光と影の魔術士 ー 後編 ー
一時間後、私たちはようやく目的の美術館に到着した。
新品のミュールの感触を確かめるように足を動かす。ミュールは誂えたように足にぴったりで、今度は靴擦れになる心配はなさそうだった。
淡いピンクの華奢なデザインのもので、プリムラを象った飾りが可愛くて気に入った。
実はこれは小夜からのプレゼントである。これを購入した時もひと悶着あった。
小夜にそれをプレゼントする、と言われた時、誕生日でもないし贈られる理由もない、と断ったが彼は頑として引き下がらなかった。
「俺だってもう自分で稼いでるんだから。連れ合いのプレゼントぐらい買える」
「でも年収はまだ私の方が………」
上と言おうとして、私は口をつぐんだ。
小夜が心なしか瞳を潤ませながら、上目遣いで私を睨んでいる。
「ヤコの馬鹿。バカバカバカ。ヤコなんかきらいだ」
年下の恋人が子供っぽく拗ねるその様子に私は一発でノックアウトされた。
ごめんなさい。私が全て悪かったです。と平謝りしたくなるぐらい、拗ねてぷいっと顔をそむけた小夜は可愛い。
しかし私の恋人は可愛いという褒め言葉を嫌うので、可愛いと叫んで抱き潰したい衝動をこらえつつ、抵抗をやめて大人しくミュールをプレゼントしてもらうことにした。
男心はかくも複雑なものなのだ。あと一年か二年もすれば追い越されるとは思うが、それまではお互いの収入額に関しては触れまいと決意した私である。
「足、大丈夫そうだな」
チケット購入の列に並びつつ、小夜が私の足元に視線を向けた。
頷くが、腕は組んだままだ。恋人同士だったら当然なんだろうけど、私たち二人にはあまりないシチュエーションなのでこそばゆい。
「腕、離しても平気よ。もう普通に歩けるわ」
照れ臭さもあってそう切り出すと、途端に小夜の機嫌が急降下したのが分かった。
「嫌なの?」
「そんなことないけど」
「じゃあこのままでいいだろ」
話している間に順番が回ってきていて、窓口のお姉さんに大人二人分のチケットを頼んだ小夜が一旦腕を離した。
素早く二人分の料金を払い、チケットを受け取ると、小夜はそうするのが当然のように、再び私の腕に自分の腕を絡める。
「ねぇ。お金………」
「いいから。ほら、行くよ」
ミュールも買ってもらったし、チケット代までおごられてしまっては、申し訳ない。
「たまにはいいでしょ。
俺だって男なんだから。ヤコの全て、というのはまだ無理だけど、ヤコの色々なことを受け止めて俺が支えたい。
ヤコがセレナーデの支えになってくれて、今でもこうして小夜の側にいてくれる。
そのことに対して少しでも恩返しがしたいんだ」
小夜は邪気のない素直な笑顔を見せた。滅多に見せないその笑みと彼のストレートな気持ちに、頬がじわじわと熱を帯びてくるのが分かる。
こういう表情をすると、小夜は想夜と本当によく似ている。
でも。
小夜に寄り添って歩きながら私は思う。
想夜は今の小夜みたいな笑顔をよく浮かべては、無差別に相手の女性(たまに男性)をノックアウトしているようだけれど、小夜にはあまりこういう顔で笑って欲しくない。
この笑顔は私だけのものであって欲しい。
こんなことを考えている私は欲張りなのかもしれない。
グラスの上で浄らかにゆらめく炎。その炎をじっと見つめて思想にふける女。その華奢な膝の上には頭蓋骨が乗っている。
全体的に暗いトーンに覆われた絵。
炎が照らし出す女と骸骨だけが、闇の中にぽっと灯る明かりのように浮き上がっている。
女の黒髪は艶やかに輝き、スカートからちらりと除く足はほっそりと美しいラインを描いている。
聖女と呼ばれる存在なのに、肩を大きく露出したブラウスを着ているのは、彼女がかつて娼婦だったといういい伝えがあるからか。
ジョルジュ・ド・ラトゥールの"悔悛するマグダラのマリア"
