第六十六話『屍兵』
大陸暦六一六年、清水の月新月の日―
戦況は劇的にハーム軍に傾いていた。
ニックの考案した三叉から拡翼への切り替えと、中央への敵の引き込みが成功し、ベクォン軍の左側面をハンスによる騎兵隊が見事に捉えたのだった。左翼から追い立てられた未熟な兵は混乱に任せて右翼側に動いたが、そちらはロスとコンラッドによる歩兵部隊の守りが固められている。実質、三方を囲まれる形となったベクォン軍は、コリンズ率いる魔法兵からの術式による攻撃を受けて瓦解寸前にまで陥った。
「ニック様、あと一押しですぞ!」
「……おかしい。あまりにも稚拙が過ぎる……!」
ニックはあまりにも事が運び過ぎるため、疑問を抱いていた。本当に、ベクォン軍が弱すぎるのだ。
「申し上げます!我が方の損害は二五〇に留まっています!」
「ニック様、ここで突撃を掛ければ、我々の勝利は確実なものとなりますぞ!」
副官の言葉に、ニックは自身の疑問を程ほどに、全軍に突撃の指示を出した。どれだけ敵の弱さに疑問を覚えても、この勢いに乗じて勝利を手にしない理由はない。むしろ、本当にあるか分からない敵の策を警戒するあまり、勢いを止めてしまう方が問題であった。仮に策があるとしても、弱兵をこれだけ犠牲にして成せるものなど、高が知れている――ニックはそう思い切っていた。
「動きを止めるな!一気に敵中を突破せよ!」
ニック率いる中央の兵も反撃に転じ、両翼の兵と共に全面的な突撃へと移行した。もはやベクォン軍の統率は失われ、一七〇〇余の一団となったハーム軍の将兵に斬られ、突かれ、叩き伏せられた。
「やはり、傭兵が指揮している兵という事か。しかし、この言いようのない嫌な予感はなんだ……?」
ニックは馬上にて先頭を駆け、逃げ惑うベクォン兵の背中を追い落としていた。その間にも、背筋を走る冷たい予感はなくなる事がなく、どれだけ優勢になっても勝っている気がしなかった。そして、その予感はベクォン軍後方で待っていたかのように立っていたラリーの姿を見て、ある種の的中を感じた。
「な、何をするのです!」
「生き残られると都合が悪いのでな。悪く思うな、お前達はこれからベクォン軍きっての精鋭となるのだ」
「助けてくれ!」
異様な光景に、ニックは思わず馬を止めた。それに合わせてハーム軍も速度を緩め、やがて止まる。ベクォン軍二〇〇〇はほとんど討ち取られていた。素人目に見ても、ハーム軍の勝利に他ならない。しかし、ラリーはひどく冷静に見えた。その足元には彼に斬られたと思われるベクォン兵が転がっている。
「どういう事だ?」
「見事なお手並みだよ、ニック殿下」
「ベクォン軍の弱兵ばかりを無策に突っ込ませて、奴らに損害でも与えたつもりか?」
「そんな回りくどい事はせんよ。その気なら、とっくに剣を置いて降伏している」
「だろうな。して、どうする?多勢に無勢で暴れるか、大人しく降伏するか、尻尾を巻いて逃げるか」
ニックの言葉に、ラリーはお断りだとでも言わんばかりに鋭い視線を返した。そして、突き出された左の拳、二つ名の由来となる鉄腕の拳に握られた宝珠を輝かせると、周囲どころか演棋平原全体を覆うほどの暗く冷たい渦を巻き起こした。
「な、なんだ!?」
「一つ、教えてやろう。ここにいるベクォン軍の雑兵には、ある物を持たせている。こいつだ」
ラリーの右手に握られた小瓶の口から、鈍い輝きを放つ液状の物がこぼれ落ちる。それを見て、ニックは絶句した。それが秘める魔力を知っていたからだった。
「それは……『流れる銀』か!?」
「そうだ。ベクォンの娘を化け物に変えた、良質な『流れる銀』だ。そして、わしが行使した術式を教えてやろう。反魂の術式だ!」
宝珠から放たれる青白い輝きは、冷たい群青の大渦に溶けて混ざり、演棋平原に覆い被さるように広がった。ニックは覚えのある魔力の奔流と、未知の光景に戦慄していた。
「反魂の術式だと!?膨大な魔力と『流れる銀』が必要なはずだ!その程度で足りるはずがない!」
