1-17 猫じゃないからっ!
たしかにそれは、ぴくりと動いた。明らかに角ではなかった。
姿見の前にいたのは威厳あるサナトスじゃなかった。
立派な角の生えた龍人ではなく、猫耳の生えたキャシーが、そこにはいた。
「ねぇ、何これ?! あたしの角は!? どこ、どこなの!」
頭をかき回す。堅い角ではなく、柔らかな青の猫耳。髪と同じ色だ。
眉を動かすたびにひょっこりと跳ねたり、たらんと折れたりする。
キャシーは獣人の一種で、猫耳と長い尾が特徴的だ。敏捷で跳躍力に優れ、シーフの職分につくことが多い。
「大丈夫ですよ。猫耳に変化しただけですから。無属性の魔晶が躑躅の花に埋めてあるんです。変身魔法が込められています。」
「猫耳に変化って……」
「ご想像の通り、誰でもキャシー変身セットですっ! キャシーは数が多いですから、フレゼリシアでも怪しまれずに過ごすことができます。もちろん、ここラップランドでもっ」
「でも、ここに人耳が……あれ」
サナトスには人と同じ耳がある。側頭部についているはずのそれだ。
なかった。手でまさぐっても、あるのは髪と肌だけ。
「ああっ、クソ。これ、ほんとにキャシーになったわけ?」
「そんなことないです。見せかけですよ」
「こんなのどこで買ってきたの……」
「近くの服飾店で買いましたよ。あ、買うとき店員さんに『いい夜をお過ごしくださいね』って言われたんですけど、なんだったんだろう……」
「明らかにあたしたちみたいな子供向けのものじゃないって……」
「でも、ローブのままじゃ怪しまれちゃいますっ! さっきみたいに剥ぎ取られそうになったら、大変ですっ!」
「それもそうだけど……」
「いつでも解除できますから、安心してください。それに、とっても似合ってます」
「ふふっ」と笑いかけて、ミミリーは姿見の中のリィナと目を合わせた。
似合ってるなんて自分でもわかっていた。キャシーの多くは目つきが悪いから。
「もちろん、そのローブがおじいさまの仇なのはわかります。だから、マントにしましょう。ほら、こうやって」
「んっ……」
ミミリーはローブの中へ容赦なく手を入れてフード部分を整える。
繊細な指が首筋から肩へ流れ、そして背中へ。昨日出会ったばかりだというのに、どうしてここまで遠慮がないのか。
――そしてあたしは、なんで気を許しているのか。
「できました! これで、警戒心が高いフレゼリシアの人たちも、安心して接してくれますよ」
「本当かな」
「本当ですっ。地元のことなら、何だって知ってますから。まぁ、ユートランドで過ごした記憶は、母が殺された前と後の、ほんの数日だけですけどね。でも、知識はあります。大丈夫です」
「……他で宛てにする人もいないし、信じるよ」
「やったっ」
ガッツポーズをするミミリーに、間髪入れず口を開く。
「……ありがと」
「えっ?」
「あたしを心配してくれて、この花飾りをくれたんでしょ。こんな施しを受けたのは初めてだけど、礼は言わないと」
「いいんですっ! 私を守ってくれて、私の話を聞いてくれて。……フローラさんみたいに、私の隣にいてくれて。これからも側にいてくれたら、これからも、話し相手になってくれたら。それで、十分ですから」
「そっか」
ミミリーの顔には、どこか哀愁を感じられた。多分、遠くにいるフローラの顔でも思い出しているのだろう。
もう一度、新しい耳を触る。まだとりきれない違和感を払拭するため、手に慣れさせておかないと。
花飾りはご丁寧に右耳の根元についている。何の装飾もない地味な青髪に、一輪の躑躅。
目つきさえ除けば、清純で小綺麗なキャシーの少女。
誰もリィナが魔王軍幹部だなんて、思いもしない。
「……もう寝ようか。一日中歩いて、疲れたや」
「そうですね。明日は、どうします?」
どこか、期待を込めたような目つきだった。
「……ここを出る。朝一番に出る行商のキャラバンに同行させてもらう」
「はいっ! たのしみですっ!」
二人は足早に風呂を済ませ、そのままの勢いでベッドに飛び込んだ。
キングサイズのベッドに二人きり。
重い体を柔らかなマットレスに預けると、一気に眠気が襲ってきた。
日々の疲れが祟ったのだろう。安宿と言っても、ベッドの力は偉大だった。
「りぃなしゃん……おやすみなしゃぃ……」
消え入るような声の後、数瞬の間もなく彼女は寝息を立てた。
「もう寝てるじゃん」
そんな声は届くはずもなかった。
安らかな寝顔を眺めながら、リィナも目を閉じた。
ベッドの両端は、二人が寝ているとは思えないほどに間隔が空いていた。
どんよりとした空気が広がっている。
ここは、およそ人の過ごす場所じゃない。
五年前のリィナも、同じような感覚に襲われた。
まるで湿気に飲み込まれて、窒息してしまいそうな感覚だ。
目を開ければ、先ほどと同じ。きっと彼女の右目には、鮮血が噴出してしまいそうになるくらいの激痛が走っていることだろう。
禍々しい黒い城を、灼眼と紫眼の二つがにらんでいた。
初めて来たときはその広さに戸惑ったが、今となっては誰の案内もなくここにたどり着ける。
王の間を横目に通り抜け、また広々としたテラスのような場所に出た。
そこには、女と男がいた。
