赤い声
「ふ……っんだばらぁぁぁぁ!!」
嗚咽をこらえたら奇声と化した。
滝のように溢れだした水を袖で拭い、その勢いで玄関の扉を乱暴に開け放つ。
さすがに自分でもどうかと思う号叫は、全開放の戸口より、迷惑にも昼時のご近所中に響きわたった。
路地の入り口を塞ぐ場違いな馬車を、隣人たちは遠巻きに、不審そうに、恐々と、各々窓や扉を細く開けて窺っていた。
「――カナエちゃんっ!!」
小声で叫びカナエを呼んだのは、お隣のドナおばさん。男の子ばかり四人の子持ち。旦那のウェッティさんは織物工。
街中の暮らしなど、何一つ知らなかったカナエに一から家事を教えてくれた――。
この五年、こつこつと積み重ねた“可愛い若奥さん”の称号が確実に吹っ飛んだと知る。
しかし今のカナエに、守るべきものなどこの手には何一つない。
「ドナおばさんっ」
「カナエちゃん――髪っ!? そんなに泣いて、一体何が? あの馬車はなんなんだいっ!? まさか無理矢理切られ――」
「――しぃっ!」
カナエはドナに突進し、そのカナエを軽く凌駕する胸に飛び込み、泣いて縋りつくように抱きついた。
後ろからは見えないように人差し指を唇に当て、鋭くドナを制す。
「お願いだから、危ないことは言わないで。これは自分で切ったのよ。本当よ」
「髪を自分で切るなんて、そんなわけがあるかい! ねぇ何があったんだい、男手がいるのかい?」
カナエは逡巡し、横目で我が家だった建物の玄関を確認する。
――お嬢様は、まだ出てこない。
「男手はいらない。おばさん、聞いて、時間がないの――アスファルが、貴族の娘と結婚することになった。それをわざわざ本人が足を運んで伝えに来たのよ――そう、貴族がいるの、あの家に」
頬を寄せあい、できる限り声量を殺して早口で捲くし立てる。
ドナの顔は見えないが、その口が大きく開かれ息を吸い込むのを剥き出しの耳朶に感じ、カナエは慌ててさらにきつく抱きつくことで、それを制止する。
反射だろう。
何も知らないドナは、力強く、カナエを抱き返した――泣いてしがみつく我が子を守るように。
「……ひぐっ」
外面をかなぐり捨てて堪えたはずの哀咽が吹き零れる。横隔膜で風船が割れたみたいだ。
――反則だ、これは無理だ。
顔立ちも姿形も匂いも全然似ていないのに、この胸もこの腕も、あまりにも“母”だ。亡き母を、かつての母を、鮮やかに思い出させる。
おかあさんおかあさん、悲しい、悔しい、苦しい、痛い、痛いの、顔も胸もおなかも全部痛い。たすけて、助けて。
助けて、力を貸して。今だけ。
喉の震えを止めてくれ―――!
「ぜ、絶対に関わらない、で。みんなにも伝えて」
この手に守るべきものなど何一つなく。
今はただ、この温かい手の持ち主たちに、時間が許す限りの言葉を残したい。
強ばった上に裏返ったあげく頬肉を噛んだが、声は出た。
「……っもしも、声をかけられたら、顔を伏せて頭を下げて、首を振って、喋らないで」
まだ人影のない表口を睨み据え、逸る鼓動の促すままにドナを固く抱きしめる。
「――絶対に貴族を批判しないで」
「貴族がっ……貴族だからって、なにもそこまでへりくだるなんてっ」
「相手が悪いの」
カナエが庇う義理もないが、ローゼは人間としてはまともな方だ
質が悪ければ、カナエは何も出来ないうちに、最悪の想像通りの道を辿っていたはずだ。
ローゼはローゼなりに、自分の価値基準でよかれと考え――使用人任せにせず、金を積まず、まずは面と向かって話し合おうと試みたと思われる。
だが、使用人に任せ金を積まれたほうが、力と金の“使い方”をわかっている人間だと看做すことが出来た。まだ交渉の余地があった。
――カナエには、ローゼが使い方も知らない包丁を持った幼児に見える。
それが肉や野菜を切れるものだと、ともすれば生きた肉を引き裂けるものだと、わからずに持たされて疑問も持たずに持っているのだ。
そして「話をしましょう」と、言ったのだ。
脅迫以外の何物でもない。
あまりにも迷惑で癇に触って、そして文字通り話にならないため門前払いをかましたのは、実はカナエの方である。
「慎重に、臆病に、卑怯なくらいでちょうどいい。関わらないのが一番なの」
涙は止まらず鼻水まで垂れ始めた。目と鼻が繋がっているとよくわかる。このままだと耳からも汁が出てきそうだ。
涙を鼻水ごと、ドナは前掛けで拭ってくれた。
そんな風にされたら、拭う端から津々と頬を濡らすばかりだ。
「……泣き寝入りするしかないのかい」
「あれはヤバい。周りが勝手に動く類型よ――お嬢様のために、って。さらに不味いことに知名度もある」
勝手に動く人間を御する器量はローゼにない。放し飼いだ。
その上、熱狂的な信者もいそうだ。そこまで把握した上に統制してのけろと言うのは酷だろう。
ドナには言えぬが、カナエが一番恐れるのは、勝手にローゼの味方をする人間ではなくその“真逆”――ローゼ及びシェリズ家の敵だ。
カナエを殺す。
それだけで、女騎士の名声も実家の権勢にも泥が塗れる。傷つけるでも陥れるでもなく、せいぜい泥を塗る程度がカナエの命の値段の限界値。クソむかつく。
若く無力な庶民の女を一人殺すだけで、武の名門の面目を潰せるのだ。なんてお手軽なんでしょう。
