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静寂の前に【1】












 結局、透一郎が退院したのは八月になってからだった。半月以上入院していたことになるが、医者によると回復は早い方らしい。それでも、無理はするな、と言われている。


「無理をするなと言われている(しないとは言っていない)って感じだよね」

「うん。茶化す元気があるなら大丈夫だね」


 べったり引っ付いて離れない晴季の頭をなでながら、透一郎は言った。彼が戻ってきて二日が経っているが、晴季は兄にべったりなのだ。これほど長く離れていたことがなかったからかもしれない。それに、梛も晴季も、本当に心配したのだ。

 さすがに退院祝いパーティーはしなかったが、昨日は晴季と梛で晩御飯を作った。お兄様びっくり計画は実行され、透一郎は晴季が作ったとろとろのスープに驚いていた。胃に優しいものを食べさせろとのお達しなので、梛も佐崎と相談してかなり考えた。

「祐真との生活は何もなかった?」

「びっくりするくらい何もなかったね」

 透一郎が退院して家に戻ってきたその日に、祐真も撤収していったが、それまでの約半月。何もなかった。祐真は自然に水無瀬家の生活に溶け込んでいたし、梛や晴季が困っていると手を貸してくれた。干渉しすぎないようにしていたのだと思う。何かあれば、透一郎や弘暉にどつかれるし。


「そうか……。ちょっとかわいそうなことをしてしまったかな」


 透一郎が苦笑気味に言ったが、たぶん、祐真は母に法的に締め上げられるであろうことの次に、透一郎に締め上げられるのを怖がっていたと思う。


「私は、少しくらい何かあってもよかったんだけど」


 そう言って透一郎の様子をうかがう。自分がブラコンの自覚があるので何も言わないが、透一郎は結構なシスコンであると思う。妹がこんなことを言いだしたら、兄はどうするのだろう?

「まあ、お前が祐真のことが好きだってことは、私も気づいていたよ」

「あ、そうなんだ」

「……そこで照れないのがなぁ」

「それ、弘暉さんにも言われたことあるけど、照れた方がいいの?」

「人によるとは思うけど、可愛いな、と思うだろうって話」

 それは納得。梛は自分が可愛い部類には入らないだろうことはわかっている。だって、恥ずかしそうに恋の話をする律子は可愛かった。

「私が整えた婚約だからね。何も言わないほうがいいんだろうな、とは思うよ。まあ、晴季もいるから家の中では風紀的にやめてほしいけどね」

「それは、そうだよね」

 まだ小学生の子供に見せるものではない。思ったより突っ込んでこない透一郎がちょっと意外だった。そう言うと、彼は笑って言う。

「梛も、私と香江のことをとやかく言わないだろう? 少し強引なことはしていたけど、まあ、香江の行動力なら梛が何もしなくてもそれくらいはしただろうし」

「お、おお」

 梛の祐真への思いを気づかれていた、と知った時以上に動揺した。梛も、干渉しすぎないように気を付けていた。


「だから、必要以上には言わないでおこうと思って。もどかしいから背中を蹴り飛ばしたいけどね。祐真の」


「私も兄さんに対して同じことを思っているから、祐真さんには言わないでおくよ」


 梛は笑ってそう言った。その祐真に、縁日に出かけないか、と誘われたのはそのころだ。近所の神社の小さな祭りだ。

「神社か。ちゃんと整備されている神社はちゃんと神様がいるから、巻き込まれないようにね」

「善処しよう」

 梛は自分の千里眼・水鏡が神域や幽世寄りであることを理解していた。

「午前中は私が晴季を連れて行こうかな」

 いつのまにか寝てしまった晴季を梛が抱え上げる。さすがにだいぶ重たくなってきた。晴季が成長したのもあるだろうが、しばらく祐真がいたので、肉体労働はお任せしていたのだ。

「そう思うと、祐真さん、便利だった……」

「それ、祐真に言わないようにね。たぶん、泣いちゃうから」

 少しあきれたように透一郎が釘を刺した。
















 祭りの日の午前中、梛は勉強をしていたが、透一郎は本当に晴季を連れて屋台を見てきたらしい。甚平を着せて、お小遣いを持たせて好きなものを買わせて。そういう『普通』のことをさせている。普通でない自覚のある透一郎と梛は、弟に普通のことをさせてやりたいのだ。

 なんとなく面倒見の良い透一郎であるが、彼は兄であって親ではない。梛自身がまだ高校生であることも手伝って、晴季のことはほぼ兄に任せきりである。しかし、今回の入院の件で、梛もできるだけ手を出そうと思った。今までもしていなかったわけではないが、親になる前に子供の面倒を見ることになった透一郎は、どれほど大変だったか。それに気づいたのである。


