選ぶ側
車は暗い道を滑るように走っていた。先ほどまでの混乱が嘘のように、周囲にはほとんど人の気配がない。だが静けさは安心を意味していなかった。むしろ、何かがすでに通り過ぎた後のような、不自然な空白だった。遠くで火の手が上がり、煙が空へと溶けていく。その煙すらも、星の光に照らされて白く浮かび上がっていた。
蒼は助手席でシートベルトを強く握っていた。指先に力が入りすぎているのが分かる。それでも緩められない。体の震えが、まだ収まらなかった。さっきの出来事が、現実だったのかどうかすら曖昧になるほど、感覚が追いついていない。
「……今の、何だったの」
美月の声が後ろから聞こえる。小さく、かすれている。泣くのをこらえているのが分かる。
沙紀は前を見たまま答える。
「分かってるでしょ」
短い言葉だった。
でも、それで十分だった。
分かりたくなかった答えが、はっきりと形になる。
「……殺すって言ってた」
蒼が呟く。
その言葉を口にした瞬間、胸の奥がひやりと冷える。現実として認識したくなかったものが、一気に押し寄せてくる。
「観測対象って、何なんだよ」
問いかけるように言うが、誰もすぐには答えない。
車はカーブを曲がる。タイヤがきしむ音がする。道路の端にはひび割れが広がり、その隙間から黒い影のようなものが見える。アスファルトの下が、どこか不安定になっているのが分かる。
沙紀が小さく息を吐く。
「たぶん」
一瞬だけ間を置く。
「知りすぎた人間」
蒼は顔を上げる。
「知りすぎたって……何を」
「この状況の理由」
沙紀の声は落ち着いていた。だが、その落ち着きが逆に現実の重さを際立たせる。
「さっきのラジオ、聞いたでしょ」
蒼は思い出す。断片的な言葉。
重力。
軌道。
引き寄せられている。
「……地球が」
言葉が途中で止まる。
言い切るのが怖い。
でも、もう分かっている。
「落ちてるってこと?」
沙紀ははっきりと頷く。
「たぶんね」
その一言で、世界の前提が崩れる。
地面は安定しているものじゃない。空は遠いものじゃない。全部が逆転している。
美月が後ろで小さく言う。
「……じゃあ、どうなるの」
誰もすぐには答えない。
答えがないからじゃない。
答えたくないからだ。
車内に重い沈黙が落ちる。
そのとき、蒼がふと窓の外を見る。
違和感。
何かが、動いている。
遠く。
暗闇の中。
最初は影にしか見えなかった。
でも違う。
ゆっくりと、うねるように動いている。
長い。
太い。
地面に沿って、ではない。
地面の下を、押し上げるように動いている。
「……また、いる」
蒼の声が低くなる。
沙紀が視線を前に向けたまま言う。
「見ない方がいい」
その言葉には、明確な意図があった。
理解してしまうと、戻れなくなる。
そういう種類のものだと、もう分かっている。
それでも、蒼は目を逸らせなかった。
影は一つじゃない。
複数ある。
地面の下に、何かがいる。
それが、動いている。
この世界は、もう人間のものじゃない。
その感覚が、じわじわと広がる。
そのとき。
沙紀が急にアクセルを緩める。
「……来てる」
低い声。
バックミラーを見ている。
蒼も振り返る。
暗闇の中。
ヘッドライトが一つ。
距離はある。
でも、確実にこちらと同じ速度でついてきている。
一定の距離を保ったまま。
「……追ってきてる」
美月の声が震える。
沙紀は短く言う。
「たぶん、さっきの」
その言葉で、車内の空気が一気に張り詰める。
逃げている。
明確に。
「どうするの」
蒼が聞く。
沙紀は答える。
「決めるしかない」
一瞬だけ、視線が鋭くなる。
「逃げ続けるか」
わずかな間。
「向き合うか」
その二択だった。
蒼の中で、何かが引っかかる。
逃げる。
それは正しい。
でも、それだけでいいのか。
このまま、何も分からないまま、ただ逃げ続けるだけで。
「……俺」
言葉が自然に出る。
「知りたい」
自分でも驚くほど、はっきりした声だった。
沙紀が一瞬だけ横を見る。
「何を」
「これが何なのか」
蒼は前を見据える。
「なんでこうなってるのか」
怖い。
本当は逃げたい。
でも、それ以上に。
このまま何も分からないまま終わるのが、嫌だった。
後ろで美月が言う。
「……私は、怖い」
正直な言葉だった。
「でも」
少しだけ間があって。
「一緒にいる」
その一言で、蒼の中の迷いが消える。
沙紀は小さく息を吐く。
「……後悔するかもよ」
蒼は答える。
「もうしてる」
短い沈黙。
そして。
沙紀がハンドルを切る。
脇道に入る。
舗装されていない道。
街灯もない。
暗闇。
ヘッドライトだけが前を照らす。
「逃げるだけじゃ終わらない」
沙紀が言う。
「だったら、情報を取る」
その瞬間。
空が大きく歪む。
全員が反射的に見上げる。
渦が、さらに広がっている。
さっきよりもはっきりと。
形を持ち始めている。
中心が、見える。
黒でもない。
光でもない。
ただ、“存在”だけがある。
見た瞬間、理解が追いつかない情報が流れ込む。
距離が消える。
時間が歪む。
蒼の視界が揺れる。
意識が引っ張られる。
「……近い」
誰かが呟く。
それが自分なのか、分からない。
空が、落ちてきている。
その感覚が、完全に現実になる。
後ろのライトが、さらに近づく。
追跡は終わっていない。
むしろ、これからが始まりだった。
世界の正体に近づくほどに、
逃げ場は、なくなっていく。




