば、あまり人目もなく、犯行に及びやすいだろうという算段が働いてのことだったそうだ。佐貝と二宮は、過去に、いわゆる“やんちゃ”をしていた仲間同士だったという。
丸柴刑事と中野刑事は、二宮を連行するため本部へ戻り、理真と私は二人、局のロビーでコーヒーで一服していた。
「それにしても、理真、どうして二宮さんが犯人だと分かったの?」
「まず、メッセージが書かれた床が綺麗に拭かれていた、ということに疑問を外せなかったから。普通に考えて、あり得ないでしょ」
「まあ、確かに」
そのことが、二宮犯人説にどう繋がるというのだろうか。
「でも、実際、現場にあったペン先からは、床に散らばったパウダーは検出されなかった。これは、もう、私がどう思おうが認めるしかない」
「だよね。ペン先にパウダーが付着していない以上、そのペンはパウダーが拭き取られたあとで使われたに違いない」
「でもでも、理解はしたけれど、やっぱり納得はいかない。だから、私はこう考えた。そもそも、順番が逆なんじゃないか、って。今際の際にある被害者が、わざわざ床を拭ってからメッセージを残すなんて考えられない。だったら、メッセージが書かれたのが先で、床が拭われたのは、そのあとなんじゃないか、って」
「そうだったとしても、やっぱりペン先にパウダーが付着していないのは、おかしい」
「うん。だから、それに答えを出すには、こう考えるしかない。ペンは二本あったんじゃないか。つまり、パウダーが散った状態で使われたペンと、パウダーが拭われたあとで使われたペン、の二本が。どうしてそんなことをする必要があったのか。ペンなんて一本あれば事足りるのに。パウダーを拭う前後で、わざわざペンを変えることに意味が見いだせない。これについて私は、最初のペンが使えなくなったからじゃないか? そう考えてみた」
「それなら、ペンが二本必要になってもおかしくない、というか、自然だ」
「でしょ。で、じゃあ、ペンが使えなくなるって、どういう状況? まっさきに思いつくのは、ペン先が乾いてしまったから」
「ペンあるある、だよね」
「だね。でも、ペン先って、数分かそこらで乾ききってしまうようなものじゃない。だから、最初のペンが使えなくなるまでには、結構な時間を要したはず。だから、順番を考えると、こうなる。まず、一本目のペンで、パウダーが散らばった状態の床にメッセージを書く。しばらく放置される。それから――ペン先が乾ききるくらいの――時間が経ってから、床を、正確には、メッセージが書かれた箇所を拭ったうえで、別のペンが用いられる。ここで新たなペンが出てくるからには、それは何かを書く目的で登場したはず。あそこで書くものって、ひとつしかないよね」
「ダイイング・メッセージ」
「そう。つまり、あのダイイング・メッセージは、二度書かれている。しかも、二度目は、最初に書かれたメッセージの上のパウダーが拭い去られた状態で」
「それに、どんな意味が……?」
「書かれたものを拭うって、目的はひとつしかないと思わない?」
「目的……あっ! もしかして、メッセージを消すため?」
「そう。でも、あのペンは油性だから、ちょっとやそっと拭っただけで消せるわけがない」
「専用の薬品でもないとね」
「そして、最後、二度目のダイイング・メッセージが書かれる、というか、書き足される、と言ったほうが正解かな」
「書き足された……」
「いま言った一連の状況から、現場で何が行われたのか、見えてくるよね」
「見えてくるもの……」
理真は、ブラックコーヒーをひと口すすってから、
「まず、午後一時、二宮さんが現場となった控え室を訪れて、佐貝さんを殺害。トイレに行っていた、という口実で抜け出てきたため長居は出来ない。佐貝さんが絶命したことを確認して、すぐにスタジオへ戻る。でも、実際は佐貝さんはまだ生きていた。犯人がいなくなったことは分かっていたので、最後の力を振り絞って、ペンを取り、床にメッセージを書き記し、そこで、ついに亡くなってしまった。そのときは、まだ床にパウダーが散った状態だったから、使ったペン先にはパウダーが付着した。
午後三時。生放送を終えた二宮さんは、再び現場へ向かう。何か証拠を残してしまっていないか、確認のためだったんだと思う。そこで控え室に入った二宮さんは、とんでもないものを見てしまう。自分の名前が、途中まで書かれたダイイング・メッセージをね」
「途中まで?」
「そう。最後の力を振り絞っても、佐貝さんは犯人の名前を完全に書ききることは出来なかった。佐貝さんが書けたのは、“ニノミヤ”の最初の二文字、“ニノ”までだったんだよ。でも、犯人に脅威を与えるには十分だよね。こんなものを放っておくわけには絶対にいかない。二宮さんは、メッセージを抹消しようとして……」
