その男、現れる
街に集まってくる民衆の群れは、まさに敗残兵だった。
まだ両軍はぶつかってすらいない。
最大動員数は優に二十万を超える大国──野国が攻めてきただけだ。ただそれだけで、周辺の人々は蹂躙を察したように助けを求めて逃げてきた。
「こりゃあ、終わりかもしれんな」
どこか楽しそうにそう言ったのはこの国の将の一人だった。
短く切り揃えたヒゲを触りながら厳めしい顔に微笑みを浮かべているが、具足を着こんで短槍を抱え、いついかなる時でも出陣できる準備が整っている。
「シバガキ殿、士気に関わる発言は控えてください」
シバガキと呼ばれた男の隣に立つ、子供のような背丈の女が冷ややかにそう諫言する。躰も薄く髪も童のように短く、しかし顔付きは妙齢のそれと変わらない。その右手に握られた神楽笛の存在も、余計に女を幼く見せていた。
「そう言うがな、アヅキ。言うのはタダだぞ」
「あの世にお金は持っていけませんよ。そんなこと気にしてどうするんですか」
「ゴネれば持っていけるかもしれんだろう」
アヅキと呼ばれた女は微かに口を開けて固まり、おもむろにかぶりを振った。
「……私は仕事に戻ります」
「うむ。そこの区画に十軒収まるように頼む」
頷き、アヅキは目の前に広がる更地を見やって神楽笛に唇を当てた。
竹で作られた笛が奏でる伸びやかでいて力強い音色は神に訴えかける。旋律は人の思いを神に伝え、律動は思いを制御する。
そして、それらが合わさり形を成したとき、自然神は自らの力を人に託して顕現し、現世を思うがままに変化させる。
その名を神術。
アヅキの演奏によって発動した神術は地面を隆起させ、巨人がこねているように大地が姿を変える。
そうして生まれるのは避難してきた民が使う仮設住宅だ。
土でできた粗末な家は雨風を凌げる箱に過ぎないが、それでも家を捨てて逃げてきた民にとっては必要不可欠なものだった。
「ご苦労さん。やはり楽師が一人いると楽でいい。雇って正解だったな。珍しくいい買い物をした俺を褒めてやりたいよ」
「遠慮しなくていいですよ」
「うむ。偉いぞ、俺!」
シバガキは大笑いして、しかし不意に表情を引き締めた。
「これで国主さまより任された仕事は終わりだ。お前にとっては初陣だというのに大変なことになったな」
アヅキがシバガキに雇われたのは一月ほど前、春も終わりの頃だ。穏やかな春空もどんよりとすることが多くなり、今日もまたいつ雨が降ってもおかしくない曇り空だ。はっきりと季節が一つ移ろったのを実感する。
それにも関わらず、アヅキはいまだにシバガキの変わり身の速さについていけなかった。基本的に能天気な性格をしているのは間違いないだろうが、一向に奥底を見通せない人だ。
「いえ、戦場においては土木工事こそが楽師の本業ですから」
「では今のねぎらいは訂正しておこう。勿体ないからな」
「そうですか」
つい、アヅキは素っ気なくそう答えてしまった。シバガキの言動に呆れたからではなく、先ほど建てた仮設住宅に入っていく避難民に意識を奪われたせいだ。
薄汚れた小袖を着ただけの、着の身着のままといった感じの家族は疲れ切った顔にささやかな安堵を滲ませ、親戚までもを引き連れた大所帯が狭い仮設住宅に押し合いへし合い入っていく。
決してそこだけの特例ではない。
どこを見回しても似たような光景が延々と続いていた。大勢の人間が集まって、攻めてくる野国に怯えながらも僅かな安息に心身を浸している。間違いなく騒がしくはあった。
それなのに、どこか静寂を感じてしまう。
「……やはり、負けるのでしょうか?」
「いずれは負けるだろう」
含みのある返答だが否定はしていない。アヅキは故郷にいる親や幼い弟妹のことを思い浮かべ、心の中でため息をつく。
その時、誰かが歌を口ずさんでいるのが聞こえた。
仮設住宅の隙間の暗がりに、少年が沈んでいる。涙を堪えるように目を瞑り、絞り出すように漏れるその音色を聞いていると、アヅキの躰は無意識に動いていた。
「放っておけ」
