第二話 幻境
夜、酒楼の前。
陶霖たちは二手に分かれ、酒楼を挟んだ両側から広い通りを見張っていた。
「来た」
ゆっくりと歩いてきたのは、目を見張るほどの真紅の衣の女。
薄い紗が頭から顔全体を覆っている。
灯籠を持った罗景真と陶霖は、並んで歩き出す。
占術師に近づくと、ぴたりと足が止まった。
「そこなお二人さん」
伸びた背筋には似つかわしくないほどに嗄れた──まるで老婆のような声。
そして、甘くもさっぱりとした果物のような芳香が漂ってくる。
これが意識をおぼろげにする術だろうか。
つい先ほど罗景真とともに清心術を自身にかけた陶霖は、冷静に目の前の女を観察する。
歩みは不自然なほどに遅い。
深紅の長衣は地面を掠めるほど長いためわかりづらいが、女は片足を引き摺るように歩いている。
甘い香りの中に感じる、腐臭。
間違いなく屍の類だ。
隣を歩く罗景真を見上げると、いつものように感情が見えない顔だ。
しかし弟子である陶霖にはわかる。
普段は早足の彼だが、今は女に合わせ、陶霖でも遅いと感じるほどの速度で歩いている。
──少し苛立っているな。
陶霖は心の中で笑う。
陶霖もゆっくりすぎて手持ち無沙汰なのだ。
やがてやってきたのは、廃屋敷だった。
夜の廃屋敷は、昼とは比べものにならないほど冷え冷えとしていた。
門を潜ると、深青の衣の袖の下で、灯籠の灯りが静かに揺れて足元の石畳をぼんやり照らした。
占術師がそのまま真っ直ぐ石畳を進むと、扉がぎい、と開いた。
正堂の中が、灯籠のぼんやりとした灯りに照らされる。
占術師は、そこに置かれた蓋の開いた棺を見て、それから陶霖と罗景真を見る。
──入れ、ということか。
陶霖が理解する前に、罗景真は棺の中を一度見て、棺の横に灯籠を置くと、何も言わずにそのまま中に入る。
陶霖はその後から棺の中へ入ろうとするが、罗景真の身体は大きく、入り込める隙間がない。
仕方なく、罗景真の身体の上に背中を預ける形で棺へ入った。
木を引きずる音がして、棺は閉じられ、中は暗闇に包まれた。
「……師尊、すみません」
「構わぬ。それより」
陶霖の頭の上から、罗景真が小声で話す。
「鬼の領域だ。清心術は使えない」
「はい。……幻術の類、ですよね」
「その可能性が高い」
話が途切れると、棺の中は静寂に包まれた。
陶霖と罗景真の呼吸の音、微かに布の擦れる音が響く。
先ほどから感じていた甘い香りが、閉ざされた棺の中でますます濃厚になっていく。
陶霖の視界はゆっくりと暗転した。
「……師尊?」
陶霖は、巡風門に──罗景真の居室の前に立っている。
そこはいつものように木々に囲まれていた。
皆がここを時々修練場にするせいで、この居室の前の広い空き地だけ草が生えず、乾いた土が剥き出しになっている。
木々の隙間の小道から、罗景真が歩いてきた。
「師尊!」
「……陶霖、来たか」
「師尊、ここは……」
「十本だ」
罗景真はいつの間にか木剣を持っていて、陶霖の手にも木剣が握られている。
罗景真はいつもと同じく、そこに立っているだけだ。
ジリジリと陶霖が近づく。
隙がない。
陶霖が斬りかかる。
たった数手で陶霖は罗景真に一本取られた。
