第四十九話『キトリヤ軍敗北』
大陸暦六一五年、金蝎の月初旬―
ガロンドの陣中にて、ニックとコンラッドはリハビリも兼ねて訓練をしていた。薪用に切り出した木を削って簡素な木剣を作り、柄に麻布を巻いて握る。狩人の森を成す木々はずっしりと重く、訓練用の剣の形に加工しただけでも、本物と大差ない重量感を有していた。実戦を想定して打ち合うというより、傷の治りを確認する意味合いが強い。
「どうだニック、右腕の傷はもう大丈夫か?」
「物を持つだけなら問題ないけど、実際に戦うとなるとどうなるか……だな。コンラッドはどうだ?」
「痛めた筋はだいぶ良くなってるが、もう少し時間が必要だな」
治癒の術式で回復力は高めているが、傷口がたちどころに塞がるような便利なものではない。あくまで鎮痛と治癒力の強化が主であるうえ、消毒や解毒の効果はない。ニックの右腕は矢が突き刺さり、幸いにも骨にまでは至らなかったが、暫くの間は生活にさえ難儀した。コンラッドはポーリャに締め上げられ、全身の筋を痛めている。骨や内蔵にダメージが無かったのは、奇跡とも鍛錬の賜物とも取れた。
「ところで、あいつはどうしてる?」
「ハンスの事か?」
「そうそう。ベクォン家の人間だし、いっぺん死んでるし、気味悪がられたりしてないかなって」
「いや、術式の使い手として重宝されているよ。魔法使いの力もあるから、魔晶石の節約にもなる」
コンラッドはハンスについて尋ねた。
彼の言うように、元敵方であり死人という事もあって、ハンスが敵意や奇異の死線に晒されていないか、それによる規律や風紀の乱れは無いかという懸念は尤もな事だった。だが、ハンスは重宝されている。魔法兵の不足を補うだけの使い手である上に、魔晶石を使わずとも術式が使えるという点は、豊富とは言い切れない魔晶石の消耗を抑える事が出来る。一度に過剰な消耗を避ければ、精神への負担は無い。
「ニック、コンラッド。ガロンド殿がお呼びだ」
「噂をすれば、って奴か」
「分かった、ここを片付けてから行くと伝えてくれ」
二人を呼びに来たハンスに、各々が言葉を返す。ハンスもニックの軍に合流してから、幾分か表情が柔らかくなっていた。決して楽観視出来る状況ではないが、たった一人で父ルイスと妹オリビアを止める事を考えれば、遥かに心強い。何より、ニックの粘り強さは、彼が一番よく知っている。
四半刻ほどして、ニックはガロンドの元へとやって来た。幕舎ではなく、陣を出てすぐに所にある、切り立った大岩の上だった。森の木々よりも高く見晴らしが良いので、物見櫓の代わりに使われている。
「殿下、あれをご覧下さい」
ガロンドに促され、ニックが目を向けた先には、ナーウィンから引き揚げてくるキトリヤ軍が見えた。人馬や輜重の数から、兵力は一五〇〇を少し数える程度と踏んで良かった。しかし、指折り数えて足取りを見ると、どうにも動きが遅い。士気は低く、余力もさほど残っていないように見えた。
「なんだ、あの動きは。まるで敗残兵ではないか」
「実際、そのようなものでしょう。今、シャーリーンに物見をさせております」
ニックの言葉に、ガロンドは半ば嘲笑的に答える。自分達の根拠地を脅かした敵が、あのような無様を晒して歩いてくるとなれば、笑みの一つでも浮かべたい所だった。
しばらくして、シャーリーンが戻って来る。やはり、キトリヤ軍の状況は燦々たるものだった。
「兵糧の不足と士気の低下、それに捕虜兵の脱走とオーク勢の喪失が重なり、ナーウィンの攻略が不可能になったと判断して良いでしょう」
「そこまで弱体化しているなら、倍以上の兵力も数にはなるまい。ガロンド殿、待ち伏せして叩きましょう。なるべく、敵の指揮官は生け捕りにする方針で」
「分かりました。今すぐ準備に掛かりましょう」
ニックは陣に戻り、迎撃部隊を編成した。
キトリヤ軍補給部隊の捕虜を監視するための兵を残し、ニック、コンラッド、ガロンドに分かれて配置に付く。コンラッドとガロンドは道の両脇に伏せ、ニックはありったけの騎兵を連れて、さらに後方で待ち構えた。
