第百五十八話 話し合いとその結果
誰もが口を開かない。そんな静寂の中、王者は遙かな高みから俺たちを見下ろしていた。
『なにゆえ、我らの行軍を阻む』
ふたたび、頭に声が響いていく。それはまるで、頭を直接つかまれ、耳元で話されているような感覚だ。
我ら。
リヴァイアサンは確かにそう口にした。つまり、群れを操っているのがリヴァイアサンだという予想は正しかったのだろう。どちらかというと、それはありがたいことだった。頭のいない群れの暴走ほど、面倒なことはない。今回の場合であれば、リヴァイアサンの説得にさえ成功すれば、すぐさまこの騒動は収まるということだ。
……いや、それが一番の難題だとは思うけどな。
すると、俺たちの中から動く者がひとり。その人物は大きく跳躍をすると、俺たちの上を通り抜け、船首へと降り立っていく。
「お初にお目にかかる。私はこの船の責任者、アクアラング小国連合第八師団に属するリターナと申す者」
リヴァイアサンに向け、リタは恭しく頭を下げた。
『人間共の階級に興味はない。名乗りは不要だ。……しかし、お前はただの人間ではないな。滓かではあるが、懐かしきものの気配を感じる』
「さすがは噂に名高き海の王。我が正体、ひと目で見極めるとは感服する」
重圧の中、視線を逸らさずにリヴァイアサンを見上げ、リタは頷いた。どうやら彼女らにだけ通じる何かがあるらしい。
二人の会話に口を挟む者など居るわけがない。黙って事の経緯を見守っていると、リタが不意にチラリと俺たちの方を眺める。しかしそれも一瞬のことで、俺が訝しげな視線を返す前に、リタはふたたびリヴァイアサンへと視線を戻してしまった。
なんだったんだ、今のは。
その眼に込められた意図を、俺はまったく理解出来ずにいた。
『……だが、いかにあの者の眷属であろうと我が道を妨げることは許さぬ。そこを退くがいい。我が前に立ち塞がったこと、今ならば不問にするとしよう』
「……その前にそちらの目的を教えて頂きたい。このまま進まれては、我らの友好国に甚大な被害が及んでしまうのだ」
『ならば尚の事、さっさと去るがいい。我はその友好国とやらを滅ぼすつもりだからな』
「――なっ!?」
その言葉に、俺は思わず驚きの声を上げてしまった。周りの面々も似たようなもので、皆一様にリヴァイアサンを凝視していく。王者を前に威風堂々としていたリタも、その表情に若干の驚きが混じっているのが分かる。
正直、まさかリヴァイアサンが本気で争いを望んでいるとは思っていなかった。少なくとも会話が出来る以上、テレシアを襲ったコボルトリーダーの様な、破壊衝動に身を任せているだけの魔物ではないはずだ。
「しかし、何故……マーナディアを?」
『答える必要はない。因果は巡る。その報いが、今訪れただけのこと』
それを最後に、リヴァイアサンは大きくあぎとを開くと、天地を揺るがすような咆哮を放った。
――マズい。
俺は知っている。これは戦闘の合図。俺たちを拒絶し、海の王者が遂にその牙を剥いたのだ。
「リタっ! そこから離れろっ!!」
震える大気に精一杯あらがうように、俺は大声で叫ぶ。しかし、封じられたのは声だけではなかった。重圧に加え、その衝撃。ままならない動きの中で、皆は必死に耐えていく。
そんな俺たちをあざ笑うかのように、リヴァイアサンの正面には大きな水の塊が作り上げられていった。
「守りを固めろ! 攻撃が来るぞっ!」
無駄だと分かりつつも、更に俺が言葉を重ねるのと同時に、圧縮された水の砲弾が放たれる。それは、言ってしまえば水砲と似たようなものだろう。しかし、シーサーペントやそこらの魔物が使うような魔術とは比べるべくもなく、俺たちの乗る軍用船にも匹敵するかのような巨大さだった。
そんなものをまともに喰らっては、いくらこの船といえど、転覆は免れないだろう。
「――って、なにをやってるんだ! あいつはっ!」
そんなものが近づいてきているというのに、リタは退かなかった。いや、それどころか船首から足を離して跳躍すると、砲弾に向かって単身突っ込んでいく。
当然、リタはその巨大な水塊に飲み込まれてしまった。
そこまでは想像通り。そして、そこから異変が訪れる。