その後も陶霖はあっという間に罗景真に十本取られ、息を切らしながら地面に腰を下ろす。
「お前はやはり、剣術には向いてない」
「……知っています」
罗景真が陶霖に近づき、目の前で膝をつく。
「手を見せなさい」
陶霖は言われるままに手を差し出す。
木剣の打ち合いで、指や掌の皮が少し裂け、一部からは血が滲んでいる。
「手当をしよう」
罗景真はそう言うと、居室の裏手に回った。
山の泉から引いた水が絶えず流れている細い石の水路から汲んだ水を、陶霖の手に掛ける。
水の冷たさに、陶霖はぶるりと震えた。
手巾で拭かれ、居室に入る。
罗景真は引き出しから軟膏を取り出すと、陶霖を椅子に座らせた。
「手を出しなさい」
罗景真の硬く骨ばった大きな手が陶霖に触れ、傷の一箇所ずつに軟膏を塗ると、傷に布を巻いた。
「師尊、これでは何もできません」
「そう、だな」
罗景真はそれでも、陶霖の手に布を巻き終えた。
どうしてあの占術師はこんな幻を見せるのだろう。
これでは陶霖にとって、ただの日常だ。
「……師尊が世話してください」
それでもこの師尊が幻であるなら。
もう少しだけ。
「師尊」
罗景真はしばらく陶霖を見ていたが、軟膏に蓋をして、引き出しの中へしまう。
そして部屋の向こう側へ消えると、鉄壺を持ってやってきた。
小さな火炉の中の炭に火符で火を付け、鉄壺を上に置く。
再び部屋の向こうへ消えると、今度は茶器を手に戻ってきた。
陶霖は座ったまま、その様子をぼーっと見ていた。
「飲みなさい」
日に焼けた大きな手が持つ茶杯は、陶霖の口の前まで近づいた。
そっと口を寄せると、罗景真は慎重に杯を傾ける。
ごくり、と一口飲んだが、口に入りきらない茶が端から茶がこぼれ、陶霖の道衣を濡らした。
罗景真は懐から手巾を取り出し、陶霖の口元と濡れた道衣を拭く。
そしてその大きな手が、陶霖の頭を包むように、優しく撫でた。
陶霖の大好きな手だ。
「……何故泣く」
見上げると、罗景真は陶霖の頬に手で触れた。
手巾で目元を拭われる。
「だってこれ……」
──こんなの師尊じゃない。
師尊がこんなに優しく触れるはずがない。
だって師尊は母のことが今でも──。
ふわり、と香るのは、花のような、木のような。
甘くも冷たい香り。
大きな身体が陶霖を包み込む。
頭の上から「泣くな」と低く響くような声がした。
陶霖は罗景真を弱々しく押し返しながら言う。
「優しく、するなっ」
頭の上から、ふ、と鼻を鳴らす声。
「そなたは十一の頃から、何も変わっていないな」
罗景真の手は、再び陶霖の頭を優しく撫でる。
「師尊は……母のことが好きなのですよね」
「何故お前の母親が出てくる」
「だって、」
「陶霖、陶明稀。そなたは、そなただ」
罗景真を見上げると、陶霖の欲しい微笑みをくれたのだった。
陶霖は、恐る恐るその背中に腕をまわす。
「ずっと私の師尊でいてくださいますか」
罗景真は巡風門、養心堂の裏手の空き地にいた。
よくできた幻境だ。
弟子の二人が何やら話している。
何を話しているのかはわからないが、どうやら二人で打ち合いをするようだ。
しかし……どこか違和感がある。
この二人の弟子、葉遠瑶と陶明稀は今よりほんの少し、年齢を重ねているのか?