 多分、透一郎に言ったら、気にするな、と言う。こうして、兄に言えないことが増えていく。

「梛、どうかしたか」

 声をかけられて梛は祐真を見上げた。二人は神社の階段を上っていた。洋服の祐真はともかく、せっかくなので浴衣を着てきた梛は少々上りづらい。

「いや、午前中に、兄さんが晴季と縁日に行ってきたんだけど、結婚もしていないのに、兄さんに子守を押し付けているような気がして」

 そう言うと、祐真はおっとりと笑った。

「優しいな、お前は」

「どうしてそんな結論に至るのか教えてもらえるとありがたいんだけど」

 梛の手を優しくひきながら、祐真は一息に疑問点を述べた婚約者に言った。

「要するに、透一郎さんに苦労を掛けているから、自分も手伝わなければ、と思ってるってことだろう?」

「まあ、そうだね」

「梛はちゃんと手伝えていると思う。どうあがいたって、透一郎さんの方が年上で、保護者だ。これは晴季だけじゃなくて、梛にとってもそうだろう? 甘えてもいいはずなのに、兄弟のことを考えられるお前は優しいよ」

「……優しいがゲシュタルト崩壊しそう」

「そうか」

 照れた。梛が。透一郎や弘暉に「少しは照れろ」と言われる梛が。自分でもびっくりした。


 屋台を冷やかし、たこ焼きやから揚げなどを買う。金魚すくいや射的もあるが、金魚を飼う気はないし、射的は絶対にあたるのでやめておく。

 熱いのでたこ焼きを箸で切り分けていると、隣から一つくれ、と言われた。口の中に入れたたこ焼きを飲み込んで、梛は言った。

「さっき、お好み焼き食べてなかった?」

「お好み焼きとたこ焼きは違う食べ物だろう」

「いや、そうだけど」

 ソースがかかっていて、似たようなもんだと思ってしまう梛が間違っているのか……? 一応、箸で割って少し冷ましたものを箸でつまんで差し出した。

「はい」

 笑顔で差し出した梛も梛なら、ためらわずに口に含んだ祐真も祐真である。梛はちょっと恥ずかしかったが、顔には出ていない。代わりにから揚げを差し出されて、う、となった。

「食べないのか?」

「食べる……ちょっと恥ずかしいな、ってなっただけ」

「そうか」

 祐真が優し気な表情をする。いや、彼はいつも優し気な顔立ちだけれど。ちょっとムッとしてから揚げを口に含んだ。家でも作るが、屋台のから揚げは家のものとちょっと違う。何が違うのだろう。

 というか、一応デートなのに屋台食い倒れに来たみたいだ。それはそれで楽しいからいいけど。


「……ねえ、祐真さん」


 ジュースを飲んでいた梛は、隣に座る祐真にふいに声をかけた。彼はおっとりと首をかしげる。

「私と婚約する代わりに、何を求めたの」

「……梛」

 なんとなく察しはついているが、透一郎が言わないので、祐真に聞いてしか答え合わせができない。梛は祐真を見上げた。

「別に責めているわけではないよ。確認したいだけ。察しはつくから」

 はあ、と祐真が珍しくため息をつく。避けられない、とわかったのだろう。それくらいには祐真も梛のことを理解している。


「お前を守る代わりに、彰次たちの仇を討つときは同行させてほしいと言った」

「それくらいが妥当だよね」


 祐真がそれくらいの要求をした方が、透一郎も任せやすかっただろう。祐真にとっても、きっとそう。少なくとも当時は梛を友人の妹くらいにしか思っていなかったはずだ。


「馬鹿だよねぇ、私たち。勝手にキレて、勝手に敵討ちだとか言ってる」


 前屈姿勢でうなだれた梛の頭を撫でようとして、髪が結い上げられていることに気づいたらしい祐真は、その背中を撫でた。

「では、立ち止まるか?」

「ううん。それはできない。少なくとも、兄さんは止まれないだろう」

 兄の計画はもう走り出している。もう止められない。祐真が軽く梛の背中を叩いた。

「行けるところまで行ってみるのも手だと思うぞ」

「そうだね……」

 うなずいて顔を上げたとき、ふと気が付いた。祐真の服の裾を握る。

「祐真さん」

 梛に声をかけられて祐真も気が付いたらしい。腰かけていたベンチから立ち上がる。

「……迷い込んだか」

 同じ場所のはずなのに、周囲には一切人影がなかった。












ここまでお読みいただき、ありがとうございます。


透一郎は晴季を普通の子供と同じように育てたいと思っています。梛については手遅れだと思い、放任主義のつもりですが、シスコンでもあります。

梛は梛で、透一郎が晴季を普通の子供と同じように育てたいと思っているのに気づいていますが、透一郎は兄であって父ではないのだから、そこまで頑張らなくても、とも思っています。


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