第五十四話『暗雲』
大陸暦六一五年、人馬の月初旬―
雪こそ降らずとも、冷たい空っ風の吹き始めた王都ボートミールには、各地の状況報告が寄せられていた。
「キャシック将軍はホツキネ砦の復旧を終えた後、ギネッシーオを奪還。ジリボン包囲に着々と取り掛かっております」
「ニック様はニバラク領を解放、別動隊の働きもあって、キトリヤ領も平定に向かっております。また、カッサーナ皇国より帰還の途に付いていたリアブ将軍、ミア将軍はニック様と一時合流しております」
「……うむ、分かった。下がってよい……」
伝令の兵を下がらせた国王ハロルド三世は、ひどく憔悴していた。
目許は窪み、頬はこけ、鼻筋回りには深い皺が幾筋も刻まれている。豊かに波打っていた小麦色の髪や髭は、枯れ草のごとく乾き切っていた。伝令を下がらせた声もしわがれ、四十代半ばとは思えないほどに老け込んでいる。大まかな指示こそ出すものの、事の詳細は座を並べる王妃サラによるものが多くなっていた。
「陛下は大丈夫なのか?随分と弱っておられるぞ」
「大臣が亡くなった頃から、おかしくなったって言うな。だが、余計な詮索はするなよ。何をされるか分からん」
「分かってるよ。今やこの城の主は陛下というより王妃様だからな」
廊下を歩く二人の伝令が言葉を交わす。実際に、城内の空気はかつてのものとは変わっていた。
国王の憔悴に加え、王妃の増長とも取れる権限の増大に、疑念を抱く者は少なくない。
ニバラク大臣の死後、国政に関わる多くの高官が王妃の息の掛かった者で固められ、旧来の高官は多くが降格や左遷の憂き目にあった。それでもハロルド三世からの制止が無かったのは、その頃から既に国王の憔悴が始まっていたからだった。
その日の夜、ベッドで死んだように眠る国王を横目に、サラは小さな卓に置かれたランプの弱々しい灯りを眺め、一人で寝酒に耽っていた。その時、黒衣の老人が部屋の暗がりから染み出てくるように現れた。顔立ちこそ老いているが、黒衣のシルエットを悠々と持ち上げる肉体を有し、眼光は鋭い。
「久しいわね、お父様」
「……お前も、相当に疲れているな」
「まぁ、二日と置かずに搾っているもの」
そう答えると、サラは老人と共に国王の顔を一瞥した。
ここ一月、夕食には必ずと言っていいほど、精力の付く料理を付けさせている。そして、床に就く頃には魅了の術式で誘い、事に及んでいた。ハロルド三世の憔悴は、これが原因の一つである。
この夜も、先刻まで体を交えていたのだった。だが、サラも淫魔の類いではなく人間である。彼女も相応に疲れを浮かべていた。
「ところで、何か用かしら?」
「たまには、娘の顔を見ておこうと思ってな……」
「本当は?」
「相変わらず、冗談の通じぬ娘だな」
サラの冷たく鋭い視線が老人を射抜く。機嫌が悪いというより、慣れたやり取りといった風情だ。
「ベクォン家で動きがあった。ラリーの奴め、前の王妃だけでなく、その前の王妃まで蘇らせおった」
「それは困るわね。公爵が兵を挙げる大義名分が失われるわ」
疲れ果て眠る国王の傍らで、サラは悪びれる事なく言い放った。
彼女からすれば、今回の動乱はグレンの障害となるニックを排除するための、またとない機会である。戦死すれば言う事無し、敗走すれば責任を追及して蹴落とす腹積もりであった。しかし、ニックは連戦連勝であり、付け入る隙を与えようとはしない。焦りと苛立ちは募っていた。
サラの言葉に対し、老人は首を横に振った。
「そうでもない。もう何度かの奇跡を見せてやれば、こちら側に傾倒するだろう」
「積もり積もった恨みで邁進するも疲れ、弱った所に施したって所ね」
「そうだな。仮に、ベクォン家の蜂起が徒労に終わったとて、我が方に不利にはなるまい」
老人の顔色は変わらなかった。だが、その顔の下では黒い策謀が渦を巻いている。その気配を察したサラは国王に向き直り、生気を無くした顔をそっと撫でた。
「こちらは、遺言状でも書かせておこうかしらね」
「何としても、お前の子を王の座に就けるのだ。それが皇帝陛下の御為である。そして、我がダゲアマ家の為でもあるのだ……」