雇い主のその言葉は、アヅキには到底受け入れられなかった。間髪を入れず反論する。
「危険です」
神術とは神に語り掛けるもの。
その手段は音楽に限らず舞であろうとなんであろうと神に向けられたものであれば成立しうる。
普通に話しているだけでは神術が発動しないのと同じように、無軌道に行われた音楽で神術が発動することは滅多にないが、それでもその危険性ゆえに音楽や舞をみだりに行うことは法で禁じられ、正式に認められた楽師や神官だけの特権となっている。
特に人が多い場所であれば意図しない神術の発動は大事故に繋がりかねない。歌を口ずさむのは、盗みと同じように許してはいけない法令違反だ。
「人にはそういう時もある。飢えて死にそうな子供が盗みをするのと同じだ。誰が責められる?」
「ですが」
アヅキも意地悪で止めているわけではなかった。故郷を捨てざるを得なかった人を、自らを守る力のない弱者を、最後に守ってくれるのが法というものだ。勿論、法が必ず守ってくれるとは限らないが、それでも守ってくれる可能性はある。
しかし、罪を犯せばその可能性すら自らの手で摘んでしまう。だからこそ少年を思えば、歌を口ずさむのを許してはいけなかった。
「俺が許可する。それでいいだろう」
「……分かりました」
シバガキもまた少年を思っているのは理解している。それも雇い主の意思とあらば、アヅキもそれ以上食い下がりはしなかった。
そこで、霧雨が降っているのに気付いた。
時期が時期だけに仕方ないが、このまま雨脚が強まって長雨になれば、仮設住宅の用意が間に合わなかった避難民の生活が劣悪なものになってしまう。割り当てられた仕事は既に終わっているが、アヅキは追加の建設許可を求めようとして、シバガキが太い眉をひそめているのを認めた。
「騒がしいな」
そう言われて耳を澄ますと、静寂に感じていた一帯に不審な喧噪が流れていた。街道の方から起こっているらしく、シバガキが一足先に動き出す。
向かう先は街道沿いに開かれた臨時の市場だ。避難民が辛うじて持ち出してきた家財道具がずらっと並び、街の人間がそれを買い叩こうと舌なめずりをしている。
そして、そこに人々の注目がひときわ集まる場所があった。
「ごめんなさい!」
女の声が響くのと、アヅキが何かにぶつかるのは同時だった。
痛くはない。ぶつかったのは三才ぐらいの童女だ。アヅキが平均的な成人女性より小さいのもあって、童女は尻もちをつきながらもぼんやりとした表情でアヅキを見上げていた。
「ああ、ごめんなさい。服に汚れが」
母親らしき女に言われて自分の小袖を見ると、薄い青色の塗料が太ももの辺りについていた。それから前に視線を向けると、倒れた童女の手には花弁がぐちゃぐちゃになったツユクサが握られ、着ている小袖には兎に見えなくもない薄青色の模様が描かれていた。
アヅキは、ぐっと胃が重くなるのを感じた。
なんとか逃げた先で、幼女は恐怖や寂しさを紛らわせようと一人で絵を描いたのだろうか。三才児が人にぶつかって泣かなかったのも、心ここにあらずで泣く余裕すらなかったからなのかと思い至って胸が苦しくなる。
これが戦争だ。
それでも幼女の指先が赤い血ではなく、ツユクサの青に染まっているだけまだマシなのだろう。
「こちらこそごめんなさい。この程度気にしないでください」
霧雨に少し当たっただけで、太ももに付着した青色はもう滲んでいる。いちいち気にするような汚れでもない。アヅキは笑みを浮かべて童女を抱き起し、先に行ったシバガキを急いで追った。
「いいから全部寄越せよ!」
笑い声が、人の輪の奥から上がっている。木が折れるような音が響き、数人の男が楽しそうに喋っていた。
「か、勘弁してください。それを取られたら」
「うるせえっ!」
木が折れる音とも違う鈍い音が鳴った。
「てめえが弱いのが悪いんだよ。ぐだぐだ言ってねえで出すもん全部出しやがれ!」
声は聞こえても背の低いアヅキの視界は人だかりで埋まっていた。体躯を生かして強引に割って進んでいくシバガキの背中に付いていき、ようやく目の前が明るくなる。
