「垂直の逃亡」
落下、開始。
暗闇が、一気に上へと吸い込まれていく。
蓮は外骨格のブースターを間欠噴射モードに切り替えた。全力で制動するのではなく、断続的な短い噴射で落下速度を調整する。ブースターの燃料は有限だった。脱出後のことも考えれば、最小限の出力で抑えたい。
視界は、ほぼゼロ。
蓮は左腕に装着したサーマルゴーグルを下ろした。赤外線と音響を組み合わせたセンサーが、縦穴の壁面までの距離を示す。半径、約八メートル。想定より広い。
縦穴は旧ホテルの配管シャフトだった痕跡があった。コンクリートの内壁に、剥がれた配管の残骸がびっしりと刺さっている。落下経路を誤れば、それらに体を貫かれる。
蓮はミオを、体の正面に抱え直した。
少女は、言葉を発しなかった。
ただ、蓮の顎の下から、無表情のまま彼の顔を見上げている。鼻先が近い。薄紫の瞳が、サーマルゴーグルのランプの反射を受けて、微かに光っていた。
蓮はそれを視界の端で認識しつつ、思考を切り替えた。
——深度、推定三十メートル。
——落下時間、約五秒。
——残り落下距離、不明。底の見えない縦穴は珍しくない。最悪、深層まで抜けている可能性もある。
蓮は三回目のブースター噴射を短く入れた。落下速度が時速四十キロ前後に落ち着く。これなら、万が一着地点が硬い岩盤でも、外骨格のサスペンションで衝撃を吸収できる。
ミオが、口を開いた。
『怖くないのですか』
初めて、少女から疑問形の言葉が出た。
指示を待つ命令待ち状態でも、観察報告でもない。蓮に対する、純粋な問い。
蓮は一瞬、彼女の顔を見た。
「怖いさ」
短く答えた。
「ただ、怖がってる時間で落下距離が延びる。——それだけだ」
ミオは、その答えを処理するのに、少しだけ沈黙した。
落下は続いた。
七秒。八秒。
サーマルゴーグルに、下方の反射パターンが変化した表示が出た。底が近い。
蓮はブースターを全開逆噴射に切り替えた。
激しい振動。光と熱。周囲のコンクリート壁がブースターの噴射炎で赤く染まる。落下速度が急激に減速し、ほぼゼロまで落ちた瞬間——蓮は片膝を曲げ、衝撃を膝と外骨格で吸収しながら、柔らかい地面に着地した。
柔らかい?
蓮は一瞬、違和感を覚えた。
地面は、草だった。
濃い緑の、湿った草。よく見れば、周囲は廃墟の一室ではなく、広大な空間だった。天井は高く、薄闇の中に青白いアテロイドの結晶が点々と発光し、まるで人工的な星空のようにこの場所を照らしている。かつては地下倉庫だった広間が、崩落後に自然化したらしい。
蓮は立ち上がり、周囲を確認した。
「……第五十一層の、隠し空間か」
記録に残っていない場所。企業の監視が及ばない場所。一時的な隠れ家としては、悪くなかった。
蓮はミオを下ろした。
少女はゆっくりと地面に立ち、初めて自分の足で歩いた。短い歩幅。不慣れなバランス。草の感触を、足の裏で確かめるように、ゆっくりと。
彼女はしゃがみ、草を一本、指でつまんだ。
『……湿度七十四パーセント。温度二十二度。マナ濃度、標準の〇・八倍』
ミオが呟いた。
『この場所は、観測データから外れています。マナの流れが、外部から意図的に遮断されています。——誰かが、隠したのです』
蓮は眉を上げた。
「誰かが、誰に対して?」
『分かりません』ミオは草を指先で転がしながら、答えた。『ですが、私の上位管理者系統ではない誰かです。——私は、ここにいることを、上へ報告できない』
蓮は、その言葉を頭の中で何度か反芻した。
つまり、この場所は、企業のシステム外の隠れ家。そして、ミオという「管理者系統」が把握していない場所。
——サキの仲間の誰かが用意したものか。
父の知り合いか。
あるいは、もっと古い、崩落直後の生き残りが作ったものか。
蓮には、どれとも判断できなかった。だが、少なくとも今夜、この場所で息をつく時間が稼げるのは確かだった。
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蓮は岩場に腰を下ろした。
右肩の筋肉が引き攣っている。パイルバンカーの反動で、腱を少し傷めていた。明日には痣ができるだろう。
ミオも数歩離れたところに座り込んだ。足を投げ出し、草を指でつまんでは離している。同じ動作を、何度も。
蓮は彼女を観察した。
先ほど「怖くないのですか」と聞いた声。草を触る指の動き。不慣れな歩き方。——彼女は、カプセルの中で長い時間を過ごしていた。おそらく、今夜が、彼女にとって外界との最初の接触なのだ。
そう考えると、彼女の「感情が実装されていない」という台詞も、違う意味を帯びてくる。
実装されていないのではなく、——起動していないだけ、なのかもしれない。
「ミオ」
蓮が呼んだ。
『応答します』
少女は即座に、命令待ち状態に切り替わった。草を触る手が止まる。
蓮は少しだけ、考えてから言った。
「名前を呼んだら、応答義務が発生する——っていう仕様、切れないか」
『……仕様変更の提案ですか』
「ああ」
『私の内部ルールを書き換えるには、管理者権限が必要です。——現在、その権限を持っている人物は、世界に一人もいません』
「一人も?」
『はい。私を生み出した技術者は、二〇三〇年に死亡しました。後継者は、まだ権限を継承していません』
蓮の動きが、止まった。
二〇三〇年。蓮の父が、「事故死」として抹殺された年。
偶然か? それとも。
——父は、ミオを作った技術者の一人だったのか?
