「和解の兆し」
滑空ユニットが中層第十八層の廃工場の屋根に着地した。
衝撃を殺すため、蓮は最後の瞬間に体を捻った。灯を抱えたまま鉄骨の上に転がる。
「大丈夫か」
「はい。たぶん」
灯が身を起こしながら答えた。膝がわずかに震えていた。だが立てないほどではない。
エマとジェイクも少し遅れて着地した。翼状の膜が風を失って萎んでいく。
「全員、無事だな」
ジェイクが周囲を見渡しながら言った。
「無事だ」
蓮は短く答えた。だが油断はしていない。カインが追跡装置を仕込んでいる可能性は、まだ排除できなかった。
「灯のマナ波形は」
「隠せている」
エマが端末を確認しながら答えた。
「ミオの隠蔽技術を応用したチップです。ライアンさんが事前に用意していました」
灯が驚いた顔でエマを見た。
「私のために、そこまで」
「あなたが来ることを信じていましたから」
エマは静かに微笑んだ。
四人は、屋根から地上へと下りた。廃工場の奥、隠された連絡口へ向かう。
---
隠れ家に戻ると、サキとライアンが無言で四人を迎えた。
サキが灯を一目見て頷いた。
「工藤の娘か」
「はい。藤原灯です」
灯が丁寧に頭を下げた。その仕草には、まだ研究員時代の癖が残っていた。
「堅苦しいのは要らない」
サキは道具箱を閉じながら言った。
「お前の兄貴の装備を作った女だ。よろしくな」
灯の表情がわずかに緩んだ。
ライアンがホログラム端末を起動した。
「屋上での戦闘、記録に残っている。ゼノンの負傷を確認した」
「深追いはしてこなかった」
蓮は椅子に腰を下ろしながら言った。
「奴の目的は灯の確保だった。それが果たせなかった以上、次の一手を練り直すはずだ」
「時間はそう長くない」
ライアンが続けた。
「知性体からの情報だ。カインの強制侵入装置、起動兆候が数日以内に確認される可能性がある」
部屋の空気が静かに張り詰めた。
「深層と連絡は」
「ミオを通じて繋がっている」
ライアンは頷いた。
「向こうもコアで対話を進めている。合流の準備を急ぐ必要がある」
「世論の方は」
エマが聞いた。
「今回の潜入と、屋上での映像。編集部が、慎重に検討している」
ライアンは端末を操作した。
「藤原灯氏の証言を、どう扱うか。企業側の反撃も予想される。だが――疑念の数字は、確実に伸びる」
「灯の存在は、伏せるのか」
蓮が聞いた。
「本人の意志に、委ねる」
ライアンは灯の方を見た。
「あなたが表に出るかどうかは、あなた自身が決めることだ」
灯は少し考えてから答えた。
「今は、まだ。……でも、いつか、話す時が来ると思います」
「無理に急ぐ必要はない」
蓮は静かに言った。
灯が両手を見つめていた。屋上で発現した、あの力の余韻がまだ体に残っているようだった。
「私も行きます。深層へ」
「無理はしなくていい」
蓮は低く言った。
「まだ何もかもが急すぎる」
「だからこそです」
灯は顔を上げた。
「知る時間が足りないなら、動きながら知ります。それが私の選んだ道です」
蓮はしばらく彼女を見つめた。
そして頷いた。
「わかった」
サキが、道具箱から新しい端末を取り出した。
「お前にも、装備がいるな」
「私に、ですか」
「ゴーストとして動くなら、身を守る手段は必要だ」
サキは端末を灯の手に渡した。
「使い方は、道中で教えてやる」
灯は端末を、大切そうに両手で受け取った。
---
深層、コアの広間。
結晶の壁が淡い光を絶え間なく放っていた。ミオはその中央に立ち続けていた。
もう何時間、こうしているだろう。彼女自身、正確な時間の感覚を失っていた。
『もう一度、聞かせてください』
ミオは知性体に静かに問いかけた。
『和解の具体的な条件を』
応答が波動として流れ込んできた。ミオの中でそれが言葉に翻訳されていく。
一つ。人類がこれ以上の搾取を止めること。
二つ。マナ・ネットワークの過剰な使用を制限すること。
三つ。カインの計画を完全に止めること。
「前と同じ内容だな」
ローレンが腕を組んで言った。
『はい。でも――』
ミオは続けた。
『今回は、もう一つ。新しい情報が加わりました』
彼女の薄紫の瞳が強く光った。
『レイヤー・ゼロの防衛について』
「防衛……?」
クロが身を乗り出した。
『知性体は完全な無防備ではありません』
ミオは低く言った。