それから暫くして、本隊を先頭にしてキトリヤ軍が現れた。コンラッドとガロンドは先頭で馬に乗る立派な出で立ちの男を敵将と見定め、素通りさせた。ライネルは自分が罠に引き込まれているとも知らず、少しでも早くルーテに帰り着こうと、兵馬を急がせていた。
晩秋に差し掛かった森の日暮れは早い。西に傾いた日は夕暮れの色を成している。暗くなれば行軍の足も鈍る、そう踏んで急かす声を上げようとした、その時だった。
「キトリヤ軍の指揮官とお見受けする」
「何者だ!」
突然の出来事に、キトリヤ軍は足を止めた。ライネルの言葉に、前から迫り来る馬上の者は、西日を受けてその姿をはっきりと晒した。金縁装飾の黒い鎧兜、バイザーを上げたその顔は若く、まだ成人して浅い。
「ハーム王国第二王子ニック。改めて聞く、貴公がキトリヤ軍の指揮官か?」
「第二王子ニック……!そ、そうだ。私がキトリヤ軍の指揮を執っている、ライネル・キトリヤだ」
ライネルは気圧されていた。ゆっくりと、しかし確実に迫ってくる馬上の男は、自分達が反旗を翻したハーム王国の王位継承者である。だが、それだけで自分の半分ほどの年齢でしかない者に気圧されるほど、ライネルも不出来な男ではない。
ニックが放つ気迫が、既に幾度かの死線を潜り抜けていた事を示していたのだ。それは、キトリヤ伯爵領の山中で、護衛に囲まれながら角のない鹿や野兎ばかりを射る程度の狩りばかりだった自分とは、遥かに違っていた。
「王家に弓を引き、ニバラク侯爵領で働いた狼藉の報い、受けてもらおうか」
「く、来るな!掛かれ!奴は一人だ、討ち取れ!」
体の芯から必死で絞り出したような、情けない命令を受けた兵士が、ニックに襲いかかった。槍兵で数は二〇、勢いも付けていない騎兵が対するには厳しい相手であった。だが、備えをせずに前に出るニックではない。彼の後方、明らかに西日とは異なる煌きと共に撃ち出された火の玉が数発、キトリヤ兵の中に放り込まれては炸裂し、爆風と高熱で辺りを包んでは阿鼻叫喚の渦に叩き落とした。
「今のは……術式か!?」
ニックを討ち取らんと送り込んだ兵士が一瞬で焼かれ、呆気に取られたライネルが怖気づいた。軍を率いる将が、馬上で見せていい姿ではない。ニックは尚も迫り、夕陽に照らされた槍の穂先や鎧兜が燃え立つように光る。その時、後方から爆発音と悲鳴が聞こえてきた。ライネルの心から平静の二字は完全に失われた。
「ニバラク領兵だ!」
「待ち伏せだ!」
術式爆弾を投げ込まれ、瞬時に混乱の坩堝に叩き落とされたキトリヤ兵が叫ぶ。キトリヤ軍が傭兵隊の逃走と暴動を警戒して、軍のど真ん中に配置していたのはシャーリーンからの情報だった。そのため、ニック達は士気も体力も落ちたキトリヤ兵が多く配置された、列の先頭と最後尾を襲って挟み撃ちにしたのだ。
ガロンドの毒塗りナイフが、弦のない弓から放たれた矢のように飛び出し、鎧や盾に守られていない腕や脚に正確に突き刺さる。調子の戻ったコンラッドも篭手で敵の槍を捌き、太く丈夫な短めの剣を顔面や首筋に滑り込ませた。
キトリヤ軍は混乱を極め、自分達の三分の一の兵に弄ばれている事など知らず、剣で斬られ、槍で突かれ、弓で射抜かれた。大将のライネルはというと、ときの声を上げて突っ込んで来たニックに完全に気圧され、剣を抜き構える間もないまま、槍で即頭部を打ち据えられ、昏倒させられた。
「ライネル様がやられた、もうだめだ」
「待ってくれ、降伏する」
キトリヤ兵はライネルの敗北を知ると、次々と武器を捨てて降伏した。その気配が後方まで伝わると、キトリヤ軍の全面降伏という形で勝負は決した。
空腹に耐えながら歩いていたゲオルギーとミハイルは、突然の襲撃と降伏という、呆気ない幕切れに頭が追い付いていなかった。
大陸暦六一五年、金蝎の月初旬―
結局、よく分からんうちに森の化け物に襲われ、夜襲され、腹減ったのに食う物もなくて、味方のはずのオーク殺して、ハーム軍に降伏してた。なんだったんだろうな、この戦。
倒れたキトリヤ兵の最期の言葉『金蝎の月三日』