「では、強ければ何をしてもいいのですか?」
今まで聞こえていた声とも違う、若い男の声が響いた。
僧侶のような頭巾を被った青年が、倒れた避難民を庇うようにゴロツキに立ち向かっている。しかしその躰の線は細く、背丈も人並みしかない。
さらに犠牲者が増えるのは明白だ。アヅキは神術を行使しようと神楽笛を構える。その寸前、シバガキの腕が視界に入ってきた。
「まあ待て」
ゴロツキたちとの距離は五間ほど、シバガキの実力であれば十分余裕をもって割って入れるだろう。アヅキは神楽笛を下ろして青年とゴロツキたちのやり取りを見守った。
「強けりゃ何をしてもいい。当たり前だろうが。逆に弱けりゃ何をされても文句は言えねえ。自然の摂理ってやつだ。堂々としゃしゃり出てきたとこご苦労さんだが、勿論てめえも文句を言えねえ側だぜ?」
ゴロツキの一人が拳を振り上げる。大仰なその動きは明らかに青年を脅そうとしたものだ。
しかし、青年は微動だにしない。
驕り高ぶっているわけでもなく怯えて動けなくなっているわけでもなく、飾り気なく泰然自若としている。
そして、向かってくる拳に笑みを浮かべるように口を開いた。
「では周りをご覧になるといい」
ゴロツキたちが周囲に目をくれた。
野次馬に囲まれている、それだけだ。見るまでもなかった当然の光景にゴロツキたちは顔を見合わせて笑い、再び青年に向き直った。
「だからなんだよ!?」
「野国が攻めてきた今、私たちは助け合わねばならない。それなのにあなた方は力を合わせるどころか野国と同じように力を振り回し、同胞たちを痛めつけている」
「羨ましいか?」
ゴロツキが歯を剥き出しにする。狼のように鋭い歯は黄色く光り、唇の端から涎が垂れた。
「それが強者ってやつだ」
「一対一ならそうでしょう。ですが、ここには同じような人たちが大勢いる。聞きなさい、この場にいる弱者たちよ!」
男にしては少し高い声は、喧噪にあってよく通った。不思議とざわめきがぴたりと止まり、誰もが青年の次の言葉を待っている。
「力とは数です! 全員が力を合わせればこの程度の数は敵ではありません。私が殴られている間に押さえつけてしまいなさい」
にわかに、観衆が殺気立った。それをアヅキは肌で感じ、ちらりとシバガキの顔色を窺った。
笑っていた。
とうの昔に元服を終えた男が、森で目当ての虫を見つけた少年のように純真無垢な瞳を輝かせて笑っている。
喧噪が戻ってきた。
アヅキが青年とゴロツキたちに視線を戻すと、それを囲む野次馬の輪が狭まっていた。戦いが始まる、そうなれば被害はゴロツキだけでは済まないだろう。
「……てめえ、その顔覚えたぜ」
一人がそう漏らしたと思うや、ゴロツキたちが一斉に走り出した。あっと言う間に人の輪を抜け出して尻尾を巻いて逃げていく。
「なんとか穏便に済みましたね」
アヅキの吐息交じりの言葉に返答はなかった。
「お見事!」
そう叫び、シバガキが頭巾の青年に走り寄っていく。
「俺の名はシバガキ・ツジヒロ。是非貴殿の名を教えていただきたい」
「セキソウ、とお呼びください」
シバガキの悪癖だった。
貴賤の区別なく誰とでも交わるといえば聞こえはいいが、気に入った者がいれば途端に私財を投げうつことも厭わなくなるその性格は、雇われているアヅキからすれば困った問題だ。
「怪我を負うことを恐れず悪漢に立ち向かう胆力、弁舌のみで退けてしまう知恵、このシバガキ感服しました。是非我が家にお招きしたい」
「いえ、大したことではありません」
セキソウと名乗った青年は相も変わらず平然としていた。常人であればかつてのアヅキのようにシバガキの態度に圧倒されて困惑しそうなものだが、その性格を初めから知っていたように冷静だ。
「謙遜されるな。あなたのような方こそこの国が最も欲する人材です」
シバガキが嬉しそうにそう言うと、セキソウもまた笑みを浮かべた。
「大したことではありませんよ。なにせ、全て私の自作自演ですから」