『侵入者に対して拒絶反応を起こす仕組みがあります。ただし――』
彼女は言葉を選ぶように間を置いた。
『その仕組みは灯さんの中の破片を鍵として使えば、無効化できてしまいます』
ローレンの表情が険しくなった。
「つまり灯が捕まれば、その時点で防衛は意味を失う」
『はい』
ミオは頷いた。
『だからカインは灯さんを確保しようとしている。防衛を無力化する唯一の鍵として』
---
「知性体はそれを防ぐ方法を知っているのか」
ローレンが聞いた。
『一つだけ方法があります』
ミオは答えた。
『灯さんが自分の意志で鍵になることを拒めば、防衛は無効化されません』
「意志の力か」
ローレンは低く呟いた。
「マナ・ネットワークは無機質な技術じゃない。知性体そのものの神経系だ。意志の抵抗が通じても、おかしくはない」
『はい』
ミオは続けた。
『だから灯さんには選ぶ権利があります。鍵になることも、ならないことも』
クロが拳を握った。
「本人が決める話だな」
彼女は少し間を置いてから続けた。
「透さんは、昔、俺に言った。もし息子が深層に来ることがあったら、案内してやってくれと」
『クロ……』
「今度は、娘の番か」
クロの声には、静かな覚悟があった。
「灯って女も、俺が案内する。約束は、約束だ」
『そうです』
ミオの声にわずかな安堵が混じった。
『知性体は灯さんを恐れさせたくないと言っています。彼女もまた知性体にとって大切な、初めの子の一人だから』
その言葉にミオ自身の表情が揺れた。
自分だけが特別なのではない。灯もまた同じ根を持つ、姉妹のような存在。
その事実が彼女の中に静かに染み込んでいった。
『でも、それだけでは、足りません』
ミオは続けた。
『灯さんが拒む力を保てるように、私たちが支える必要があります。彼女は、まだ自分の力を知ったばかりです』
「支える方法は」
ローレンが聞いた。
『まだ、わかりません』
ミオは正直に答えた。
『知性体に、聞いてみます』
彼女は再び目を閉じた。
---
知性体からの波動が再び強くなった。
ミオは目を閉じた。
情報が次々と流れ込んでくる。過去の記憶、地下の歴史、そしてある一つの映像。
数億年前。まだ生物すら存在しなかった時代。孤独に思考し続けていた一つの意識。
誰とも交わることのない永い時間。
『寂しかったんですね』
ミオは思わず呟いた。
知性体は否定しなかった。ただ静かな肯定の波動を返した。
映像はさらに続いた。地表に生命が芽生え、海が満ち、やがて人が地上を歩き始める光景。知性体はその全てを、地の底からずっと見守っていた。
一度も、声をかけられることなく。
『ずっと、一人で……』
ミオの胸の奥が、締めつけられるように痛んだ。
『だから、崩落を起こしたんですね。誰かに、気づいてほしくて』
肯定の波動が、より強く返ってきた。それは、悲しみとも安堵ともつかない、複雑な色を帯びていた。
『だからミオさんを、灯さんを失いたくないんです』
彼女は目を開けた。頬に、涙が伝っていた。
「ミオ」
ローレンが静かに声をかけた。
「大丈夫か」
『はい』
ミオは頷いた。
『知性体は私たちを信じようとしています。だから私たちも応えなければ』
彼女はコアの奥、遠い場所を見つめた。
『蓮さんたちが戻ってきたら、全員で次の一手を決めます』
その時――
彼女の意識の端に微かな感覚が触れた。
遠く、地上の方角から。
蓮の気配。
ミオの表情がわずかに緩んだ。
『帰ってきています』
彼女は低く呟いた。
『無事に』
クロがふっと息を吐いた。
「なら、あとは時間との勝負だな」
ローレンが頷いた。
「合流地点を決めよう。地上組が深層まで下りてくるルートを」
「第八十五層のゴーストタウンが、一番安全だ」
ローレンは続けた。
「そこなら、レイヤー・プリーストの目も届く。奴らも、知性体の目覚めを、静かに見守っている」
『プリーストにも、協力を頼めますか』
ミオが聞いた。
「頼める」
ローレンは頷いた。
「あの神殿の連中は、誰よりも早く、知性体の変化に気づいていた。味方につけば、心強い」
ミオは結晶の壁にそっと手を触れた。
冷たく、しかし確かな鼓動のような振動が伝わってくる。
知性体もまた、待っている。
すべての者が一つの場所へ向かい始めていた。
---
第48話 完




