第百五十六話 幻影の魔物と現実の魔物
船の先端に、なにかが居た。
それが魔物の頭部と理解するまでに数十秒。身体に走る衝撃と共に叫び声を上げようとする――が、喉からはなにも生まれない。まるで、自分が自分でないような不思議な感覚だ。しかし、それは不快ではなかった。
周囲を見回していくと、眼の前の魔物の頭部から伸びる全身が海面上にうねるように広がっていた。どこが終わりなのか、それは俺の視界からでは確認出来ない。
俺が足を乗せている船などとは比べものにならないほどの大きさ。あまりのスケールの違いに、恐ろしさよりも興味心が湧き上がってくる。
それは巨大な蛇。いや、そんな言葉で表せるほど簡単な存在ではないだろう。いままで見たなにものよりも、それは大きかったからだ。王城よりも、都市よりも。まるでそれ自体がひとつが島だといわんばかりの大きさである。
『……何故、あの大陸に渡ろうとする』
威厳に満ちた声が頭に響いた。しかし、眼の前の魔物の口はまったく動いていない。これはなにかの魔術だろうか。
……大陸?
俺の頭に疑問が過ぎる。大陸とはなにか。俺たちはそんな場所を目指していたわけではない。ただ、リヴァイアサンと話し合いをしようと――。
そこで、やっと気づいた。周囲に誰も居ないことに。
いや、それだけではない。俺は鋼鉄に覆われた軍用船に乗っていたはずだ。だが、今はどうだ。足下に張り巡らされているのは、木製の板。どこにでもある普通の船と、なんら変わりがなかった。
「全ての元凶を止める為に」
戸惑う俺を余所に、誰かが口を開いた。
振り返ると、そこには五人の冒険者。
その中央、皆から一歩前に進み出た人物。それは――冒険王、ベリアント。
隣には魔法剣士シャロワ・マギ・オッドレスト。聖女アルターシャに老魔術師ローランドの姿もあった。そして、フードで顔を隠した謎の人物も、当たり前のようにそこに佇んでいた。
いつか見た、黒竜と戦う夢。五人は、その登場人物たちに他ならない。
『人間風情に、それが成し遂げられると思うのか?』
間にいる俺を無視し、会話が進んでいく。海上と冒険王、そしてこの巨大な魔物。その単語が組み合わされたとき、俺の中で答えが導かれた。
ああ、なるほど。これは以前と同様に夢なのだろう。
しかし、絵本などで有名な黒竜との戦いはともかく、手記の一部に書かれているに過ぎないリヴァイアサンとの邂逅など、良くもまあ再現出来たものだ。
「出来る、出来ないじゃない。やるか、やらないか、だ」
剣を抜き、先端をリヴァイアサンに向け、ベリアントが言い放つ。
『……ならばその力、示して見せよ』
するとリヴァイアサンはあぎとを大きく開き、天をも揺るがすようなほうこうを発する。黒竜もそうだったが、これは戦闘を開始するぞという高レベルの魔物共通の合図なのだろうか。それとも、これにビビるようではその資格すらないということだろうか。
「いくぞっ!」
決意の込められた叫び。それと同時に、ベリアントは船の先端に向けて疾走った。それに続くシャロワ。聖女と魔術師は互いに並び立つと、共に詠唱を紡ぎ始めた。
戦いは混迷を極めていく。
当時における魔石とはただの討伐証明であり、ある程度の価値を持つ石ころに過ぎない。その為、今の俺たちが使うような水上靴は存在しておらず、その代わりを果たしたのは聖女アルターシャだ。肩書きからてっきり神官とばかり思っていた彼女だが、どうやら水の魔術にも長けていたようで、海上の一部を凍らせては足場を作っていた。
後ろの二人に全幅の信頼を寄せているのだろう。ベリアントたちには迷いがない。まるで平地で戦闘するかのように、縦横無尽に海面を跳ねまわっていく。
それを遮ろうとリヴァイアサンが放つ様々な水の魔術も、ローランドの作り上げる漆黒の闇に呑まれていく。彼らひとりひとりの実力では、リヴァイアサンの足元にも及ばないだろう。しかし、皆が自らの役割をしっかりとこなすことで、傍目からは五分の戦いを演じているように見える。