違和感の正体はわからない。
葉遠瑶には剣術の才があり、近年では罗景真との打ち合いでも十本中一本程度の割合で勝つこともあるほどだ。
そして陶明稀。
彼は葉遠瑶より年齢は五つ離れ、経験や才の差はもちろんだが、背丈も頭ひとつ分違うのだ。
腕の長さが違う。
師に似てくるとはよく言ったものだ。
──葉遠瑶の動きはまるで、自分のようだ。
葉遠瑶は大きく動くことなく、陶明稀から十本を取った。
陶明稀が手に怪我をしたようだ。
葉遠瑶が彼の手に軟膏を丁寧に塗り、布を巻いた。
そしてその手で湯を沸かし、淹れた茶を陶明稀に……飲ませた。
そして茶がこぼれたのか、葉遠瑶が手巾でそれを拭う。
罗景真はなぜか見てはいけないものを見てしまったような心地になり、慌てて目を逸らす──。
「よく見てなさい」
逸らした視線の先には、真紅の長衣を纏った女がいた。
「一体何を見せるつもりだ」
「……」
女は一言も発することなく、ただその場に佇んでいる。
害する気がないとわかると、罗景真は再び二人の弟子を見た。
葉遠瑶が陶明稀の頭を撫でる。
陶明稀が見上げると、葉遠瑶は彼の頬に手を添えた。
そして、葉遠瑶が椅子に座る陶明稀を包み込むように抱擁する。
しばらくすると、陶明稀の腕が葉遠瑶の背に回された。
「この娘は他の男を選んだ」
「そうだな」
だから何だというのか。
彼らがそういった関係であったとは知らなかった。
しかし、そう珍しいことでもない。
……いや、これも幻影か。
尚も語らない女を前に、罗景真は再び彼らを見る。
陶明稀を抱擁する葉遠瑶の手に、きらりと光るものが見えた。
──なるほど、そういうことか。
「娘を助けたい?」
罗景真は無言で女を見る。
女の顔を覆った紗が、微かに揺れる。
「助ける必要ないでしょう?娘はあの男を愛しているのだから」
愛の試練、とはよく言ったものだ。
「娘を助けるといい。だが、そうすれば、お前の魂魄は私のものだ」
紅の紗が風で煽られ、女の顔が一瞬、あらわになった。
皮膚は腐って変色し、目の周りの皮膚は剥がれ落ちて、眼球が殆ど剥き出しになっている。
「そうか」
罗景真はすばやく剣を呼び出し、女に斬りかかる。
瞬間、女は真紅の靄を残して消え去った。
「……しかたない」
葉遠瑶の持つ小刀は、陶明稀の背中から心臓をまっすぐに狙っていた。
「陶明稀!!」
罗景真は思った。
──葉英に、棺に入る役目を任せておけば。
この葉遠瑶も幻境の作り出したもの。
試されているのは、男だけか。
罗景真は躊躇なく愛弟子を──葉遠瑶の心臓を、剣で刺した。
幻境は消え去り、罗景真は棺の置かれた薄暗い正堂にいた。
右手に持った剣には、血の跡も残っていなかった。
しかし、嫌な感触だけが手に残って気味が悪い。
「師尊」
陶明稀が呆けた様子で罗景真を見ている。
後ろから嗄れた声が聞こえた。
「その愛は偽りではないようだ」
開いた戸の向こう、雑草の生い茂る石畳に、女が月光に照らされながら立っていた。
「愛の証を与えましょう」
「いや、いい」
罗景真は即座に断る。
「何故?」
「この娘は私の弟子だ」
「……ほう」
「聞きたいのだが、そなたはなぜこのようなことを続けている」
「そんなの、決まっているでしょう」
風が強く吹き、紗の下の突き出た目玉と罗景真の視線が合う。
「娘たちを救ってやっただけです。裏切られる絶望の未来から」
「どういうことですか」
背後から小声で問いかける陶霖を、罗景真はじろりとひと睨みし、続ける。
「近頃は街で見かけた男女を見境なく棺へ入れていたようだが」
「……」
「鬼怪としての本能に勝てなくなったか?」
「……その娘!なぜ幻術が効かない!?」
罗景真が背後を見ると、陶霖は棺の蓋を持ち上げているところだった。
「何をしている」
「なんの話か教えてください」
罗景真は大きなため息を陶明稀に聞かせた。
「黙って聞いていなさい」
「……はい」
二人のやりとりを静かに聞いていた女が言う。
「そう、仙師なのね」
罗景真は身構えたが、女に敵意は感じない。
