昨日の自分にさよならを【8】
透一郎と香江の話。
往時より明らかに精度の落ちた明鏡止水の中で、梛と祐真が仇である悪魔を討った。梛が斬ったので、上條友哉から悪魔が剥がれ落ちたのを確認し、透一郎は魔力不足で気を失った。
そして、目覚めたのは三人の中で最後だった。最初に目覚めた梛はもう退院しているし、祐真もそろそろ退院予定た。三日前に目覚めた透一郎は、まだ体も起こせないでいる。魔力不足だけではなく、動かない足を無理やり魔法で動かした代償が全身に来ている。簡単に言えば重症の筋肉痛である。
かつて、足の不自由な魔術師が、自分の足を動かすために魔法で疑似神経を作り、無理やり足を動かすための術式を開発した。それを応用したのだが、開発者が示唆した通り、使用後の疲労感はすさまじい。
「あら、起きてたのね」
病室に現れたのは香江だった。彼女は、透一郎がここに運び込まれた時から彼の世話をしてくれているらしい。翌日には目覚めていた梛が教えてくれた。いつもなら梛が面倒を見にやってくるが、今回は彼女も重症だし、実は受験生でもある。だが、それ以前の問題で、愛する妹は兄の世話を香江に丸投げしてしまっている風に感じられた。
「体調が良ければ明日検査をするんですって。大丈夫?」
「……ああ」
うなずくと、香江が「わかったわ」と微笑む。透一郎、戸惑う。我ながら精彩を欠いているな、と思った。
香江は帰るときも、「明日も来るわね」と言って笑って帰る。うれしくてたまらないというように。その顔を見て、自分はまだ彼女のことが好きなのだと思い知る。
「……未練がましい」
自分から、突き放したのに。仇を討つために、切り捨てたはずなのに。巻き込みたくなかったというのもある。だが、彼女が側にいると、決心が鈍る気がしたのだ。
だがいざ、すべてを終えてしまうと、自分の中が空っぽになってしまった気がした。何がしたいとも思わない。梛も散々示唆していたが、燃え尽き症候群に近い気がした。
でも、ここで生きることをやめれば、置いていく梛や晴季が泣いてしまうだろう。いや、今の梛なら怒り狂って斬られる可能性もある。それを想像すると、少し面白かった。
香江も、泣くのだろうか。
そう思って、透一郎は目を閉じた。
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「兄貴ってさ、変なところで不器用だよなぁ」
透一郎をそう評したのは、今は亡き彰次である。二人とも道着姿で、水無瀬家の道場の縁側で休んでいた。道場の中からは、父が妹を鍛えている声が聞こえる。彰次は今の梛と同じくらいに見えたから、亡くなる直前のころだ。
「急に何だい?」
苦笑する透一郎の左目が見えているし、右腕も生身だ。今となっては懐かしい。この時点で、透一郎はこれが夢だと気づいていた。
「大事なことを言わないよな。これは梛もだけど、ほんとは、俺たちが『陽炎』に入るの、反対なんだろ」
このころ、彰次は『陽炎』の一員として夜の闇を駆けていたはずだ。二人の友人、祐真と弘暉も一緒に。
「俺たちの意思を尊重してくれてんだよな。でも俺は、兄貴に聞いてほしかったこと、たくさんある」
「……そうだったのか」
「そうなの。兄貴が何も言わないから、俺も言わなかったけど」
相手に言う気がなければ、どれだけこちらが言いたくても、口を閉ざしてしまうものだ。あの事件の後の梛がそうだ。……きっと、香江も。
「ま、俺も梛も、何言われても兄貴について行くけどな!」
「じゃあ意味がないじゃないか」
にかっと笑った彰次に、透一郎は思わず笑った。彰次は立ち上がって言う。
「俺も梛も、兄貴が大好きだからな!」
そう言うと、彰次は梛に手合わせしよう、と駆け寄って行った。透一郎は胡坐に頬杖をついて中の様子を眺めながら、なるほどな、と思った。大好きだ、と言い切った弟の言葉がうれしかった。今度、香江にも愛していると言ってみよう。そう思った矢先に、透一郎は家族の半分と身体機能の一部を失うことになった。
