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秋はとこしえ  作者: 白九 葵
命のつむぎ
24/37

5

 目をそらしたら、途端にその姿が消えてしまうのではないかという気がした。

 斜面をのぼってネフェリンに近づく。彼女は石に腰掛けていて、少し疲れたような顔をしている。目の前の女性がまだ、幻ではないかという気持ちが、リヨンには拭えなかった。

 足下を覆う枯れ草を隔てて、彼女と向かい合った。

「どうしてここに」

 尋ねたリヨンに、ネフェリンは首をひねってみせる。

「そうか、ここは君の土地だったね」

 そこでやっと彼女は微笑みを見せた。

「道に迷われたのですか?」

 細い声が尋ねる。年を重ねるごとにその声には女性らしい柔らかさを潜ませるようになっていった。そんなことを今さらながらに強く感じた。

「いや、」

 戸惑いを隠しながら、来た道を振り返る。

「帰り途は分かっている」

 視線を彼女に戻した。彼へ向けるネフェリンの表情は不思議そうだ。その眼差しを受けて、リヨンは言葉を失う。ここがエピウゾン領だと知っていて、わざわざ足を伸ばしたことを彼女はどう思うだろうか。

 つい視線を足下へと落としていた。その気まずさを感じてか、ネフェリンも視線を森の方へと投げるのだった。

 沈黙の予感に急かされるように、リヨンは口を開いていた。

「ここで何をしていた」

 ネフェリンは視線を戻して彼を眺め、それから腕を広げて見せた。右手の弓が持ち上がって、腰の矢筒が音を立てる。外套と刺し縫いの上衣を防寒に着込んだ他は、羅紗の長靴下に革の長靴という、簡素で一見少年のような格好だった。

「今朝はやく出て、今は休んでいるところです。少ししたら戻ろうかと」

 リヨンは邸宅のある方向をみやって尋ねた。

「あの家に、ひとりで住んでいるのか」

 一瞬彼を眺め見たネフェリンに、リヨンはしまったと思う。

 シェネフ家の末娘は嫁いで、伯は数年前に亡くなった。彼女の父は資産のすべてを長女に与えた。病身の娘が嫁ぎ先に困らないようにという父親としての望みもかけられていたのだろう。だが、ネフェリンにはその気はまったくないようで、彼女になにかあれば資産のすべては妹へ譲ると手続きを済ませているという話だった。

 そういう彼女の周辺事情を、リヨンはすっかり知っていた。そのことをうっかり暴露してしまったのだった。

 ネフェリンはそんなことに気づいたかどうか、彼の質問にだけ答えた。

「ええ、でも、以前から父のもとにいた者たちが、今でも私の側にいてくれています」

 その言葉に、記憶の奥底の懐かしい顔が、ぼんやりと思い起こされる。

「ゼオラは生前の父をよく支えてくれました。父は彼に領地を分け与えたのですが、彼は土地のことは親族に任せてしまって、相変わらずシェネフ家を守ってくれています」

 リヨンは寡黙なその大男の姿を思い浮かべていた。

「数年前に男の子が生まれて、賑やかに過ごしております」 

「君の?」

「私の?まさか」

 ネフェリンは笑顔を向けた。とっさに出た質問に自分でも可笑しくなって、リヨンも硬い表情を解いていた。

「君は、今もひとりなのか」

 答えを知ってはいたが、つい尋ねる。三年前、彼女にも婚姻の話が持ち上がった。彼女がなぜ断ったのか、これまでリヨンはその理由を想像することしかできなかったのだ。

 微笑んだネフェリンの表情は穏やかだった。

「この体ですもの、貰い手など現れません」

 すぐに見抜ける嘘に、リヨンは言葉を返さなかった。彼女が相手方に対して述べた辞意も、同じ言葉だったのではないか。

 やはりその質問は訊くべきではなかったという思いがよぎる。彼女の身も心も、いまだ彼女自身から誰にも譲らなかったことを、リヨンは嬉しく思うのだった。そうして、それを願う資格が自分にあるのだろうかと思い直す。

