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1.光の蝶

 ヒラヒラと光の粒を放つように1匹の蝶が飛んでいました。時折吹く一陣の風にも煽られることなく、空で遊ぶように、空と戯れるように、まるで布をはためかせながら舞う芸妓のように、ただ優雅に飛んでいました。


 よく見ると蝶が舞う度、光の粒がふわっと発生しているのでした。生まれたばかりの光の粒はそのままふわふわとしばらくの間空を漂い、そのうちふっと消えてしまいます。


 他に光を放つものは、ただ空に浮かぶ三日月と瞬く星ばかりです。


 木々の影がより夜の闇を濃くしている森の中で、それは一際輝いて見えました。


ガサガサッ


 夜の森に相応しくない者がそこにいました。


 痩せ細り、あばらの浮いた童でした。


「ネズミ1匹、コウモリ1匹でもいい……何か見つけないと……」


 (ああ……肥えた鳥か、丸々太ったウサギを食べたいなあ)


「このままじゃ……オレもムツのようになってしまう……」


 ムツは、3ヶ月前に産まれたばかりの童の兄弟でした。


 でも、もうこの世にはいません。


 童は、数ヶ月前、村の大人達が深刻そうな顔で話していたのを思い出しました。


「オレんとこの麦はダメだ。全滅だ」


「とうとうヤムの畑の麦まで葉に黄色の模様が出てきやがったらしい」


「あそこは他の畑から少し離れているから無事だと思ったが……」


「しばらくするとあの畑も全部枯れるかもしれん」


「村の麦は全滅か……」


 その頃、村では麦の葉に黄色や茶色の斑ら模様が出てきていました。しかも、模様が出た麦はどんどん茶色に変色し、それから次第に枯れてしまったのです。


「麦ばかりじゃない、芋もてんでだめだ」


「麦も芋も。全部黒く茶色くなって枯れていく」


 でも、それで終わりではありませんでした。枯れてしまった麦の後に収穫時期を迎えるはずだった芋の葉や蔓までもが次第に段々と黒く変色し始めたのです。


「今年は飢饉か……リキたちが森で大物を狩ってくれるといいが……」


「最近、リキが狩ってくる獣の質も悪いじゃないか」


「あいつは今年嫁を貰ったばかりだからな。のぼせて腕が落ちたんじゃないか?」


「ははっ、言ってやるな。女に溺れる時期は誰でもあるさ。子でも拵えりゃ、そのうち落ちつく」


「それも今年の飢饉じゃどうせ飢えるだけってのがなあ」


「どうにもこうにも上手くいかねえな」


「それに、この間、久々にリキに駆り出されてたタモ爺も厳しい顔をしていたから、本当かもしれん」


「タモ爺引っ張り出してそれじゃ、森の中も相当厳しいな」


 (でも……森の中には食べ物があるかもしれないって言ってた……)


 童は怖いのを我慢し、森の奥をぐっと睨みつけました。


 今年村では麦が枯れ、それから芋の葉が黒くなり、作物の収穫がほとんどできませんでした。去年の蓄えは尽き始めたのに、今頃収穫できるはずだった穀物がほとんど手に入らないのです。それで、母は痩せて乳が出なくなりました。乳しか飲むことができない乳飲み子にとって、それは致命的でした。


 産まれた時は大きく泣いていたムツは、1ヶ月もすると徐々に泣き声が弱くなり、数日前、とうとう母の胸に吸い付いたまま事切れていました。


 その日の夕暮れ、父が畑から帰ってくると、父は童達を村の共同墓場に連れていきました。そこで童と父母は村の墓場の隅で土に小さな穴を掘ったのです。


 骨ばって土気色の顔をし、既に冷たくなっているムツを、母はなかなか離そうとしませんでした。


 父は口の端をムッと下げてただそれを見ていました。


「早くしろ」


「……はい」


 父がそう言うと、ようやく母は観念してムツを穴の中に入れました。父と童はムツに土を被せました。


 母は、土を被せることもせず、ただただ涙を流して立ち竦んでいました。こけている頬に何筋も伝わる水の痕を、童は何故か他人事のように見ていました。


 帰って床についた時、母が童に言ったのです。


「あなたは何をしても生き延びるのよ。何したっていい。生きてくれたらそれで」


 それはあまりにも小さな声だったので、独り言のようでもありました。でも、童はそれをしっかり胸に刻みました。


 父は居間で酒を飲んでいるようでした。


 (森にならもしかしたら……)


 だから童は両親が寝静まった後、夜の森に来たのでした。


 (ネズミかコウモリが手に入ったら、あと3日は飢えない。もう家に残ってる穀物は数えるほどだから……)


 森の中では木の根元に様々なキノコが生えていました。


 (キノコはダメだ。特にケバケバしい色や光っているのはダメ)


 何年か前、今年ほどではなくてもやはり麦に異変が起きて赤くなり、多くが病や飢えに苦しんだ年、村の子どもたちが集めてきたキノコで1人が死んだのです。


 (あのキノコは白い斑に真っ赤なやつだった……)


 その記憶はまだ童の中に鮮明に残っていました。


 (あいつ、オレの目の前で食事を吐いて、腹が痛いと家から出てこなくなって、それからしばらくして死んだ)


 死んだのは童の面倒をよく見てくれる陽気な若者で、あのキノコを選んだのも確か……


 (かっこいいから、だったな)


 調子のいい彼が、そんなことで他の若者たちより早く死ぬなんて。


 (キノコにかっこよさなんているかよ。ほんとバカだ。でも……他の大人たちも知らなかった。大人もバカだ)


 だから童は、どんなに生えていてもキノコを採らないのでした。




 その時童が森の中で出会ったのが、眩く光る蝶でした。


 (ん……?光?虫か。あれ?あれは……蝶……か?光る蝶?綺麗だな……)


 鮮やかなキノコにも惑わされなかったのに、どうしてでしょう。


 (待って……その光を手に入れられたら……!置いてくな……!お願いだ待ってくれ……!)


