始動
真っ暗な空間の中、私に背を向けていた男が全身から血を噴出す瞬間を見た。
血飛沫が飛び、生温かい血液が顔にも体にもびちゃりとかかる感触がする。けれど、そんなものに気を取られないぐらい目の前で起こった事から目が離せなかった。
男からボタボタと垂れる血は彼の足元に血溜まりを作り、瞬く間に広がっていく。その恐ろしい光景に顔が引きつり叫びたいが声が出ないのだ。私は終始身動き一つできず、ただ血溜まりに倒れこむ男を見つめているだけだった。
ばしゃりと血に沈む男の顔がこちらを向いている。苦痛や驚きに歪んだ表情に憎しみのこもったその目。
彼は私を見ていた。まるで私が殺したと言わんばかりに、視線が交わされるほどに、しっかりと。
――声が出た。自分の叫び声で鼓膜が破れそうだった。パニックになり体を動かそうとするのにピクリとも動けない。それが余計私をパニックにさせる。
怖い。逃げたい。ここから離れたい。早く、動け、もう見たくない。
どれだけ必死になっても動く事が出来ない。それでももがき続けていると突然体が動き、目一杯込めていた力が行き場を失いバランスを崩してその場に倒れた。血溜まりがと思い飛び起きると、足元にまで迫っていた血溜まりは消えていて、こちらを憎々し気に見ていた男も消えている。
もう何が何だかかわらなくて、立とうとするけど足に力が入らなくて上手く立てない。けれど何とかこの場から離れたくて後ろを振り向き、這う様に必死で移動した。
大分離れただろうか。わからないけれど、背後が気になった。何もいないと思いたいけれど怖い。ただでさえ真っ暗で立つ事も出来ない自分は背後から襲われたらお仕舞いだ。色々な考えが頭をグルグル回り、追い詰められている私が安心するには背後を確認するしかないんじゃないかと思わざるを得なくて……葛藤の末恐る恐る後ろを振り返ってみる。
追ってくる影は無い。けれど、私が立っていた位置よりももっと奥に人影があった。暗くてよく見えないけれどあの背格好は見覚えがある。あれは――――。
……そして、夢から覚めた。
ベットから飛び起き、夢なのか現実なのか混乱しつつも急いで部屋を飛び出してリビングへ向かった。夢があまりにもリアルで恐ろし過ぎて、とにかく誰かに会いたかったのだ。
バタバタと廊下を走り、勢い良くリビングの扉を開けると父がダイニングのイスに座り食事をとっていた。
父は慌しく入ってきた私に驚く事も無く、不思議そうにする訳でもなく、いつも通り声をかけてくれた。
「おはよう。そろそろ起きて来るだろうと思っていたよ」
「……おはよう」
明らかに動揺し、肩で呼吸している私に理由は聞かず、「ご飯が出来ている」と言って席に座るように促した。
目の前にあるのはいつもの日常で、いつもの父で、いつもの朝ご飯で、いつもと何も変わらない現実だ。ただそれだけなのにそれがどれだけ私を安心させたことか。心は落ち着いて冷静になれる。ここには何も怖がるものは無いんだと肩の力を抜ける。落ち着つく事が出来る。
「先に顔を洗うか?」
「ご飯食べる」
父の正面に座り、父が作った朝食を食べた。大きな平皿に盛られたのはトースト一枚にスクランブルエッグとベーコン。ミニトマトも二つある。
毎朝変わらないメニューが私をこんなに安心させているなんて、父は思いもしないだろう。
「いただきます」
合掌して、いつも通りトーストに具を挟むことにした。
トーストの片側にベーコンとスクランブルエッグを乗せて半分に折って食べるのが好きなんだ。亡き母もそうして食べていたと聞いた時は嬉しかった。一緒だと思うと、さっきまでの動揺が嘘のように安心した。……ちゃんとご飯の味がする。美味しい。
「今日も亮介君と遊ぶのか?」
せっかく美味しくご飯を食べていたのに、今一番聞きたくない名前のせいですっと頭が冴えてしまった。
「違うよ。いつも亮介が勝手について来るんだよ。遊んでるわけじゃない」
「あの子お前の事が大好きだもんなぁ。道で会うと必ず挨拶してくれるよ。お義父さんってさ」
「そこはお義父さんじゃないって怒ってよ」
亮介のやつ、父さんのポイント稼ごうとして。姑息だよ。
「何でだ? 亮介君は良い子だし、あの子なら婿にしても良いぞ」
「父さんは亮介の事を勘違いし過ぎてるんだよ。亮介はウザイし、邪魔だし、いつもヘラヘラしてて見てるとイライラするし、私の事を毎日予知してるって言って気持ち悪いんだよ。きっとこの会話だって予知してるに決まってる。ほんとヤダ」
「お前はどうしてそんなにキツい子になったんだろうなぁ」
「亮介のせいだよ。亮介が毎日私のこと怒らせるから」
「そもそもお前が短気だから怒ってるんだと思うぞ」
「……短気じゃないもん」
図星をつかれてそれ以上は黙るしかなかった。性格がキツイのも短気なのも亮介に指摘されているからわかってはいるけれど、でも何処がどういう風に駄目なのかがわからないからいまいち直しようがなかった。キツい台詞が何かわからないし、相手を傷つけたくて言っている訳じゃない。むしろ自分では(亮介以外の人には)結構気を使っていると思っていたから、キツいと言われても「何処が?」と思ってしまう。