「その娘」
女は陶霖に言う。
「安心なさい。お前が見たのは、お前の中にあるものです」
そっと言い聞かせるような、柔らかな声色。
そして、罗景真に向き直った。
「裏切る男も、愛を貫く男も、一途な女も……数えきれないほどの数の愛を見てきました」
そう言うと、女は頭に垂れた薄い紗を引きちぎるように外した。
崩れた顔があらわになり、後ろから「ひっ」という小さな声が聞こえた。
「私は、ただ私だけを一途に想っていて欲しかった、それだけ」
女は少しずつ、罗景真たちに近づく。
「魂を喰らいすぎて、近頃は自分が何をしているのかわからない時間が多すぎる」
女が自身で真紅の袖を引きちぎると、一枚の皮だけで繋がっていた腕が、ぶらりと垂れ下がった。
「お前たちにはわかるのでしょう?」
ぶらりと下がった腕を、ちぎって放り投げる。
壁に当たる音が大きく響いた。
「私はこのままでは、男も女も見境なく魂を喰らうだけの鬼になるのでしょう?」
そう言うと、女は罗景真の前で、倒れ込む様に膝をついた。
罗景真は、手元に剣を呼び出す。
「……私は、どうしたら良かったの」
涙を失ったその濁った瞳は、罗景真の姿をはっきりと捉えている。
「そなたは死してなお、夫を愛していたのだな」
罗景真は、淡くなったその真紅の中心を、自らの霊力の籠った剣で貫いた。
赤い仄かな光が辺りを微かに照らし、やがて消えた。
罗景真が門を見ると、葉遠瑶、温柔燐、鄭花澈の3人が顔を出した。
「師尊、はやすぎます」
「僕たちが不必要すぎます」
「出番なかった……」
素直な彼らが揃って不平を並べる。
「……すまない」
罗景真が素直に謝ると、葉遠瑶と温柔燐は慌てて言葉を訂正する。
「し、師尊が謝ることではないです!」
「そうです!僕たちが役立たずすぎるのです!」
そして鄭花澈が言った。
「思ったよりもあっさりでしたね」
「……そうだな」
「あの占術師は生前、浮気されて死んだんですかね」
棺を見ながら言った鄭花澈の言葉に、温柔燐が漏らす。
「そんな情緒のない言い方あるんだ」
「もっと恨みの強いものかと思っていたが……」
罗景真がそう言うと、辺りに風が吹き抜け、先ほどのほんのり甘い芳香がふわりと香った。
「今晩はここらに泊まって、明日様子を確認してから帰りますか?」
温柔燐のやわらかな声が沈黙を破る。
「そうだな。詳しい話はまた明日だ」
四人は宿へ向けて歩き出す。
門へ差し掛かると、葉遠瑶が言う。
「陶霖!行くよ!」
皆の視線の先で、頬を膨らませた末っ子が棺の影に座り込んでいる。
「あんな手のかかるガキ、置いてけばいいのに」
鄭花澈はそう言い、ため息をついてから大声でいう。
「師尊が葉英に、あんなの置いてけだってよ!」
棺の横の子どもはすっくと立ち上がり、こちらに駆けてくる。
罗景真の前に立つと小さな声で言った。
「師尊……すみませんでした」
「……わかるな?」
「はい」
罗景真はそれだけ聞くと、歩き出す。
鄭花澈は賢いが、言葉に遠慮がなさすぎるために軋轢を生むことも多々ある。
しかしながら、人の扱いに長けているのだ。
どんな言葉で人がどう動くかがわかっているような。
だが、そうであるなら、人と揉め事を起こすことも避けてもらいたいが……。
そして罗景真の脳裏に浮かぶのは、今後ろを歩く二人の弟子の熱い抱擁。
……どのように説明しようか。
罗景真の悩みは尽きない。
「陶霖」
翌朝、陶霖は眠い目を擦りながら目を覚ました。
「珍しいね、君がなかなか起きないなんて」
葉遠瑶が寝台の横に立ち、微笑んでいる。
「おはよう……」
陶霖は身体を起こしたが、頭がぼうっとして、瞼が重い。
「眠れなかったのか?」
「うん……」
その問いに、陶霖は昨晩自分が眠れなかった原因を思い出した。
途端に顔が熱くなる。
「え、……どうしたんだ?」
「なんでもない」
「幻境で何を見たのか、温安や鄭知には言わないから、教えてよ」
葉遠瑶の期待するような目を感じ、陶霖は居心地が悪い。
誤魔化すように寝台から立ち上がり、道衣に着替えて髪を整える。