 童は何故か、その美しい光に魅了されてしまったのです。何かに取り憑かれたかのようにどうしても光が欲しくなった彼は、まるで誘われるかのようにふらふらと蝶について行きました。


 光の蝶は幾度も吹く風を気にする素振りもなく、逆に風を嘲笑うかのように美しく煌めきながら飛んでいきます。飛んだ跡は淡く光の筋となり、森を彩るかのようです。


 一刻も歩いたでしょうか、鬱蒼とした森の中にも関わらず、急に開けた場所に出ました。そこには立派な一軒の家が立っていました。


 (これは家……?大きいな。これ、タモ爺が前に言ってた城ってやつか……?周りの塀ですらオレの家の屋根ぐらいまである。これ、別の村じゃないよな?)


 門は開いていました。その屋根付きの門は、それ自体が威厳ある姿で、大人ならば入るのに躊躇したでしょう。


 でも童はいつの間にか、蝶に導かれるまま、そこをくぐり抜け、広くて整っている庭まで入り込んでいたのです。


 中には城のような一軒の屋敷と、倉のようなものが一棟ありました。


 (倉……?)


 倉の扉は開いていました。


 だから童はつい、好奇心に負けて倉の中を覗き見てしまったのです。


 (これは……!芋か?芋だ!芋の入った袋が沢山置いてやがる!)


 そこには大量の穀物袋が並んでいました。中には童が1人で食べきれないほどの穀物が入っていそうな大きな袋が数百、いや数千はあろうかというほどに積み上がっています。


 (これ全部芋か……?)


 童は既に2日ほど殆ど何も食べていませんでした。


 (とりあえず中を見てみるか)


 それでつい、倉の中に入り、穀物袋に手を触れてしまったのです。


 すると突然、急に後ろが光り輝いたかと思うと、


「もし……」


と声が響きました。


 優しく甘美なその声の響きに、童は逃げることすら忘れてただぼんやりと振り返ったのです。


 そこには、今まで見たこともないほど、美しく綺麗な女が立っていました。髪は艶やかで、肌も村の女達とは比べ物にならないほど透き通っており、瑞々しさを感じさせます。


 (人間……?いや、きっとこれは話に聞く天女だ。こんなのが人間のはずない。オレより少し年上か?)


 童は見惚れ、まるで金縛りにあったかのように身動きすら取れなくなりました。


 (綺麗だな……)


 しかも、その女と童の距離は10歩ほども離れているというのに、何故か芳しい香りまで漂ってきます。


 (なんだか甘酸っぱい香りがする気がする……少し眠くなるような……)


「もし、そこのあなた……。その手に持っている袋を、どうかそのままそこに置いていってくださいませんか」


 美しい女が悲しそうにそう言ったので、童はとても申し訳ない気持ちになりました。


 (そう、だよな……これはここの家のものだ。この女にも悪い……よな。オレは迷い込んだだけの余所者で……)


 でもふと、こんなに多くの穀物があるこの家の者に、何故そんなことを言われなければならないのかという考えが頭をもたげたのです。これほどの山積みの芋は、この家の者たちだけでは食べきれないでしょう。


 (村じゃあんなに苦しんでるのに!なんでだよ!これがあればムツは……!あいつだって!)


 頭に浮かんだのは土に埋めた小さな乳飲み子と、陽気な若者の顔でした。


「ここには、こんなにいっぱいあるじゃねえか!少しぐらい分けてくれたっていいだろ!」


 童はそう言いました。すると、その女は白い顔を更に白くし、一層悲しさを増したかのように目を伏せ袖の衣で口元を隠しました。女が目を伏せると柔らかい曲線を描いているその睫毛の長さがますますハッキリと目立ち、より美しく見えます。


「その袋を1つ取ると1人が飢え、2つ取れば何十人も飢えます。この袋はそういうものなのです」


 童は女の言うことがさっぱり分かりませんでした。


 (何言ってんだよこいつ!そんなバカなことがあるわけないだろ!ここには芋が沢山あるからってオレをバカにしておちょくりやがって!)


 食べ物はあればあるだけ良いのです。そうすれば誰も飢えません。当たり前のことではありませんか。


 だから童は、


「今日死ぬよりはマシだろ!」


 そう叫んだのです。


 すると美しい女はまるで幻のように消え、あたりはシンと静まり返りました。


 (消えた……?でもちょうどいい!今のうちだ!)


 暗い月夜の中、童は袋を1つ掴むと走って元いた村へと戻りました。


 (追っ手が来るか……?でも、あの変な女は消えたし、大丈夫だよな?)


 村には何も異変はありませんでした。次の日も。


 (村に戻っても何も変わってない。それに誰も追いかけてもこなかった。やっぱり、あの女が言ってたのはただの脅しかよ。びびらせやがって)


 袋にはよく育った芋が入っていました。


 (やたらでかい芋だな。しかも中もスカスカじゃなくて詰まってる。村の畑じゃ、こんなでかくなった芋は見たことがないな)


 童は袋を誰の目にもつかない場所に隠し、毎日1つずつそれを食しました。


 父や母にも言いませんでした。


 (父さんも母さんも、あれからもっと頬がこけてきたな。2人ともあの芋があれば……)


 そうは思いましたが、以前母が言った言葉を思い出したのです。


 (なんとしてもオレだけは生き延びるんだ)


 村ではその月にムツのような小さい子が何人か死んだのですが、童はその月を生き延びることが出来ました。


 ですが当然、盗ってきた穀物にも限りがあります。

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