自分でキツいって気付いているくせにまだキツい性格ってろくでもないよね……凹む。
色々なことに考えを巡らしていると、夢のことなんて綺麗に忘れてしまうのだった。
その後朝食を済ませて二人で食器を洗い、仕事に行く父を見送ってから身支度を整えた。
自室のカーテンを開けると太陽の光が眩しく差す。今日も晴れてて気持ちの良い日だ。あんなに恐ろしかった夢ももう平気だし、そもそも初めて見る夢じゃないから問題無い。父が冷静だったのも昔から時々ある事だったからだ。夢を見る回数は増えてきたけど悩む必要はない。
……けど、やっぱり不安だ。亮介に相談しようかなぁ。
「あ、もうこんな時間だ」
時計の針が八時半を指していた。今日は考古学の授業があるから学校に行くんだ。義務教育は13歳までだけど、それ以降も授業は好きに受けて良いし無料だなんて良いシステムだよね。タッチパネル式の電子ボードが教科書・ノートだから楽だし、どんな授業があるのかも検索ですぐにわかるし、出欠もこれのみで良いしで文明様々だ。
その代わり紙はとても貴重で、今はもう手に入らない。昔は紙を使うのが普通だったらしいけど信じられないな。
机の上に置いてある電子ボードをリュックに入れて、玄関に向かった。そして「いってきまーす」と、 誰もいない空間に声を響かせて玄関の扉をゆっくりと開けた。
あぁ……今日こそ亮介に会いませんように亮介に会いませんように亮介がいませんように。
「おはようアリア!」
「……」
全開に開いた扉の向こうに笑顔で立つ亮介を見て、心底うんざりした。
「……なんでいるの」
「ウザくて邪魔でヘラヘラしている俺がいないとお前の朝が始まらないだろぉ?」
「始まるし。というかまた私の事勝手に予知してて本当に気持ち悪いんだけど」
「とりあえず『おはよう』って言ってくれよぉ。俺の朝が始まらないだろぉ?」
「一生始まらなければ良いのに」
「ははは! お前ってほんとキツいよなぁ。でも」
「それ以上は言わなくて良いから」
「お前のそんな所が大好きだよ」
「言わないでって言ったじゃん。亮介のばか」
「いや、一日五回くらいは言っておかないとお前を包んでいる俺の愛が」
「消えてなくなれば良いのに」
「消さない為に言うんだよ。つかお前、俺の言いたい事を先読みするなんて、これは正しく愛の力だよなぁ」
「全然違うし。毎回同じ事言って飽きないの?」
「全然飽きないよ」
「私はもう飽き飽きしてうんざりなんだけど」
「大好き」
「やめて!」
あぁぁぁぁイライラする。これは絶対に短気じゃなくてもイライラするよ。もう本当に亮介うざい!
「アリア、これ以上俺と愛を語り合っていると遅刻しちゃう予知したんだけど」
「もう亮介のせいだよ! ばか! 大嫌い! あっちいってよ!」
「あっちいってよって言われても、俺も今日の考古学受けるんだけどなぁ」
「なんで? 興味無いくせに! 真似しないでよ!」
「何言ってんだよ。お前が受けるなら俺も受けるに決まってるだろう?」
「もうウザイーーーー!」
「ははは! じゃあ続きは歩きながらしようぜ。行くぞ」
それから学校までの道程……十分程度かな。ずっと「亮介のばか! 嫌い!」と言いながら歩いていた気がする。時々すれ違う人たちがこちらをチラリと見ているのには気付いていたけれど、あまりの不快感に口を噤めない。亮介はと言えば私の言葉にずっと笑っていたので、それがまた余計怒りに拍車を掛け罵り続けてしまうと言う悪循環。
あぁ……もうどうして朝からこんなに嫌な思いをしてストレスを溜めないといけないのだろう。私をからかうのがそんなに面白いの? 毎日毎日うんざりだよ。亮介のばか。嫌い。
家の前を通る道を北進し続け、大きな公園に入った。宅地も区画が広々と取ってあり家々も街道も緑に溢れているけれど、このオアシスで一番大きな公園はやっぱり別格だ。入ってすぐには噴水もあって涼しげだし、何より空を覆うような木々の枝はその力強さをヒシヒシと感じさせるほどに圧巻だ。大きく伸びた枝の隙間からは青い空にふわふわの白い雲が見え隠れしていたり、太陽の強い日差しがキラキラと差し込んでくる。そして時々聞こえる鳥の鳴き声に羽ばたく音、葉が風に揺れる音、それら全てが私のイライラした心をやわらかく穏やかにしてくれて、いつしか亮介を罵る言葉も出なくなっていた。
やっぱりここはとても落ち着く大好きな公園だ。隣に亮介がいなければ本当に最高なのに。
ちらりと横を見ると、黒いサマーニット帽を被った亮介のご機嫌な表情が見えた。ニット帽からはみ出る金髪は太陽光でキラキラ輝いていて、白いベストや腰に巻いている赤い大判ストールがちょっとおしゃれでむかつく。と言うか白いトップスって私と被ってるんだけど。ただでさえ同じ金髪碧眼で嫌なのにそこまで被せてこないでよ。
私のイライラした感情など気付きもしない亮介は、時折くだらない話をしながら終始ご機嫌で目的地までの約五百メートルほどを歩くのだった。