「…………」
不意に訪れる、間。それは互いが決め手に欠け、時間だけが無為に過ぎていく中に生まれたもの。
どちらが先に攻撃の手を緩めたのかは定かではなかったが、互いになにかの確証を得たのか、やがて戦の音が止んだ。
『ふむ』
沈黙を破るように紡がれる言葉。それは頭に直接響く、リヴァイアサンの声。それに導かれるように、フードを被った人物が進み出た。その身に纏う外套の端が海風を受けてバタバタと揺れる中、しっかりとした足取りでリヴァイアサンへと近づいていく。
『……それが、お前の下した決断か?』
今までは上空から見下ろしていた頭部を船と同じ高さまで落とし、眼と鼻の先までやってきたその人物に向けて、リヴァイアサンが問うた。
「――」
小さいからなのか、その声は俺の耳に届かない。
『……ならば、これ以上我が口を挟む必要はないだろう』
リヴァイアサンはふたたび頭部を上空へと掲げると、ベリアントたちを見下ろしていく。
『しかし人間たちよ、よく覚えておけ。真の元凶は、お前たち自身の中にあるのだとな』
その言葉を残し、リヴァイアサンはゆっくりと海中へ潜っていく。如何に緩やかといえど、その巨体が生み出すエネルギーは膨大であり、周囲の海面はまるで嵐のように荒れていく。
その余波を受けた船もただでは済まない。水面に浮く木の葉の如く、船体は縦横無尽に揺さぶられていった。
やがてそれらも収まり、静寂が戻ったところで皆が大きく息を吐いた。蚊帳の外であるはずの、それも幻影だと分かっているはずの俺も、王者の発する重圧から解き放たれた解放感に、思わず同じ行動をとってしまった。
「――」
ふたたび謎の人物が声を発し、皆の居る方向へと振り返った。
頷く、ベリアントたち。
そこにリヴァイアサンの帰還と共に止んだと思われた海風が、強く吹き抜けた。
めくり上がるフード。当人はそれを押さえようと手を伸ばすが、いきなりの事に間に合うわけもない。
そこから現れた顔は、どこかで見たことがあるような気がした。
「アンタは――」
口から漏れ出る言葉と共に、俺の意識は覚醒していった。
なにかを、忘れているような気がする。
「……どうしたのですか?」
寝ぼけたままの頭で漠然とそう思っていると、横にいたシルヴィアが声を掛けてきた。
狭い客室に身を寄せ合うように縮こまっている俺たち。
そうだ、ここはリタたちが所属しているアクアラング軍用船の中。普段は間取りの広い宿を利用している為、この効率性重視の部屋では中々寝付けなかったのを覚えている。
「……以前なら、そんなこともなかったんだろうけどな」
小さく呟く。テレシアで冒険者をやっていた時の宿は、ここまでとはいかないが、そんなに広いわけでもなかった。
「……?」
「いや。なんて言えばいいのか……まあ、夢の中で魔物と戦っていたようだ。イメージトレーニングのしすぎだろうな」
尚も見つめ続けるシルヴィアの頭に手を乗せ、俺はそう答えた。夢というのは、何故起きるとすぐに忘れてしまうのだろう。思い出せるのは僅かな断片だけだ。
「夢の中でも訓練を欠かさないなんて、やる気は十分ね」
そこにシャンディが声を掛けてきた。どうやら聞き耳を立てていたようだ。
「こんな部屋だもの、聞く気がなくても耳に届くわよ」
俺の内心を読んで答えるシャンディ。相変わらず察しのよいことで。
「これが以心伝心、というものかね。いやはや、怖いな」
俺は肩を竦めておどける。
「ふふ、そうかもしれないわね」
――グイッ。
不意に服の裾を捕まれた。それに引きずられるように振り返ると、当たり前ではあるが、そこにはシルヴィアがいる。黙ったまま俺を見つめ続けているが、いったいなにを言いたいのだろうか。
……もしかして、それを察しろと言うことか?
