-【1-6】-欲しくもないサッカーボール
女神は「願いを叶える」そう言いながらリュンクのおでこに指を這わす。
おまじないや儀式の類か、そういう風習か。
何にせよその指はヒンヤリと冷く、人間の指とは少し違っていた。
「叶えるって……それって」
ドクンドクンと心臓が跳ね始める。
期待に胸が踊るとはこの事だ。
「異界に渡る気はないですか?という意味です」
「違う世界に…行けるの?」
「貴方が望むのなら、叶えましょう」
「行きたい!!」
リュンクは、食い気味にそう答えた。
すぐに返事をしないと、女神の気が変わってしまうと思ったからだ。
「望むのですね?」
「うん!!」
「望むのならそう言いなさいな」
「望む!!」
「良いでしょう。リュンク。貴方を渡界させましょう」
女神は、おでこに当てたままの指をクルクルと回し始める。
その指は摩擦熱では説明できない熱量を帯び、やや熱い。
「これは特典です。この美しい女神からのささやかな贈り物…「当別な力」を授けましょう」
リュンク本人には見えないが、幾何学模様をあしらった赤い輪がおでこに記される。
「お!お!特別な力!どんなの!?炎とか出せるの!?魔法みたいに!!」
「どうでしょうね。それはお楽しみです。それと、これもあげましょう」
そう言いながら、女神がローブの中から取り出したのは
真鍮色で細かな装飾に飾られた小さな金物だった。
「これは?」
「貴方の身を守る防具です。剣などを背負うのにも使えますよ。
肩につけると良いでしょう。付けてあげます。後ろを向いてください」
言われるがまま、女神の言う通りに後ろに向く。
肩と背中の方でカチャカチャと金具を止める音が聞こえる。
リュンクは内心、武器の方が良かったと思っていたが
それよりも、異世界への冒険に期待し高鳴る胸を抑え込むのに必死だった。
「これで良いでしょう。次は門を用意します」
女神は、元カンチョー岩に近づき両腕を広げる。
すると、カンチョー岩跡地の空間が下側の長いバッテンの形に裂け、
その下部が地面に接すると同時、
バツの交点から地面にかけて
明らかに歪みの様な三角形の入り口が現れた。
「これは朝夜の門。私の父と母が創造した他界へと渡る唯一の紋術です」
ー紋術。
その紋術というのは、魔法の別称の様なものだろうか?
それを使用して開けられた門、
門と呼ぶからには、あの歪みに入る事で「異界」とかいう世界に行けるのだろう。
リュンクはとりあえず、門に近づいてみる。
その歪みはシャボン玉の表面のように虹色の膜が漂っていて
薄っすらと向こう側に何かが見える。
彼はわずかの恐怖心を認めた。
「さぁ。リュンク、勇気を出して入ってみるのです」
女神は、それを察してなのか、リュンクの背中を後押しする。
リュンクには本腰を入れて異界に行く前に用意したい事や物がいくつかあった。
修学旅行で購入した木刀、カッターナイフといった武器や、
ライターやロープ、絆創膏、消毒液などの冒険グッズ。
あらかじめ女神に聞きたい事も沢山ある。
そもそも異界とはなんなのか、
例の悪神の名前や、
言葉は通じるのかどうか、
なぜ自分が選ばれたのか、
仲間はいるのか、こちら側に戻ってくるにはどうすればいいのか……。
でもまずは全部置いといて、
その異界とやらに、一歩、踏み入れてみるのも良い。
「よぉ〜し!行くぞ!お邪魔します!」
リュンクは目を瞑り、
ゆっくりと右足の先端から異世界に踏み込む。
門をくぐり抜ける感覚、とても奇妙な感触。
片栗粉に指を入れた時や
グランドのライン引き内部の粉に腕を突っ込んだ時の感覚に似ていた。
ズズズと、抵抗なくめり込んでゆく、あの独特な感触。
その感触を楽しんでいると、突然全く抵抗感から解放される。
両まぶたを開けると、そこは……
夜空に広がる星々を写す海岸だった。
「お……ぉお……おおおお!!すごい!すごいよ!」
一瞬で夜になり、
目の前に絶景の海が広がれば違う世界だという実感も湧いてくる。
それと匂いだ。
先ほどまで居た山頂から海岸に来たからでは無く、
この世界独特の匂いが漂っている。
「ここで…ここで僕の冒険が始まるんだ!!
ねぇ!女神!ここってさ!ドラゴ……」
女神に質問をしようと勢いよく振り返るリュンク。
遥か遠くに水平線と、視界の端に鬱蒼とした山々が見えた。
「…あれ?……ちょっと…女神?どこ?」
夜天光で照らされた海岸を見渡しても、
女神はおろか例の門すら見当たらない。
「いやいや…いやいやいや!」
リュンクは血相を変えて慌て出す。
それもそうだ。
リュンクは女神から
元の世界に帰る方法はおろか、
その他諸々、まだ一切何も聞いて居ないのだ。
「そりゃないよ!!これからどうすりゃいいのさ!!」
だが、ふと心の底に能動的な感情が産まれる。
それは、悪神からあの女神の家族を助けなくてはという意欲的な気持ち。
これが正義感というやつだろうか、
なんにせよ、プラス思考なのは良い事だ。
それにリュンクには女神から与えられた「特別な力」とやらが有る
額に宿ったこの力で、何かこの世界を救う糸口を掴めるかもしれない。
「そうだ!僕は一応女神から選ばれた勇者!
悪い神から皆を救う!勇者なんだ!!」
闘志と勇気に燃える少年がそこには居た。
彼の心に使命感と決意が満ちてゆく
心なしか、体も熱くなって来た。
パシィ!
「おあっ!」
不意に、デコピンをされたような衝撃がリュンクの額に走る。
強い痛みはないが、結構な衝撃だった。
小型の甲虫がぶつかって来た時と同じくらいだ。
「なんだよ、水差すなよな……」
額の違和感に何かついて居ないかものかと
手の平で擦るとボロボロとシールのようなものが剥がれてきた。
それは、赤色で薄っぺらい。
一体何がぶつかったのだろうか?
「ん?なんだよこれ。虫の血?
……いや、これって…もしかして……」
それは紛れもなく先ほど女神が「特別な力」と言いつつ授けてくれたものだった。
「とぁ……ととと…とぇ…取れてるじゃないか!!」
女神による突貫工事のやっつけ仕事のせいか
せっかく与えられた特別な力は使う間も無く
剥がれて消えてしまった。
ボロボロとカスになって落ちてゆくその光景を見ていたら
リュンクは、急激にやる気が無くなっていくのを感じた。
このやるせない状況に置かれた現実逃避の一種だろうか
リュンクは、クリスマスに期待値の高い包みから出てきたのが
欲しくもないサッカーボールだった時の…
あの朝の、どうしようも無い悲愴感を思い出していた。