蓮は、口の中が乾くのを感じた。確信はない。時期の一致だけだ。だが、この偶然は、あまりにも出来過ぎている。
父が遺した技術書の、最後のページにあった、一行のメモ。
『計画の鍵は、彼女に託した』
彼女。
名前が書かれていなかった、その代名詞。
蓮は、震えそうになる手を、意識的に抑えた。
「……ミオ」
『応答します』
「お前、——俺の父親って、名前、知ってるか」
ミオは数秒、沈黙した。
検索。照合。——そういう処理音が、聞こえないはずなのに、蓮には聞こえた気がした。
やがて、少女は答えた。
『……記録にアクセスできません。関連データは、暗号化されています』
「そうか」
蓮は短く息を吐いた。
手がかりは、ある。
だが、今は取り出せない——そういうことだ。
彼はゆっくりと立ち上がった。
「……休憩は終わりだ。中層まで、帰る」
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中層へ戻るルートは、簡単ではなかった。
隠し空間から、通常の通路に戻るための垂直昇降装置は、当然ながら存在しなかった。蓮は外骨格のブースターを使い、壁面を段階的に登る方法を選んだ。
地質データを思い出しながら、崩落箇所と通気口を繋ぎ、最短ルートを逆算する。ミオは蓮の背中におぶわれ、しがみつく形になった。彼女の小さな腕が、蓮の首に回される。軽い。カプセルから出た直後とは違う、生きた人間の重みだった。
二時間かかって、蓮とミオは中層第二十層——サキのジャンク屋のある区画に戻ってきた。
路地は、いつもの薄暗さだった。
ただ、一点だけ、違っていた。
路地の奥、公共広告用の大型ビジョンに——蓮の顔が映っていた。
蓮は足を止めた。
ビジョンには、企業のロゴと共に、こう表示されていた。
『最重要指名手配:工藤 蓮(偽名・複数)。第五十層において、重要機密を強奪し、ダイバー複数名を殺害した疑い。懸賞金:五百万CR』
映像の下には、蓮の古い身分証の写真が引き伸ばされて出ていた。右目の傷が、はっきりと映っている。
「……はやいな」
蓮は低く呟いた。
ヴォルグを殺さなかったのも意味がなかった。企業は、蓮を生きたまま取り戻せなかった時点で、彼を最重要の敵として公表した。もう、中層に留まることはできない。
蓮は背中のミオを、おろした。
そして、フードを深くかぶり直し、ゆっくりと歩き出した。
「行くぞ、ミオ」
『どこへ』
「サキのところだ」
ミオは数秒、蓮の横に並んで歩きながら、呟いた。
『……ゴースト・ダイブ』
蓮は、ちらりと少女を見た。
「なんだって?」
『記録された専門用語です。戸籍のない者が、地下の深みに潜る。——いま、私たちがしていることの、一般名詞です』
蓮は短く笑った。
「悪くない呼び方だ」
そのまま、彼はサキのジャンク屋の裏口へと、ミオを連れて歩いていった。
頭上のビジョンには、五百万CRの懸賞金が、まだ光り続けていた。
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第5話 完




