Really!? 06
何本目の煙草を吸い終わったのだろうか。ボックスの中は空だった。
愛車に美咲を取り残し、足を進めた方向に意味は無い。
五分、と告げた言葉にも。
五分なんてとっくに過ぎていた。
大きく息を吸い込んでから、足で踏み潰した煙草の吸殻を拾い上げる。
ポケットに入れていた携帯灰皿に吸殻をしまいながら、何時だったか吸殻をポイ捨てする俺を咎めたのが、美咲だったと思い出す。
煙草を吸うな、とは言わないと。新品の携帯灰皿を差し出しながら、ポイ捨てなんてマナー違反は見っとも無いから止めろ、と、吊りあがった目を更に吊り上げて言った。自分は煙草なんて吸わないくせに、きっと俺の為に買ってくれたのだろう、灰皿は、今でも俺の常用品だ。
道々、無意識に捨ててしまっていたのだろう吸殻を拾い上げながら、来た道を戻る。
美咲の家には、高校時代大学時代と当時の友人達と遊びに行った記憶がある。この道も、駅からの通路として何度通っただろうか。
おじさんもおばさんも顔見知りになり、友人としての信頼も勝ち取り、外堀を固めていながらも、本人の心だけは何時も掴める気がしなかった。
俺の事なんざ見ない視線に、何度焦れたかしれない。
ふ、と口元に嘲笑が上がる。
この関係が終わるのを、何より畏れていたのは自分だっただろう。
例えば俺のポイ捨てににしろ。不愉快であれ、道徳に背こうと、わざわざそれを非難して相手の不快を買おうという奴は居たためしがない。大抵見て見ぬ振りして、陰で物を言う位だ。けれど美咲は目を背けない。真正面から、己がどう思われようと、思った事を思ったままに口にする。
美咲の隣が、居心地が悪い筈が無い。
誰であろうと、美咲の歴代の彼氏だろうと、その気質を眩しく感じていただろう。
ただ。
その真正直さが時々、後ろ暗い己を責めている様で。
それが美咲から離れた理由だと語ったのは、俺の友人でもあった美咲の元彼氏だった。
そうして自信を失っていく美咲の脆さを、俺だけが知っていればいいと、浅はかにも思った。
美咲の愛情を得られなくても、友情を失う事は、きっと一生無いだろう。
もう、それに満足するべきなのか。
思った瞬間に、脳内に拒絶の言葉が浮かぶ。
出来ない。出来る筈もない。
触れた唇の温もりが、沁みた塩味が、何時までも消えてくれないのに。
しんと静まった住宅街に、黒い愛車の輪郭が見えてくる。灯りの落ちた美咲の実家に横付けした車。深夜で交通量は無いにしろ、二車が通り抜けられる程度の幅があるにしろ、長く止めておけば迷惑だろう。
そう分かっていても、歩むスピードは鈍いままだ。
助手席に目を凝らす。
あの勝気な美咲が流した涙。初めて見たそれ。
目一杯傷ついた顔。
もうそこに居ないだろう事は容易に知れてる。
それでも、と。
僅かに抱いた期待は、やはり、という絶望に変わる。
「……だよなぁ」
覗きこんでみても、居ないものは居ない。そんな事は分かってるのだが。
長い溜息を吐き出して、運転席のドアを開けようとして――俺は瞬間、戸惑った。
ロックが掛かっている。勿論かけたつもりも無いし、エンジンを止めた覚えはあっても、キーを取った覚えはなかった。
あらゆるポケットを探ってみても、あるわけが無い。
辺りを見回す。
探している人物は何処にも居ない。
こんな夜中にチャイムを鳴らせば家人の迷惑になる。もし美咲が善意でキーを持って出たのだとしても、それを保管してくれているのだとしても。
ポケットから携帯を取り出し、履歴に何時も残ったままの美咲の番号を選びとる。そんな事をしなくても、美咲の番号はソラで言える程に覚え込んでしまっているのだが。
呼び出し音は鳴り続けて、留守電のガイダンスに切り替わった。
二度目も、三度目も変わらない。
美咲では無いのだろうか。
そんな不安が頭を擡げて途方に暮れていると、手に握ったままの携帯がメールの着信を告げた。美咲だと分かる様に、たった一人変えている着信音が鳴り響く。
開いたメールのタイトルは、『鍵』。
こちらの電話に気付いているのだろう、ならばさっさと出ればいいものを。