今回の私の目当てはレンブラントの"夜警"ではなく、フェルメールの"絵画芸術"でもない。こちらの方だった。
ラトゥールはレンブラントやフェルメールほど有名でないせいか、この絵の前でじっと立ち止まる人は稀で、私はすぐ近くで存分にこの絵を眺めることが出来た。
「ノリ・メ・タンゲレ (我に触れるな)
キリストの復活を一番はじめに目撃した聖女か。聖女と骸骨って不思議な組み合わせだな」
「マグダラのマリアはイエスの頭蓋骨を持ち去ってその前で瞑想にふけったと言われているの。だからマグダラと頭蓋骨がセットで描かれるのはよくあることなのよ。あと、ナルドの香油の壺もよく出てくるわね」
「頭蓋骨………ね。不吉だよな。死を連想させると言うか」
絵の中の髑髏に見入る小夜の瞳に小さな炎が揺らめいて見えた気がした。
「どんなに若くて美しくとも、いつかは老いて死んでゆく。彼女は揺れる炎を前に、死について思いを馳せているのよ。マグダラが抱えている頭蓋骨はまさしく死の象徴なの」
元娼婦であり聖女である稀有な女性。彼女は魂の裡に二つの相反するもの、光と影を内包している。
闇の世界の住人でありながら太陽の力を秘めていた魔術士のように。
「ああ。そうか。この絵。メメント・モリか」
そう呟いたきり、小夜は絵を凝視したまま、動かなくなる。まるで絵の中に潜む死に捕まってしまったみたいだ。
彼がこのまま私の手の届かない遠くに行ってしまうような焦りを感じて、私は小夜の名を呼びながら肩を揺さぶる。
彼の瞳の中には、先ほど見たのと同じ小さな炎が揺らめいていた。
炎? 違う。これは太陽だ。
小夜の中の魔王が死に魅入られているんだ。
そう気付いた瞬間、私たちの世界から色と音が失われ、周囲の人だかりが写真の中の一場面のように静止した。
動いているのは私たちだけ。
絵の中の深い闇からにゅっと骸骨の腕が二本伸びてくるのが見えた。
腕は放心している小夜を絡め取ろうとしている。
私は迷わず小夜の前に躍り出た。絶対に連れて行かせない。
腕は私をがっちりと捕らえ、すごい力で闇に引きずり込もうとする。
私は激しく抵抗した。体に巻きついた腕を叩き、足をばたつかせ、全身をよじった。それでも拘束は緩まない。
やがて、上半身が徐々に絵の中に呑まれはじめ、死にもの狂いで足を振っていたらミュールが片方脱げて床に転がった。
その音に小夜がぴくりと反応する。そして今まさに骸骨に連れて逝かれようとしている私に気付き、慌てて駆け寄ってきた。
「嫌! 離してっ………」
「ヤコ!」
完全に闇に呑まれる直前、見えたのはこちらに向かって必死の形相で手を伸ばす小夜の顔だった。
それきり私の意識は深い闇に沈んだ。
誰かに名前を呼ばれた気がして、私は重いまぶたを開いた。
何も見えない。
おかしい。私はちゃんと目を開けているんだろうか。まばたきをするが何も変わらない。
果てのない闇が広がっているばかりだ。
小夜もいない。
私の悪夢はまだ続いていた。
鼻がつんと痛くなり目に熱いものがにじんでくる。
視界は全き闇のままで、ただ感じるのは、耳に突き刺さるぐらいの静寂と、私のお腹と足に絡みついた冷たく硬い感触だけだった。
あの骸骨だ。
私は直感し、無駄だと分かっていても全力で暴れる。あれに触れられていると考えただけで、生理的嫌悪と言葉にならない恐怖を覚え、体中に鳥肌がたった。
目からは涙がとめどなく流れている。
骸骨は一言も喋らない。ただ暴れるごとに締め付けが強くなり、私は息も絶え絶えになる。このまま死ぬのだろうか。
いや、死ぬならまだいい。この先に待ち受けているのは、死よりも恐ろしい"何か"だ。
私の本能がその"何か"を察知して危険信号を出しているのだ。
「小夜、小夜!………助けて」
小夜の名前を呼んだ直後、強烈な光の筋が闇を切り裂いた。