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場面が転換した。夜の塩湖に見えた。透一郎の明鏡止水が、塩湖を模している。これは、彼の心情風景なのだろう。
透一郎。
久しく聞かなかった、ともすれば忘れてしまいそうな声で名を呼ばれ、透一郎は目を見開いた。
「母さん……」
桐花は悲し気に微笑み、透一郎の頬に手を当てた。
ごめんね。頑張ったわね。
その言葉に、透一郎は膝から頽れた。パシャリと水が跳ねる水面にうずくまり、透一郎は泣き叫んだ。
「ごめん。ごめん! 守れなかった……! 父さんも、母さんも、彰次だって……!」
自分は強いのだ、というおごりがなかったとは言い切れない。結局、透一郎には家族を守り切る力がなかったのだ。そっと肩に手が置かれた気がした。
私も、お前たちを守れなかった。すまない。おいて行ってしまったな。
父の政義の声だ。透一郎は顔を上げられなかった。
「守れなかっただけじゃない……! 僕は、梛に、大事な妹に人を殺させようとした……!」
ごめん、ごめん、と泣き続ける透一郎に、兄貴、と呼ぶ声がした。夢を見たからか、彰次の方へ顔が向く。
守っただろ、梛も、晴季も! 謝るなよ!!
そう叫ぶ彰次は、やはり成長した梛と同じほどの年に見え、透一郎はやはり顔を伏せる。彼には、もっと未来があったのに。祐真や弘暉と同い年で、大学だって通って。なのに。
何があっても、俺たちは兄貴たちが大好きだから!
精一杯生きて、幸せになるのよ。それと、梛と晴季を育ててくれてありがとう。
そこで、透一郎の意識は現実世界に浮上した。女性が二人、顔を覗き込んでくる。
「兄さん!」
「透一郎!」
梛と香江だ。目を覚ました透一郎に、梛はその場で崩れ落ちた。
「よかったぁ……」
「梛」
梛の側にいた祐真がしゃがみこんで梛の背をさすった。香江も安心したようにベッドの柵に手をつく。
「もう、焦ったわ……丸一日目を覚まさなかったのよ? 普通に話ができていたのに」
怒っているように見せて、香江も安心していることが隠しきれていない。この優しい女を、透一郎は冷たく突き放したのだ。
「すみません、診察を」
「あ、はい」
医者の声だろうか。その声に応じて、香江が離れようとする。その手首を、透一郎が掴んだ。彼女が腕のある左側にいてくれて助かった。
「香江」
「な、何? どうしたの?」
突然手首をつかんだので、驚かせたようだ。だが、透一郎も離さない。
「側にいてくれないか」
「えっ」
「すべてが終わって、心が空っぽになったような気がした……でも、君のことは忘れられなかった」
「……」
香江が赤くなる。梛たちが見ているので透一郎も死ぬほど恥ずかしいが、ここで言わなければ一生後悔する気がした。
「何をいまさらと、自分でも思う。僕はきっと君を置いて逝ってしまうし、今だって体が不自由だ……たくさん、迷惑をかけると思う。それでも僕は、香江に側にいてほしい。一緒にいたい。少しでいい。君の時間を、僕に分けてくれないか」
香江の目が大きく見開かれ、次いでうるんだ。その唇が笑みを描く。
「馬鹿ね。忘れられなかったのは、私も同じよ」
瞬きすると同時に頬に涙が滑り落ちた。
「もういいって言われても一緒にいるわよ」
今度は透一郎が目を見開く番だった。「そうか」とつぶやいて瞼を閉じた目からは涙が零れ落ちた。感動の場面ではあるが、医療従事者としてはそれだけでは済まなかった。
「すみません……とりあえず、診させてください……」
そう言う医者も涙ぐんでいたけど。
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
梛と祐真はこの時点で退院してます。
透一郎が香江に請うところを書きたかったのですが、梛と祐真よりも難しかった……。