ワケの分からない美咲の対応に、舌打が出てしまう。
本文は簡潔に。
『預かってる。公園にいる』
ああ、どうしてもこいつは。律儀にも最後通告を自分で告げなければ気が済まないのか。
こちらが隠せない感情を見つけると、困ったように顔を逸らすくせに。
でも、その真っ直ぐさが、俺は何より、愛しいのだ。
高校時代、美咲の家のすぐ傍の小さな公園は、ある種の、たまり場だった。うるさいと美咲の親に家を追い出された俺たちが、時間を潰すように騒いだ場所。
案の定、入口のすぐの街灯に寄りかかるようにして、美咲は居た。
その姿を見つけた瞬間、俺の歩みは止る。
美咲はただじっと、何とも言えない顔で、こちらを見ていた。
覚悟なんて出来ている筈が無い。
苦笑にも似た自嘲を片頬に浮かべて、俺は何でも無い事のように、言う。
「よお、好きだぜ」
例え、どんな形でも。
良く分からない男だ、と。
当時、何度思っただろうか。素行の不真面目な哲也が、あたしや友人連中とつるんでいた事が、時々不思議で仕方なかった。気が合ったのは確かだったけど、それが大学時代も社会人になってからも、ずっと続くなんてこれっぽっちも思わなかった。
好きだ、と。
軽く手を上げて、挨拶の様に言う。
その姿が、暗闇の中にぽっかり浮かぶ。
「……あんたが、」
掠れた声を吐き出して、ポケットの中で車のキーを忙しなく弄びながら、あたしは少し顔を俯けた。
「あたしの何が好きかなんてわかんないし、あたしは何時も、」
歴代の彼氏達にも、好かれている自信なんて無かったし。
立ち止まったままの哲也は、ふ、と小さく笑う。同じ様に手を両ポケットに突っ込んで、学生時代の彼の立ち居地そのまんまに、何もかも分かったような達観した冷めた視線をこちらに寄越す。
こいつは何時だって、あたしの隠した気持ちまで、見透かすようだ。
なのだから、今更嘘をついたって仕方が無い。
「でもあたしが、彼らを好きなんだから。それだけは確かなんだから。それで良いって、強い振りしてんのなんか、あんたは知ってたでしょうよ」
虚しさに蓋をしてこれまでやってきたのに、哲也はその虚しさを今頃指摘する。違う、今だから。
「だからあんたが苦手で、だけどあんたは特別だったのよ。だから続いた」
そうでしょう、と伺えば、当たり前の様に返る頷きの安心感。
「そんなあんたに、同じ気持ちを見つけようなんていうのが間違いだよね」
既に、誰とだって違う。既に、何も繕う事もなく曝け出しているのに。
全くタイプの違う哲也に、彼らの影を探すのが間違いだ。
哲也は、静かにこちらを見つめている。何を考えているんだか、何も考えていないんだか、良く分からない表情で。
あたしはその哲也の顔を見据えながら、ゆっくりと距離を詰めた。
誰とだって違う。誰とだって比べられない。
この恋を信じられない理由を、探す必要なんて、どこにもなかった。
「あたしは自信が無かった。だから、今まで、あたしは理由の無い愛情なんて、信じた事ないのよ」
ほのぼのとした笑顔が好き、とか。焦れるような距離感が好き、とか。あたしの名前を呼ぶ柔らかい声が好き、とか。そんなのは。
そうやって理由をつけるのは。相手の微かな愛情を探すのは。
そうやって言葉で確かめなければ、信じられない関係だったから。
「信じた事が、無いから」
あと一歩。
飛び込んで、しまえ。
「でもあんたは、信じていいんでしょう?」
ふ、っと。
頭上で、溜め込んでいたものを吐き出すような、どこか愉悦に綻ぶような、吐息が聞こえた。
苦いような、甘いような、煙草の匂い。
耳元を掠めた答えは、微かに震えていた。
背骨が軋むような強い抱擁に、甘く疼くような胸の痛みは伴わない。
でも、この居心地の良さと安心感は、他の誰にも抱かない。
未来は信じられない。
何時だって、恋の終わりはそこにある。
だけど信じられるものを、あたしは一つ、知っていた。
――死が二人を別つまで――
それ、になりたいのだと。
密やかに告げたあの日の哲也を、その眼差しの強さを。
その言葉に嘘は無い?
本当の、本当の、本当に?
――多分、その問い掛けに意味は無いのだ。