「陶霖?」
昨晩小さな卓に放っておいた簪を手に取り袂へしまうと、葉遠瑶を置いて部屋を出る。
「おはよう」
罗景真、温柔燐、鄭花澈の三人は既に朝餉を前に座っていた。
「遅かったな」
「占術師が怖くて眠れなかったの?顔色が悪い」
温柔燐に言われ、陶霖は再び顔を赤くする。
「……うん」
後からやってきた葉遠瑶が陶霖を訝しげに見るが、幻境のことは決して知られるわけにはいかない。
「で、棺の中で何があったのですか?」
鄭花澈の言葉に、陶霖と罗景真は盛大に咽せた。
「大丈夫ですか?」
「ああ……いや、なんてことない。娘側の陶明稀を危機に見せかけ、その上で『娘を助けたら魂魄を奪う』と脅されただけだ」
陶霖は内心、『そうだったのか?』と思ったが、同時にほっと息を吐いた。
罗景真と視線が合う。
陶霖はさっと目を逸らし、ちょうど運ばれてきた甘粥を食べはじめた。
一行は宿で朝餉を済ませると、廃屋敷へと向かった。
異常がないことを確認するためだ。
「それにしても、こんな棺、どこから持ってきたんだろう」
「自分の入ってた棺なんじゃないか?」
荒れた廃屋敷には相変わらず隙間風が吹いていたが、昨日より寒々しさは幾分か減っている。
屋敷の隅まで確認し、変わったことがないのを確認した。
「そういえば、どうして共同墓地に魂魄を食われた人の目撃情報が出ていたんだろう」
陶霖が言うと、鄭花澈がフン、と鼻を鳴らして言う。
「そんなの、魂魄を食われたからに決まってるだろ」
「え?」
「死人に近づいたんだ、同じ気の集まるところに行くに決まってる」
「……そんなの、わかってるよ」
陶霖はそう言うと、また鄭花澈に「わかってなかったくせに」などと言われると思っていたが、彼はにやにやと口元に笑みを浮かべながら陶霖を見ただけだった。
陶霖は余計に悔しくなって早歩きになる。
「酒楼に行くんですよね。あの梅姐って人はまだ何か知ってそうだった」
酒楼で茉莉花茶を頼んでから五人が卓で話をしていると、梅姐がお茶を持ってやってきた。
「また来たのかい」
そう言いながら、卓に茶器を置き、順に茶を注いでいく。
「何かまだ知ってそうだったので」
真っ直ぐに見つめると、梅姐と呼ばれた女は、はぁ、とため息を吐いた。
「それより、占術師はどうなったんだい?」
「祓いました」
罗景真が言うと、梅姐はほんの少し、顔色を変えた。
「そう……それで、どんな最期だった?」
罗景真は話した。
幻境で娘を助ける試練を与えられたこと。
最近は魂魄を吸収しすぎて鬼怪としての本能が強くなり、見境がなくなっていたこと。
彼女は一途に想っていて欲しかっただけ、と言っていたこと。
完全な鬼に堕ちることは望んでいなかったこと。
そして最期は、罗景真の手によって祓われたこと。
梅姐は、ただ静かにその話を聞いていたが、話が終わると、やがてぽつりぽつりと話し出した。
「あの子はね、私の親友だったんだ」
そう話す梅姐は、過去を懐かしむように微笑む。
「もう七年も前になるか。彼女の旦那はこの街のお偉いさんだったのさ。あの子は夫のことを愛していたよ。けれどもこの旦那はね、困ったことに結婚しても浮気性が抜けなかった」
「もしかして、住んでいたのは……」
葉遠瑶が待ちきれずに聞くと、梅姐は言った。
「そうだよ。その廃屋敷だ」
彼女は続ける。
「その旦那は酷いもんでね、何度も浮気をしては、彼女に謝って。きっと優しいあの子に甘えていたんだ。私はいつもここで、あの子の話を聞いてやってたんだ。でも、そうしているうちに、あの子はおかしくなってきてしまった。
いつものようにうちで酒を飲んで、それから……次の日、遺体が見つかった」
誰かがゴクリ、と唾を飲み込んだ音が響いた。
「別に事件なんかじゃない、酔って階段から転げ落ちたんだ。それだけだよ」
梅姐は静かに続ける。
「あの子が共同墓地に埋葬されてしばらくすると、あの子の旦那も亡くなった。彼もあの子と同じ死に方だったみたいだよ。