「おい、シャンディ――」
「それなら、私が今思っていることも当ててもらおうかしらね」
すると、今度は助けを求めたはずのシャンディからも無理難題を突きつけられてしまった。
……俺になにを期待してるんだよ、お前たち。
「なんだか……嫌な感じですね」
空を見上げ、マルシアが呟く。皆の漠然とした不安を表すかのように、雲行きは怪しい。そんな天の下、海を裂いて船は進んでいく。
シルヴィアたちから逃げ出すように外へと抜け出すと、今度はマルシアに捕まり、そのまま甲板までやってきたところであいにくの空模様である。
「風も出てきたな」
俺たちの乗るこの軍用船は船隊の旗艦。それを誇示する為か、海風を受けてひときわ大きな連合旗がはためいている。
「嵐でも来るんでしょうか?」
あいにくと空を読む事には長けていない。降らないことを祈るしかないだろう。
「これから海の王者への謁見だというのに、幸先悪いったらありゃしないな」
無意識にため息が漏れる。
「この船に乗れたことを好機と見るか、無謀と見るか……それで器の違いが知れそうだな」
旗艦ということは、この船団の代表。つまり、王の前に出るのはこの船に他ならない。ガキの頃の俺であれば船首に足をかけつつ、片手半剣を前方に突き出して今か今かと待っている頃だろうか。
「もう。折角なんだから、前向きに行きましょうよー」
隣のマルシアが、俺の顔を覗き込みながら言う。どうやらまた顔に出ていたようだ。シャンディにも同じ様なことを言われたばかりなのに、どうあがいても俺は小心者らしい。
「ま、分かっちゃいるんだけどな」
船の縁に肘を乗せ、その上に頭を置く。ゆらゆらと揺れる船体だが、今はそんなことを気にしている余裕はあまりない。
今すぐに戦闘だというのなら覚悟のひとつも決められるのだが、なまじうだうだと考える時間があるのがいけない。
海風が、俺の髪を揺らしていく。
「吹けよ、風。呼べよ、嵐……か」
大魔導師の魔術。絵本では魔法と形容されるその力を使うときに描かれていた詠唱の一説を、なんとなく口ずさむ。
いや、本当に来たら困るんだけど。
甲板にはかなりの数の人物が、整然と並んでいた。
アクアラングの兵士たちはもとより、その中にはポーロやレイモンといった冒険者たちの姿も数多く見える。俺たち同様、招集された奴らだろう。
あれから時が過ぎ、上空を包む雲もだいぶ厚さが増している。その下、水面に浮かぶ船体には力が感じられない。その動力源である魔石が完全に沈黙している為だ。
こんな海の真っ直中で停泊している理由はひとつ。俺たちが今居るこの海域、それはリヴァイアサンとの遭遇予定地点だからである。かなりの速度で丸一日ぶっ飛んできた為、港街とはかなりの距離が開いている。街に被害が及ぶ可能性を考えると、どうしてもこれくらいの距離は必要とのことだ。
周囲の兵士や冒険者たちの表情は硬い。きっと俺の顔も外から見たら同じようなものなのだろう。
装備を何度も確認する者。仲間たちと虚勢を張り合う者。ただ待つだけという落ち着かない時間の中、それぞれの発する音が、やけに鮮明に聞こえてくる。
「…………」
いつもは真っ先に声を上げるはずのマルシアも、周囲に呑まれているのか押し黙ったままだ。シルヴィアはいつも通り黒騎士の中に引っ込んだまま沈黙を貫いているし、場を弁えているシャンディは言わずもがな。
「皆の者。待たせたな」
そんな中、リタの声が周囲に響いた。それと同時に、周囲に緊張が走る。口調という意味では、彼女の台詞は確かに威厳を持つだろう。しかし、それを伝える声は幾分頼りないように聞こえてしまうのだが、そんな感想を持つのはどうやら俺くらいらしい。
「まずは冒険者諸君。我らの呼び声に応えてくれたことに感謝する」
声は俺たちの斜め上から降り注いでくる。
「そして、我らが勇敢なるアクアラングの兵士たちよ。共に戦場に向かえることを私は誇りに思う」
「……戦う気満々じゃねえか。話し合いはどうした。話し合いは」
小声で俺が突っ込む。
「士気を上げるための演説だもの、仕方ないわよ」
それを聞いて口を挟むシャンディ。
「まあ、分かってはいるんだが……あいつの性格上、素直にそう受け取れないんだよな……」
「そうね。その気持ちは分からないでもないわ」
俺はため息をつき、シャンディが微かに笑う。
「もしもの時は頼りにしているわよ。リーダー」
「まあ、出来る限りのことはするさ」
「あら、ここは「任せとけ」と胸を張る場面じゃないかしら」
「そんな頼りがいのあるリーダーじゃないだろう?」
なにを今更と、肩を竦める。眼の前の彼女は、俺なんかよりも頼りになる冒険者だ。
「ふふ。それでも、私個人としてはもっと寄りかかりたいのだけれどね」
「……これからにでも期待しててくれ」
先があればの話だけどな。
ポツリと雨が降る。
それが始まりの合図だったのだろうか。遙か彼方の水平線に変化が訪れた。俺たちの知らぬ間に船が進み始め、島にでも近づいているのかと錯覚しそうになるほどに大きな影が、段々とこちらに近づいてきている。分厚い雲が陽を遮っている為、その見た目ははっきりとしない。しかし、その正体を皆は理解していることだろう。
海の王者、リヴァイアサン。
ここに来るまでに何度も耳にしたその名。それが今、実体を伴って俺たちの前へと姿を現そうとしていた。
海面は更に荒げ、船は大きく上下動を繰り返している。
「……なんだ、これは」
俺の口からポツリと漏れる言葉。それは、恐怖などとはまた違った感覚。何故だか、以前にも見たような光景。既視感。
そんな不思議な感覚に捕らわれたまま、俺は接近する影を見つめていた。