老人は言い終えると、再び闇に溶けるようにしてその場を去った。一人残されたサラはグラスの残りを飲み下すと、ひどく疲れた顔で床に就いた。グレンを王位に就けんとする気持ちは保身もあるが、実の息子に対する愛情の割合が大きい。しかし黒衣の老人が言う、皇帝や出自はそこまで重きを置いていない。そうした父との相違が、彼女の負担にもなっていた。
疲れからか、サラは部屋の外でやり取りを聞いていた者の存在に気付く事はなかった。
数刻の後、夜も更けた地下書庫にて、ランプの灯りが四人の人影を壁に映し出した。アリシア、レッター、ホレイショ、そしてグレンである。サラと老人の会話を聞いていたのはグレンだった。
「グレンが聞いたという話の要点を並べていきましょう」
切り出したのはアリシアだった。彼女を含め、他の二人もグレンの言葉を嘘だとは言わなかった。王妃の強引なやり方に異論がないわけがない。国王の憔悴も相まって、水面下で何か画策しているという確証は無いまでも、不穏な気配を感じずにはいられなかったのである。
「まず、王妃様が父と呼んだ老人ですが、記録上はキトリヤ伯爵領の一荘園の主である、ラウル・ダゲアマ辺境伯ですな」
「しかし、グレン様の聞いた限りでは、その老人は皇帝陛下と言ったそうですね。メーシア大陸で皇帝が君主の国はモノゲア帝国だけと聞いております」
レッターが続き、ホレイショが応じる。
かつてメーシア大陸には幾つかの帝国があったが、百年近く前にモノゲア帝国により全て滅ぼされ、強大な帝国の一地方に収まっている。
「その老人は、何故かベクォン家の動向まで知っていた……しかも、私の母ミランダと、ニック達の母マルシアを蘇らせている、と」
「アリシア様、死者を蘇らせる術式といえば……」
「えぇ、反魂の術式ね」
反魂の術式、聞き慣れない名前に、グレンとホレイショは目を白黒させる。
「強大な魔力によって冥府の門をこじ開け、死者の魂を現世に呼び戻す術式よ。ただ、この術式に用いる魔力を抽出し、起動させるにはとてつもない量か質の素材が必要となるわ。永久魔晶石とも呼ばれる宝珠や『流れる銀』と同等のものでないと、とてもじゃないけど足りないのよ」
「キャシックからの伝令によると、小規模な廃鉱の『流れる銀』が全て無くなっていたとありましたな」
「廃鉱の大きさにもよるけど、そのくらいなら一人分の蘇生でしょうね」
熱を帯び加速するアリシアとレッターのやり取りに、残る二人は振り落とされない事に必死だった。
「アリシア様、レッター将軍、蘇らせたのは二人とお聞きしましたが、もう一人分の魔力はどこから?」
「それは分からないわ。でも、考えたくはないのだけど……」
「ベクォン家の魔法使いの血筋、ですか?」
「本当に、考えたくはないけど、可能性があるわ」
アリシアは考え得る限りの最悪を想定し、目が眩みそうになった。
ベクォン家は純粋な魔法使いの血統であり、それは魔晶石を用いずに自身から魔力を引き出し、術式を行使する力を持つ者である。そして現在、必要な魔力を引き出せる人間は、一人しかいなかったのである。
「ダゲアマ家やモノゲア帝国と繋がりがあり、反魂の術式さえ使うラリーという人物……もし、ベクォン公の目的が帝国との内通になるのであれば、事態は思った以上に悪い方向へ進んでおりますな」
「将軍達に対処を求めようにも、父上に聞き入れる力があるかどうか」
ハロルド三世の衰えぶりは目に余るほどで、献策さえも王妃サラやその息の掛かった高官を通さなければならない。その王妃が帝国と通じているならば、自分達に不利な対処などさせようがない。伝書竜も王妃の管理下にあり、そう易々とは飛ばせない。
「グレン様、ニック様の伝書竜を使い、直接キャシック将軍に伝えましょう。ミリアム様もご一緒なら、指揮の混乱も抑えられます」
黙り込んで考えているところへ、ホレイショが閃いた。ニックの伝書竜テーヴァは軍属ではなく、王妃の管理下にない。この伝書竜を飛ばせるのは、今この城にはグレンしかいなかったのである。
大陸暦六一五年、人馬の月初旬-
二日と置かず、夕食に精力の付くものを入れろという王妃様からお達しに、料理人が戸惑っている。
そりゃあ、どんだけ入れても陛下が弱っているのだからな。いつ、こちらの責任にさせられるか。
宮廷料理長のぼやき『人馬の月七日』