リタを吸収した水塊は推進力を失い、その場に佇む。そして、それはまるで果実の皮を剥くかのように、周囲の水がゆっくりと剥がれ落ちていく。
やがてその中から姿を現したリタも、跳躍の勢いを失い、同じように海面へと下降していった。
「……あれも解術なのか?」
先ほど見た魔術を無効化する水泡。それと似たような現象を見て、俺は呟く。
「なるほど。あやつの気を纏うだけはあり、水遊びは得意と見える」
「……あれで水遊びかよ」
確かにその巨大な体躯からすれば、この海など池のようなものだろう。その池の内部が俺たちの世界。そして、その池を外から眺めているリヴァイアサン。そう考えると、俺たちは大海を知らない蛙みたいな存在なのかもしれない。
「……退いてはくれぬ、か」
静まる周囲に、やけにはっきりとリタの言葉が響いていく。
「ならば、その進撃。すべてを賭して阻ませてもらおう」
そしてリタは右手をリヴァイアサンに向け、高らかに突き出していく。
「船体を後退させ、主砲準備! 各々、役割を全うせよっ!」
その言葉に、俺たちはすぐさま動き出した。役割とは事前に決めていた作戦通りに動くこと。俺たちはリヴァイアサンを倒す為にここに来たわけではない。あくまでもアクアラングとマーナディア、各国の主力が到着するまでの足止めに過ぎないのだ。
防衛は船をよく知る兵士たちの一部と、魔術師たち。主砲の準備に入るということで、先ほどのような障壁を張る余裕はないだろう。その為、攻撃対象を分散させることを目的に、残りの者は海面へと飛び降りていく。
「ひゃっほーっ! ようやっと暴れられるぜっ!」
場にそぐわない声を上げ、海へと飛び込んでいくのはポーロだ。それに続くレイモンの姿も見える。リヴァイアサンの前だというのに、相変わらずなノリ。少しは見習った方がいいな。
「シャンディはマルシアを頼む。シルヴィアは俺から離れるなよっ」
最後の確認をとると俺たちも皆に続き、大海へとその身を投じていった。
不思議なことに、甲板からわらわらと海上に広がっていく俺たちを見下ろしたまま、リヴァイアサンは動かなかった。
なにかしらの攻撃を仕掛けてくるだろうと予測していたのだが……これは、リタの能力による牽制のお陰だろうか。いや、その程度で押さえ込めるのであれば、最初からこのような戦力で挑むはずがない。リヴァイアサン側からすれば、いつでも滅ぼせるという意思表示なのだろうか。
どちらにしろ、安全に散開出来るのはありがたいことである。
後方だけでなく、前方にも推進用の魔石が取り付けてあるのだろう。俺たちが飛び降りてすぐ、船体を正面に向けたまま、軍用船は後退を始めていく。
『歪みの代償を見せてみよ』
俺たちの準備が完了したところで、リヴァイアサンが再度、言葉を紡いだ。それと同時に海面が大きく揺れ、大きな波が生まれていく。
大海嘯。それはリヴァイアサンの通り道に起きると言われている自然現象。まさにそれを再現した攻撃が、意志を持つかのようにうねりを上げ、俺たちに襲いかかってきた。
しかし、そんなものを呆然と眺めているわけにはいかない。
「投げるぞっ!」
中にいるシルヴィアの了承を得る前に、俺は生体活性・腕を使って黒騎士を掴み、上空へと放り投げていく。
「はうっ!?」
小さな叫びと共に舞い上がる、黒騎士とその中身。それを追い、俺も強化した脚で飛び上がっていった。
いきなりの事で驚いただろうが、波に飲み込まれて海中に沈むよりはマシだろう。周りの冒険者や兵士たちも、俺たちと同じように自慢の脚力で波を乗り越えていく。さすがに、この程度で戦闘不能になるような奴は見当たらない。
「バランスを崩すなよ」
空中で黒騎士の姿勢を正すと、俺たちは海面へと着水していく。水面に刻まれる、水上靴特有の波紋。大勢によって生み出されたそれは、海面を染めるかのように、不可思議な紋様を描きながら広がっていった。
『醜いな』
重ねられるリヴァイアサンの言葉には、感情の揺らぎのようなものが感じられた。それは刻まれた波紋のように不確かで、すぐに消え入りそうではあるが、俺の芯に確かに響いてくる。
……イラついている?