「ハンカチか何かで、メッセージを拭い取ろうとした! でも」
「そう。油性インクがそんなことで拭い取れるわけがない。二宮さんの行為は、シュガーココアパウダーが散った床を乾拭きするだけに終わった。拭き取るのが無理なのであれば、次に取るべき手段は、メッセージを判読不能なくらいに塗りつぶしてしまうこと。二宮さんは、佐貝さんが使ったペンを取り、ペン先を床に押しつけたんだけれど……」
「ペン先が乾ききっていて、インクが出なかった! 犯行から二時間半近くもキャップを閉めない状態で放置されていたから!」
「部屋に他のペンはない。となれば、別のペンを用意するしかない。このペンは各控え室に常備されているものだから、二宮さんは自分の控え室に行き、書ける状態のペンを持ってきた。さあ、これでようやく、やっかいなメッセージを塗りつぶす作業に取りかかれる、と思ったんだけれど、さらなる困難が待ち受けていた」
「困難って?」
「書かれたメッセージがあまりにも大きかったからだよ」
「そういうことか!」
現場で見た、あのダイイング・メッセージは、ひと文字の大きさが二十センチ真四角くらいの大きさがあった。
「たぶん、二宮さんは、そのあとも仕事が控えていて、すぐに次の現場に向かわなければならなかったんだと思う。こんな大きな文字を、何が書いてあったか判読できなくなるまで丹念に塗りつぶしている時間なんてない。そうなると、最後の手段を取らざるを得なくなる。短時間に、かつ、メッセージを完全に消し去ってしまう方法、それが、元のメッセージに線を書き足すことで、最初とは全然別の意味に仕立て上げる、というもの。二宮さんは、“ニノ”の二文字の頭に“ヒ”を付け足して、“ニ”の中に横棒を一本書き足して、さらに、“ノ”の左側に短い二本の縦棒を加えることで、“ニノ”を“ヒミツ”に書き換えたんだよ。つまり、最初の質問、どうして私が二宮さんが怪しいと踏んだのか、というと、書き換えたうえで“ヒミツ”となる名前を持つ人が、関係者の中で二宮さんしかいなかったから」
「あの“ヒミツ”には、そんな秘密が……」
「二宮さんが、益田さんが以前使っていた芸名や、野寺さんが過去に組んでいた漫才コンビの名前を知っていたのかは分からないけれどね。もしかしたら、“ニノ”を何か別の意味のある言葉に仕立てあげようとして、咄嗟に考えついただけだったのかも」
のちの聴取で、二宮は、益田に罪を着せるための工作だったことを証言した。彼が本名になる前の芸名を知っていたし、本番前に、益田も自分と同じように頻繁にスタジオを出降りしているのを見て、アリバイもあやふやになるだろうとの算段も働いたのだという。
「そうして、ダイイング・メッセージの書き換えを終えた二宮さんは、最後の仕事として、二本あるペンのうち、どちらを持ち帰るか、の選択を迫られた。本来、控え室に一本しかないはずのペンが二本も残っていたらまずいもんね。ここで二宮さんは選択ミスを犯してしまった。新たに持ち込んだほうのペンではなく、現場にもとからあったペンのほうを懐に入れてしまった。冷静に考えれば、極力現場をいじらないほうが自然だというのに、新しく持ち込んだペンのほうを現場に残してしまったため、本来であればペン先が乾ききっているはずのペンが、まだインクが出る状態になっているという異常な状況が出来上がってしまった」
じゃあ、もとからあったほうのペンを置いていったら、二宮は逃げ延びることが出来たのかというと、それも怪しいだろう。なにせ、二宮はどちらのペンも素手で触れてしまっていたためだ。そうなったら、どちらを残すにせよ、自分の指紋を消すためにペンを拭ったうえで、佐貝の指紋だけを残していくしかない。そうなったら、現場で理真も疑問視したように、不特定多数の人間が触れたペンのはずなのに、被害者の指紋しか付着していない、という異様な状況から逃れることは出来ない。この不自然なペンをきっかけにして、結局理真は犯人に辿り着いていただろう。殺人を犯してしまった時点で、すでに二宮は“詰み”の状態だったのだ。
「さてと」コーヒーを飲み干した理真は、両腕を上げ、大きく伸びをして、「夕ご飯どうする?」
「もう、帰って作る気力がないから、外食で済まそう」
「だね。丸姉に奢らせようと思ってたのに、聴取があるからとか、体よく逃げられたな……」
逃げたわけではなく、れっきとした業務だと思う。
私と理真は、安価でお腹いっぱい食べさせてくれる、古町の馴染みの食堂へ足を運んだのだった。