シェリズ家がカナエを手元で囲う方向で動いていたのはそれを防ぐためだ。
痛くもない腹に炎症した盲腸を仕込まれたくないだろうし、アスファルに対する重石にもなるしで一石二鳥。
なのにあの棒読みである。
おそらくローゼは独断で、下手を打ったのだ。
「しこたま叱られればいいのよ」
命賭けの嫌がらせである。
ドナはカナエの危機感に寄り添おうと懸命だが――カナエのようにぽんぽん陰湿な想像は浮かばぬようで、もどかしそうに眉を寄せている。
「……おばさん、わたしは身を守るためにこのまま王都を出ていく。時間がないの」
竜退治から一月。
一月あったのだ。
もう一刻の猶予もない。
「そんな無茶なっ!? よくわからないけど、せめてアスファルを待って――そうだ、あの子、どういうつもりなんだい!?」
「……知らないと思う」
アスファルは何も変わらなかった。
カナエはアスファルが隠し事をしていたら、絶対に気づく。指摘するかは別の話だが――だって誕生日の贈り物も、初めての花束も、夏祭りの花飾りも、結婚式の白い靴も、何一つ隠せたことが、隠し切れたことがない。
――カナエは気づいて何も言わない。
アスファルは早々にバレて少し恥ずかしそうに準備を続ける。
ねぇ、まぁだ? ってカナエが笑う。
隠れんぼみたいに――。
アスファルはカナエに隠し事なんて出来ない。
だから確実に、知らなかったのだ。
下手したら、今もまだ知らないのかもしれない。
知らないまま――誰もいないあの家に、帰ってくるのか。
あぁもう涙は止まらないし瞼は腫れるしで何も見えないし何も見たくない。
「みんなに挨拶する暇もなくてごめんなさい。ねぇ優しくしてくれてありがとう。わたしもアスファルも田舎者で、右も左もわからなくて。いろいろ教えてくれて本当にありがとうございました」
「ねぇ待ちなよ。本当に行くのかい? どこに行くんだい? ねぇ何か、何かわたしたちに出来ることはないのかい!?」
もうカナエは首を振ることしかできない。
「色々やりかけで放り出して申し訳ないわ。この帳簿は……金物屋のおかみさんに渡してほしいの。おかみさんなら、ちゃんとしてくれると思う……あぁやりたいこと、沢山あったのに」
「帳簿……あぁそうだ透かし編み! りぼんがあるよ、せめてりぼんを持っていきなよ持っていって!! ロニ!!」
ドナはカナエに託された帳簿をしっかり胸に抱き、大きな声で長男を呼んだ。
「かぁちゃん?」
「カナエちゃん引き留めてて!! クーリ!! 奥さん連中にりぼん持っといでって呼びかけて!!」
ドナの長男ロニは、元気でやんちゃで泣き虫な弟たちに押され気味のおとなしい少年だ。赤毛でそばかすの面倒見のいい男の子。弟たちは母ちゃんより優しいとよく言っている。
「ロニ」
「カナエちゃん、どっかいっちゃうの?」
そんな男の子がぎゅっと裳裾を握りしめれば、それを振り払うことなどカナエには出来ない――さすがの人選だ。ロニ以下のやんちゃ小僧どもは蹴飛ばしても馬鹿笑いするばかりなので、払いのけても笑い飛ばしてくれる。
「……カナエちゃん、どっかいっちゃうのよ」
いい加減、本当にいい加減行かなくてはならない。
玄関から外の様子をうかがっているのは、なにも近所の人々だけではないのだ。
今もお嬢様が扉の影で息を殺してる――。
「カナエちゃん!! これ持ってって!!」
「これも、これもよ! 少しでも足しにして!」
「すごいでしょあたしなんて十二本も編んだのよ! 全部持ってて」
髪を振り乱した奥さんたちが、次々に家から飛び出してきた。
彼女たちが差し出すのは、白い透かし編みのりぼん。
「おばさん、ファウナさん、リンゼさん――みんな。でもこれは、月末の分でしょう?」
「また編むわ。だいぶ早く編めるようになったのよ」
「そうよ。そもそもカナエちゃんが編み方を教えてくれたから、編めるようになったんだから」
「そうそ。そして、わたしたちはへそくりを作れるようになったので、このへそくりも持ってきな! わたしが稼いだわたしのお金だもの! 旦那にゃなにも言わせないわ!!」
ご近所さんが寄って集って、カナエの息の根を止めようとしてくる。
単純な意匠のりぼんだが、そこは糸の宝石。そこそこ良い値で売れるのだ。
もう泣きすぎて、気息奄々で、ただただカナエは頷いた。
ここに居を構えるために、結婚費用を使ったことに、後悔はない。
「――ありがとうっ」
スカスカの鞄にたくさんのりぼんを詰め込んで抱え直す。
最後に深々と頭を下げて、顔を持ち上げた勢いのまま走り出す。
アスファル、アスファル。
もしかしてわたしたち、最後に交わした会話って今朝方の、
「肉団子食べたい」
「今日は肉団子ねー」
これか。これなのか。
今生の別れになったら間抜けすぎる。
屑肉を丸めて、丸めて丸めて丸めて、粉をつけてじっくり揚げる。外はカリカリ中はふんわりの、子どもの頃から変わらない好物を、月見団子みたいに四角錐に積み重ねておなかいっぱい食べさせてあげたいけど、朝起きたときは想像もしなかった未来に今立っていて、そんな些細な約束も果たせない。
馬車を避けて路地を飛び出し、大通りの人混みを縫いながらただただ走る。
止まったら、二度と走れない。
「……うううぅぅぅえええぇぇぇぇぇぇ」
――もう。
泣き声あげてもいいですか。