女は裸とさほど変わらぬ、露出度の高い装束をまとったサキュバスで、腕を組みながら空を見上げていた。
リィナに気づいたと思えば、髪と体を揺らしながらこちらへ駆けてくる。
「かわい子ちゃんじゃない! どうしたのよぉ~そんなかわいいお耳はやして!」
「あっ! これはちがっ……! ちょっと、くすぐったいって! やめてレベッカ! ぃやっ!」
長身サキュバスの翻弄を押しのけられるほどの身体能力など、小柄なリィナにはない。
「減るもんじゃないんだし」と言いながら柔らかな猫耳を優しく丁寧に触ったり、無意味に伸ばしたりする。
ぞわぞわという、なんともいえない感覚が頭頂から降り注ぐ。
なんとか振りほどいて、守るように猫耳を抑え、同時に躑躅を触る。角が再び生え、元のリィナに戻った。
紅潮する頬とじと目をレベッカに向けて威嚇するが、その顔がなんともかわいらしくてレベッカはくすくすと笑う。
「……何の知らせもなしに魔王軍を動かしたと思えば、数ヶ月ぶりに押し入ってきて二人で巫山戯るだけですか」
「あたしはあんたに用があって来たの! このエロサキュバスが勘違いしてるだけだから!」
「ひっどぉ~い! あたしが一番リィナちゃんの面倒を見てあげたのに……。リィナちゃんはギレンを選ぶのね……」
「どっちも選ばないから……! それで、ギレン!」
「ギレン軍師、ですよ」
モノクルをかけた高身長の男は、リィナを見下すようにそう言う。
言動はかなり低姿勢のように見えるが、真の性格は全くの逆だ。こいつは誰も彼もが自分より弱いと思っている。
「ギレン軍師……。あんたに頼みがあってきた」
「はい。なんでしょう?」
「魔王軍の指揮権がほしい。今ラップランドの近くに潜んでいる軍隊と、予備役の全て」
「予備役? それはまた何故?」
「かなり手強そうな敵がいる。おそらく頭も切れて、人間とは思えないほどの戦闘能力を持っている」
カフカのことだ。
「……いいでしょう。ですが、ラップランドというところがいただけませんね。大きな街ですが、人口が少ない。よりみちなんてしないで、次の目的地であるフレゼリシアに陣を敷いた方が良いのでは?」
「そうよ。たった数千人の人間のために、三倍の量の魔王軍を充てるなんて勿体ないわ」
「レベッカは仕方ないけど、ギレンは軍師のくせに地図すら読めないんだね」
「地図?」
「ラップランドは、フレゼリシアとアスラン、東方諸国を結ぶ結節点になってる。ラップランドを潰せば、フレゼリシアに届くはずの物資がなくなるんだよ」
地図を見れば蜘蛛の巣状に張り巡らされた交易路の全てが、ラップランドへ繋がり一つのそれに収束しているのがわかる。
「なるほど、兵糧攻めというわけですか」
「たしかに、フレゼリシアの寒い気候なら、食べ物も育たないわね……。やっぱり賢いわ! あたしのリィナちゃん……!」
「抱きつくな! 苦しいから……」
「怒らないでよぉ……」
豊満な体を後頭部に押しつけられるが、それで喜ぶのは男だけだ。
ギレンはレベッカのことなんていないみたいに無視しているし、この女はただリィナを嘲るためにこんなふざけたことをやっているのだろうか。
「……元々幹部には、一部指揮権を渡しています。大きな賭けになるかもしれませんが、いいでしょう。リィナさんの魔王様への献身に期待します」
腹に手を当てて、紳士気取りの彼は頭を下げる。
その腹の内に、リィナへのリスペクトなんてないくせに。
「じゃあ、それだけだから。もう始まる」
「え~、もう行っちゃうの?」
「早くしないと夜が明ける」
「そっかぁ……。また来てね、リィナちゃん」
「また近いうちに来るよ」
別れの挨拶を済ませたレベッカは、煙のように消え去った。
あんな鬱陶しかったのに、どこか寂しいと思っている自分に困惑した。
「あたしも帰るから。それじゃ」
「あぁ、少しいいですか」
「何」
「今日が初めての攻撃でしょう。楽しんでくれればと思いまして」
「楽しむ?」
「えぇ。壮観ですよ、人間が鳴いている姿というのは。言葉のつながらない魔王軍を、必死に説得するのです。『どうかお救いください』と。もっと追い込んだらさらに面白い。神頼みですよ。人間が都合良く作ったただの創作物だというのに……。哀れで愚かな生物……ふふふ」
何かを思い出しながら話すその姿は、不気味他ならない。目は徐々に充血し、口は裂けるほど饒舌になる。間違いなく正常な精神状態ではなかった。
「あたしはそんなことしない」
「私の見当違いでしょうか? リィナさんのようなサナトスは情けのない戦闘民族だと思っていましたが」
「情けはない。でも、人間のそんなくだらない御託を聞いてる暇があるなら、その間に五人殺せる」
「……どうやら、貴女と私では趣味趣向が合わないようだ」
「五年前からそんなことわかってた」
「ふっ……私が育てたというのに」
鬱陶しい。魔族の分際で、父親ぶるな。
「いい加減帰る。じゃあ」
返事を待たずに、テラスを後にした。
本来なら魔王に挨拶くらいはするが、胸のざわめきが収まらないので早々にそこを離れた。
「ッチ……! クソっ!」
壁を殴る。
五年前の記憶を振りほどこうと頭を振る。
胸のブローチを握った。
なにも変わらないのに、この瞬間何もかもが変わってしまえと、本気で思った。