「必要な『流れる銀』の量は、魂を元にした肉体の再構築の度合いに比例する。時間が経って死体がなければ、それは大量に必要とする……お前の母親のようにな!」
「貴様ッ!」
「この戦いで死んだばかりの兵士を蘇生する程度なら、この小瓶で十分なのだよ!」
ラリーの目が見開かれ、見る者すべてを萎縮させるほどの眼光が、頭上の大渦と渾然一体となって周囲を覆い尽くした。光が晴れた頃、ニック達は自分が置かれている状況の変化に驚愕し、思考が追い付かなかった。
「うぅう」
「ああぁ」
体の何処から出しているのか分からないような、底冷えするような呻き声が、そこかしこから聞こえてくる。先ほどの戦闘で死んだベクォン兵が、不完全な姿で蘇っていたのだ。
「貴様……わざと少ない量の『流れる銀』を持たせたな?」
「ご名答。最低限に命令が聞ける程度の知能と、体を動かす能力があればいい。自我と理性さえなければ、人肉で構成されたゴーレムのようなものだ」
ラリーは左手の宝珠を高く掲げると、生ける屍と化したベクォン兵に指示を出した。屍兵は理性を無くし抑制のなくなった肉体を最大限に活かし、ハーム軍を包囲しようとした。
「囲まれたら不利だ!退け!」
ニックは槍を振りかざし、全軍に後退を指示した。しかし、ハーム軍が行動に移るよりも早く、屍兵の集団は包囲網を構築していった。
「死んだ奴が動くなんて反則だろ!」
傍らにいた兵が剣を振り上げ、屍兵の一人に振り下ろした。兜が脱げていた屍兵の頭に刀身が食い込み、黒ずんだ血を力なく吹き上げる。しかし、その屍兵の動きが止まる事はなかった。普通の人間なら即死のはずだが、相手は既に死んでいる。半ば呆然として隙を見せた兵士の腹を、槍の穂先が貫いた。鎧も鎖帷子も物ともしない力は、抑制がないがゆえに出来る芸当だ。
「バケモンだ!」
「分かっただろう!とにかく包囲の薄い所を突いて、血路を開いて退け!」
ニックはハンスの手引きで、右翼側からの突破を試みた。恐怖に駆られ、平静を失った兵から次々と討たれ、地に伏した。そして、右翼側からの撤退という事は、左翼側のロスとコンラッドは殿同然である。
「数が多いが、ここは手薄だ!コリンズ、連弾は撃てるか!?」
「大丈夫です!やりましょう!」
ハンスとコリンズは息を合わせ、屍兵の手薄な箇所に向かって炸裂火の術式を連弾で撃ち込んだ。反動は大きく、命中精度は悪い。それでも、瞬間的に十発の炸裂火が宙を舞う光景は、後に続く兵にとっての道標となる。地面に着弾した炎の弾が爆発的な熱風を帯びて拡がり、屍兵を吹き飛ばす。焼け焦げ、千切れて飛んだ手足が他の屍兵に当たって戦力を削ぐ。屍兵の集団に穴が開いた。
「よし……!ニック、こっちだ!脱出するぞ!」
「分かった!ロス、コンラッドも続け!一人でも多く、退け!」
先行した騎兵隊と魔法兵隊は最小限の損害で抜け出せた、ニック率いる中央本隊も三割近くを失いながらも脱出出来た。だが、殿となった歩兵隊は損害が著しく、遅れた者から屍兵の手に掛かった。
「コンラッド、俺に考えがある」
「何だよ急に、この状況でどんな考えが?」
「今の我々は狩られる群れだ。群れが逃げる方法……分かるな?」
「……なるほどな。で、どれだけの兵を回す?」
追われながらも、脱出のために足を動かしていたロスとコンラッドは、最後の手段に思い至っていた。そして、コンラッドの問い掛けに、ロスは答えなかった。その場で立ち止まり、踵を返したのだ。
「お前達はコンラッドについて行け!ここは俺が引き付ける!」
ロスの怒号に、後続の兵は戸惑いながらも脱出のために走り続けた。最後尾の兵に追いすがる屍兵を一太刀で斬り捨てると、ロスは左手の盾を腕に回し、短剣を逆手に構えた。
大陸暦六一六年、清水の月新月の日―
公爵様は精鋭をぶつけるって仰ってたが、駆り出されたのは調練も未熟な新兵やゴロツキ上がりがほとんどだ。あんな事になるとは、飯当番で良かったぜ。
ベクォン軍輜重兵の手記『清水の日一日』