 しばらく彼女へ向けていた視線を、うっすらと白雪をかぶる枯れ草へとそらした。

「お伴の方が、心配なさるのではないですか」

 言われてリヨンは顔をあげた。雪空の下、暮れの翳りは早く訪れるはずだった。

「お一人ではないのでしょう」

「君は、」

「迎えがくるはずですから」

 ふたたびの別れを、彼女は穏やかな口調で促すのだった。

 一瞬、ネフェリンを見つめる。他になす術はない。この時間から遠ざかれば、幻を見たように、ふたりの繋がりはまた途切れてしまうだろう。分かっていながら、リヨンはうなずいていた。

 何か言葉をかけたかったが、次に会える日を約束できない互いの間柄を思い知らされるだけであった。不自然なままに背をむける。あとは振り返らずに、落ち葉を踏んで、足の進むままに任せた。

 これから戻る現実と、今しがたみた幻のような光景が心に入り乱れて、落ち着きのない気持ちにとらわれた。この日かぎりの時間ならば、それは幻同然だった。

 いつもの日々に戻れば、そう言い聞かせていくのだろう。そこにいるはずの彼女をもう一度振り返りたかったが、その思いに耐えた。

 幼い頃、ふたりで森に迷い込んだ。ふたたび会いたいと願った彼らが夢の中で、その世界の果てを待ち合わせにしたのだ。

 ふいにリヨンの耳の奥に、あの鳥の声がよみがえる。気がついて顔をあげた。

 そうだ、あの森で、彼女が吹いた指笛の意味は——。

 来た道を振り返っていた。木々の向こうにネフェリンの姿はまだあったが、身を屈めるように縮こまっている。悪い予感がよぎった。

 濡れ落ち葉に急ぐ足をとられながら、枯れ草の斜面へと向かう。ネフェリンは顔をふせたまま、彼の気配に気づく様子はなかった。

 彼女の側にかがむと、顔を覗き込んだ。彼女は目を閉じて荒い呼吸を整えている。

「ネフェリン」

 呼びかけたが返事はなかった。手を当てた頬から高い熱が伝わってくる。ようやく瞼をうすく開いたネフェリンは、辺りを見渡せず、耳をすませて状況を知ろうとしているようだった。

 熱で上気した横顔を眺めながら、いくつかの選択が脳裏に巡っていた。

 ここからシェネフ家は道が険しく記憶も曖昧であった。それに途中にレウカスを待たせてある。そのことを思い出して心を決めた。

 羽織っていた外套を重ねて彼女を覆うと、背を向けて肩越しに細い腕を引き寄せた。ぐったりと身をもたせる彼女を背負い込んで、身を起こす。背中を屈めるようにして起き上がると、慎重に歩みを進めた。

 埃のような雪が舞う中を歩みながら、考えをめぐらせる。なぜネフェリンは助けを求めなかったのか。彼が彼女の世界に足を踏み入れないよう、早々に立ち去ろうとしたように、彼女もまた、彼の世界に立ち入らないよう、その体調のことを黙っていたのか。

 互いに近づかないように思い計らっていたのだと知ると、心が苦しくなった。

 苛立ちに似た思いもまた、彼の心の内にわき起こっていた。それは幼い日に感じた焦燥と変わらぬものであった。

 いつの頃からか、弱さに打ち負かされても、向こう見ずでいつづける彼女に、やきもきさせられるようになっていた。周囲の心配をよそに奔放だった彼女は、時おり、そのまま壊れてしまっても構わないとさえ思っているようだった。

 彼女の無鉄砲さは、単に周囲の大人を困らせたいだけのわがままと違うのは分かっている。それならなぜ、身体にまけてあっけなく倒れてしまっても、無茶をやめなかったのか。

 それはまるで生命の火を燃やし尽くそうとしているかのようだった。だから彼女は婚姻を受け入れず、遺産を妹に譲渡する手はずを整えた。彼女は奔放に生き、病弱な体を一刻も早く消尽しようとしているのだ。

 その思いつきにリヨンは視線をあげていた。青い暗がりに乾いた雪がひらりと舞う。彼女の重みと熱が背中越しに伝わってきた。

 一刻も早く戻らなければと思う反面、この白の世界をふたり延々と歩き続けられないかという思いも、彼の胸によぎるのだった。

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