以前にも、それと似たような感情をぶつけられたような気がする。
それはいったい、いつのことだ?
思考を巡らせていくが、答えは見当たらない。いや、今はそんなことを気にしている余裕はないだろう。
「総員、突撃!」
リタの号令に乗り、それぞれが進撃を始めていく。俺とシルヴィアもそれに逆らわず、リヴァイアサンに接近を試みる。
そんな前線の助けとばかりに、後方から放たれる魔術師たちの牽制。大気を振るわせ、飛来する様々な魔術がリヴァイアサンに襲いかかる。
『笑止』
まるで吐息のように、俺たちの間を通り過ぎる一陣の風。それは、俺たちにとってはバランスを崩しそうになるだけの突風に過ぎない。しかし、それに煽られた魔術は、一瞬にしてその存在を消失してしまう。
一瞬、ふたたび解術が頭によぎる。しかし、飛んできた火矢にしろ、雷撃にしろ、無効化というよりは強引に霧散させられた感じだ。圧倒的な魔力でねじ伏せたのだろうか。
知識の乏しい俺の頭では、一瞬の内に起こった魔力同士の干渉を正確に判断することなどは不可能だ。まあしかし、馬鹿正直に正面から放つ魔術は通じない、ということだけは理解出来る。
「やはり意識を散らせるしかないな」
先ほどの魔術はともかくとして、俺たちの最大攻撃であるはずの主砲までもが簡単に掻き消されてはたまらない。そのような状態でリタが命令を下すとは思わないが、少しでもその取っ掛かりを作らなければ。
「シルヴィア、正面は危険だ。横から回り込むぞ」
「は、はい」
今度はしっかりとシルヴィアの返答を確認し、俺たちは皆からやや外れて側面へと駆け抜けていく。その途中、皆の動きを窺っていくが、やはりどうにも攻め倦ねている様子だった。広範囲に及ぶ様々な水の魔術により、誰ひとりとして手の届く範囲までの進入には成功していない。
片や、リヴァイアサン側も似たような状況といえなくもない。その巨大な体躯に比べれば、俺たちは飛び回る虫程度の大きさ。軍用船から放たれる砲弾がサハギンやキラーフィッシュたちに中々当たらなかったように、リヴァイアサンの攻撃もさほど俺たちに被害をもたらしてはいなかった。
しかし、相手は伝説級だ。まだまだ攻撃の手をいくつも持っていることだろう。劣勢になってからでは遅い。時間を稼ぐためには、出来るだけ優位な状況を作り続けたい。少なくとも、リヴァイアサンの足下までその領域を広げられれば、個々の対処はもっとも困難なものとなるはずだ。
「その切っ掛けをつくるには……」
呟きながら、俺は腰から短剣を引き抜く。いつもと違い、俺の身体に巻き付いている投擲用の短剣を括り付けるベルトの数は多い。それは地上とは違い、接近での活躍が見込みにくいと判断した為、用意した代物だ。元々警備の際には海岸線を守っていたし、水上戦自体にそこまで慣れているとはいえず、他の面子の足を引っ張ることにもなりかねない。
ならばと、俺は自身の中で誇れる攻撃。その回数を増やすことにした。
それは二重強化による投擲攻撃。かつて、ミネラルアントの女王を倒す切っ掛けを作った技でもある。
「頼むぜ。かなりの金をつぎ込んだんだからな」
手にした短剣はいつもの安物とは違い、ウーツ鋼で出来ていた。普段であれば、なくすことを前提とした代物に何故そんなに金をかける必要があるのかと考えるところだろう。しかし、安物が二重強化の負荷に耐えることが出来ないのは、これまでのことから理解している。そこらの魔物であれば、それが生み出す衝撃だけでも十分な破壊力。だが、今回ばかりは出来る限りその威力を上げておきたい。そう考えたわけだ。
決して、どこぞのぽんぽこ娘にいつの間にかに買わされていたわけではない。
――二重強化!
強化と共に鋭敏化した腕から伝わってくる感触。それは、手触りからして違う一品。職人が心血を注いで作ったと説明されたこれならば、狙ったところに正確に当たりそうな気がしてくる。
地味で小さな、それも側面からの高速の一撃。これならば、リヴァイアサンの虚も突けるかもしれない。
「――届けっ!」
俺は願いと共に、短剣を投擲していった。