「夜の移動劇」
夜が来た。
中層第二十層の人工太陽が、天井の照明から徐々に光を弱めていく。本物の夜空ではない。だが、その人工的な暗転こそが、地下世界に住む者にとっての夜だった。
二十時を二十分過ぎた頃、蓮はミオを連れて、廃ビルを出た。
ライアンから送られてきた経路は、通常の地図には載っていないルートだった。中層の配管メンテナンス通路を縫うように南下し、第二十層から第十八層への垂直シャフトを使う。企業の監視カメラの死角だけを通る、執念の地図だった。
「経路の検証は」
蓮はミオに聞いた。
『マップデータと照合済みです。カメラ網と検問位置を回避する経路として、最適化されています。——ですが、一箇所だけ、回避不能な検問があります』
「どこだ」
『第十九層への垂直シャフトの入口。三人体制の検問。身分証チェックと、マナ波形スキャンを行っています』
蓮は短く息を吐いた。
マナ波形スキャン。これは、能力者かどうかだけでなく、個人特有のマナ・パターンを識別する装置だった。蓮自身は無能者なので、マナ波形は中性——だが、ミオの波形は、間違いなく特殊だった。
「お前のマナ波形、偽装できるか」
ミオは数秒、考えた。
『……可能です。標準的な人間のマナ波形を、模倣できます。ただし、長時間は維持できません。約十分間が限界です』
「十分あれば、検問は通れる」
「やります」
ミオが頷いた。
彼女の語尾から、ですます調が一部抜けていた。
蓮はそれに気づいたが、何も言わなかった。
彼女の言葉が、徐々により自然な口語へと変化していくのを、観察するだけだった。
---
配管メンテナンス通路を、二人は静かに進んだ。
通路の高さは約一・五メートル。蓮は身を屈め、ミオも頭を下げて歩いた。配管が走り、油の匂いが鼻をつき、足元には時折、漏れた冷却液の水溜まりができている。
二十分歩いた頃、蓮は前方に人の声を察知した。
彼は手で合図し、ミオを後ろの陰に下がらせた。
通路の角から、慎重に覗き込む。
企業の保安要員が二人、配管の点検作業を行っていた。
違法移動者を捜索する目的ではないが、蓮が見えれば確実に通報する。
「……回避ルートを」
『十メートル先の右側に、メンテナンス用の縦穴があります。そこから一つ上の通路に登れば、迂回できます』
蓮はミオを連れて、ゆっくりと後退した。
縦穴は、二メートルほどの深さで、上下に金属梯子が走っていた。蓮は先に登り、ミオを引き上げる。
上の通路は、メンテナンス頻度が低いらしく、埃が厚く積もっていた。蓮は埃を払いながら歩を進める。
ミオが、ふと立ち止まった。
「……どうした」
『この通路の構造、私の記憶にあります』
「記憶?」
『二〇二八年頃の、企業の極秘配管設計図に該当します。当時、私の基材の一部となった研究員が、この通路を頻繁に利用していたと、データに残っています』
蓮は息を止めた。
ミオの基材の一人が、この通路を歩いていた。
誰なのか、聞きたかった。だが、蓮は今は聞かないと決めた。
戦術的に必要な時に、聞けばいい。
彼自身の感情で、ミオの記憶を引き出すのは、避けたかった。
彼は黙って、再び歩き出した。
ミオも、それ以上は何も言わなかった。
---
検問所の手前、五十メートル。
蓮はミオに、最終確認をした。
「マナ波形の偽装、開始しろ」
『はい。——起動』
ミオの薄紫の瞳が、淡く光った。
蓮の計測器を確認すると、ミオの波形が驚くほど標準的な人間のものに変化していた。中層住民の中年女性の、ありふれたパターン。
「いいぞ。そのまま」
二人は、検問所に近づいた。
三人の保安要員が、立っていた。一人は身分証スキャナーを持ち、一人はマナ波形検出機を構え、もう一人はライフルを下げて警戒している。
蓮は懐から、サキが用意してくれた偽装ワーカーIDを取り出した。
中層第二十層住民、四十代男性、職業:配管修理技師——という、ありふれた身分を装った偽造証だった。
「身分証を」
「はい」
蓮は無言で身分証を渡した。
保安要員はスキャナーで読み取り、データベースと照合する。偽造の精度は、サキの腕で十分通用するレベルだった。
『——OK。次、女性』
蓮はミオに視線で促した。
ミオは前に出て、自分の偽装IDを差し出した。妻役、という設定の偽造証だった。
保安要員はミオを一瞥し、マナ波形検出機を彼女に向けた。赤いビームが、彼女の体表をスキャンする。
数秒。
画面に、標準的な中年女性のマナ波形が表示された。
『——OK。通れ』
二人は通過した。
検問所を抜け、五十メートルほど歩いた頃、蓮は短く呟いた。
「……お疲れ」
『はい』
ミオの偽装は、解除された。彼女の本来の波形が戻ってくる。
その時——
遠くで、青白い電光が、走った。
蓮の動きが、止まった。
ミオも、振り向いた。
『ゼノンです。距離、四百メートル。方向、南東』
「まだ追ってきてるか」
『追跡パターンではありません。哨戒しているようです』
「気づかれたら?」
『私が再度、マナ波形を完全に消すことは可能です。ですが、消すと、私自身も観測できなくなります』
「……ボーダーラインだな」
蓮は短く考えた。
距離四百メートル。ゼノンの探知範囲は、約二百メートルと推定していた。今の位置なら、ぎりぎり安全圏。だが、彼が哨戒でこちらの通路の方向に動けば、範囲内に入る。
「進む。——お前は、観測モードを優先してくれ。波形は隠さなくていい」
『はい』
二人は、足音を消して、通路を進んだ。
---
第十九層への垂直シャフトに到達したのは、二十二時三十分だった。
ライアンの指定した時間、二十時を、既に二時間半超過していた。だが、遅延は予測の範囲内だった。検問と哨戒回避を含めた所要時間として、ライアンも見込んでいるはずだった。
シャフトの底、第十八層の地点に到達したとき、蓮の目の前に、一本の暗い廊下が広がっていた。
古い、しかし手入れされている廊下。
ジャンク・ギルドの隠れ家。
廊下の奥、扉の前に、一人の男が立っていた。
ライアン・コール。
彼は腕を組み、無精髭の顔で、蓮とミオを見ていた。
「——遅かったな」
「予定通りだ」
ライアンは肩をすくめ、扉のロックを解除した。
「中で、サキが待ってる」
蓮の心臓が、一瞬、跳ねた。
彼は短く頷き、ミオの手を取って、扉をくぐった。
---
扉の向こうは、広い作業室だった。
壁には工具とホログラムモニター、机には設計図と部品、隅にはコーヒーメーカー。サキのジャンク屋の縮小版のような、親しみのある空間だった。
部屋の中央、椅子に座っていた女が、振り返った。
サキ。
左腕に包帯を巻き、額に新しい絆創膏が貼られていた。だが、目は鋭いままだった。
「……生きてたか、レン」
彼女は、いつもの口調で言った。
「あんたこそ」
蓮は、いつもの口調で答えた。
二人は、それ以上、言葉を交わさなかった。それで、十分だった。
サキの視線が、ミオに移った。
「……あんたも、無事で良かったよ」
『……ありがとう、ございます』
ミオが小さく頭を下げた。
サキは数秒、彼女の顔を見つめてから、コーヒーメーカーの方を指差した。
「コーヒー、淹れてある。——飲みな」
蓮は、ようやく、深く息を吐いた。
---
第15話 完