それから、変な噂を耳にするようになった。棺に入らせて縁結びをする占術師がいるって。何年も噂はあったけど、魂を取られるって言うのが出回り出したのは最近なんだ。
それまでも突然人が行方不明になって、ある時茫然自失の状態で発見された、ということはあったけれど、それが棺の占術師と結び付くことはなかった。
私が占術師に会ったのは、二年くらい前か。薄い紗で顔は隠れていたけれど、声や話し方でわかった。あの子だよ。それから私は彼女について行った。あの子に会っている間のことはぼんやりとしか覚えていなかったけど……それからのことは、昨日話した通りだよ」
「話してくださって、ありがとうございます」
温柔燐が言うと、梅姐は静かに微笑んだ。
「こちらこそ、ありがとう」
彼女はそう言うと、「ゆっくりしていって」と厨房の中へ入っていってしまった。
陶霖たちはついでにと割り当てられていた結界符の貼り替えを行ってから、御剣で巡風門へと帰る。
罗景真は依頼主への報告を済ませ、一人先に帰っていった。
常に多忙であるため、帰ってからもまたすぐに何かしらの仕事をしているのだろう。
陶霖たちは、巡風門へ戻れば報告書を作成して提出しなければならない。
巡風門へと帰る途中、葉遠瑶は再び陶霖に聞いた。
「やっぱり幻境を見たんだろ?男だけを試したのなら、陶霖はどうしてそんなに話したがらない?」
あまりに的をついたことを言う葉遠瑶に、陶霖は「覚えてない」と言うしかなかった。
初任務を振り返る。
「もっと邪祟と戦ったりしてみたかったな」
「今回は逆に珍しいし、貴重な経験だと思うよ。幻境を使えるような鬼怪なんてなかなか出会えるものでもない」
温柔燐が答える。
「そっかあ」
陶霖はまた幻境でのことを思い出して、顔を赤くするのだった。
「師尊、報告書です」
その晩、陶霖はなんとか書き上げた報告書を持って罗景真の居室を訪ねていた。
「今読むから、待っていなさい」
卓の上に広げてあった書や、書き途中らしきものを避けてから、陶霖の報告書を読みはじめた。
陶霖は近頃はこの居室の外で修練をすることはあっても、居室の中にこうして入るのは久しぶりのことだった。
簡単な任務の報告書は、もう罗景真の確認もなく浄務閣に直接提出している。
手持ち無沙汰な陶霖があたりをなんとなく見回していると、ふと、寝台の横にある衣箱に目が留まる。
以前贈った木彫りの置物。
それから……水色の小さな巾着袋。
随分と薄汚れていて、長い間使っていたのだろう。
陶霖は気になってよく見ようと近づくが、罗景真に呼ばれた。
「陶明稀」
「はい」
「幻境では、何を見た?」
罗景真は手元の報告書から視線を外し、陶霖を見る。
「……」
陶霖はすぐに視線を彼の手元の報告書に移した。
頬が熱い。
「……言いたくなければ、構わない。あの鬼は、お前の心と言っていた。覗き込む気はない」
罗景真は顔色を変えずに話したが、その声はどこかぎこちなかった。
陶霖がそういえば、と話す。
「師尊の幻境では、私はどのような危機に……陥っていたのですか?」
罗景真は報告書に視線を落とした。
「男から、刃物を向けられていた」
「どんな男ですか」
「……顔はぼやけていて、はっきりとわからなかった」
「そうですか」
罗景真は陶霖に報告書を返しながら言う。
「今回は良しとするが、これでは主観が多い。今回の件ではそうなるのも仕方ないが……。次から、葉英の書いた報告書を見せてもらいなさい。参考になる」
「はい」
「それから、邪祟と対峙した時のことだ」
「はい……すみませんでした」
「油断は、命を簡単に奪う。わからないなら、何度でも言ってやる。油断するな。それができなければ、お前は危険任務に同行させない」
「はい」
「……だが、お前には情報収集能力がある。精進なさい」
陶霖は罗景真と目を合わせることができないまま、宿舎へと戻っていった。
鄭知は、性格が追いついてないだけでめちゃ優秀で有望な子です。性格が追いついてないだけで。
用語解説
魂魄……人の魂を構成する霊的存在。精神や生命そのものを指す場合もある。