光は辺りをぼんやりと照らしだし、闇の中に浮いている骸骨と紅い光に包まれた小夜の姿を映し出した。
「泣くほど怖がってるくせに、どうしてすぐに俺の名前を呼ばないの!」
小夜はやっぱり怒っていた。今日一日だけで何度怒られたことか。
彼が怒りながら人差し指で骸骨を指差すと、ジュッと音がして、光の線が骸骨の顔を一瞬で貫いた。
焦げた臭いが鼻をつく。
「元魔王の伴侶に手を出すなんて愚の骨頂。お返しに後悔も反省も出来ないぐらい跡形もなく消し飛ばすよ」
彼の放つ光には見覚えがある。紫宮で最期の時にセレナーデがまとっていたのと同じ光だ。
小夜は全く容赦しなかった。
紅い光を連続で撃ち、骸骨の身体にいくつもの風穴を開ける。
小夜の光は不可視な程に速く、避けることも出来ない哀れな骸骨は成す術もなく貫かれ続け、最期には声なき絶叫を上げついに消滅した。
解放された私の身体が落下する。小夜は私の落下地点に先回りして瞬間移動すると、ふわりと身体を受け止めてくれた。
「ヤコ!」
「小夜! 小夜! 怖かった、怖かったよ」
暖かい腕に抱かれた途端に、私のなけなしの理性が吹き飛んだ。
何も考えられないまま彼の名を連呼し、その身体にしがみついて泣きじゃくる。
「ヤコすごくかわいい。いつもこれぐらい素直だといいのに」
すでにおなじみになった彼の親指が、私の涙を優しくぬぐう。
すんすんと鼻を鳴らして、甘えるようにその胸に頬ずりすると、ごくりと小夜が固唾を飲む音が聞こえた。
「ねぇ。俺、久々に魔法使ってお腹空いちゃった。ヤコ、甘くて美味しそう。頑張ったご褒美にヤコをちょうだい」
私はその言葉の意味を測りかねて、ぼんやりと小夜を見上げ、覆い被さってきた彼に文字どおり吐息ごと食べられた。
何度も口付けられて、元々ぼうっとしていた意識がますます薄れてくる。
「ヤコ。眠いの? 大丈夫。俺がついているからゆっくりおやすみ」
小夜のささやき声が心地よくて、私は胎児のように安心する。
深々と息を吐いて彼の暖かい身体に身を委ねると、私はあっという間に眠りに落ちた。
次に目を覚ました時、私はベンチで仰向けに横たわっていた。
頭の横に小夜が座っていて、私の額に手を置いている。
「小夜。ここはどこ? 私、どうなったの?」
「ここは美術館の隅にあるベンチで、ヤコはラトゥールの絵の前で貧血を起こして倒れた………ことになってる」
声を潜めて小夜が教えてくれた。
「骸骨に生気を吸いとられて消耗したんだろう。今日はもう帰宅して家で安静にした方がいいよ」
自力で歩ける? 歩けなかったら俺が抱えて行くけど、と言われて私は激しく首を振った。
"そんな恥ずかしい真似をされるぐらいだったら私は這ってでも家に帰る"と断固たる口調で拒否すると、小夜は舌打ちする。
「なんだ。もういつものヤコか。つまんないの。絵の中ではあんなに素直で可愛かったのに」
「あれは………その。忘れて」
「嫌だ」
ネイドのようにニヤリと笑い、小夜はきっぱりと首を振る。
私は赤面してしばらく羞恥心と戦う羽目になった。
ぐっすり眠ったおかげで、動けるぐらいに回復したので、小夜に手伝ってもらって上半身を起こす。
そこで片方しかミュールを履いていなかったことを思い出して、私は悲しくなった。
せっかく小夜がプレゼントしてくれたのに。
「小夜。ごめんなさい」
「急にどうした?」
「ミュール脱げちゃった」
「ああ。あれならちゃんと俺が持ってるよ」
ほら、と私の足元に膝まずくと、小夜は脱げたミュールを差し出した。
そっと壊れ物を扱うような丁寧な手付きでそれを履かせてくれる。
その恭しいとも言える動作に照れ臭さが込み上げてきた。
「帰ろう」
小夜が差し出した手を取ると立ち上がる。腕を組むのにもすっかり慣れた私が自分から腕を絡めると、小夜は目を大きく見開いた。
時折、ふらつく身体を小夜に支えてもらいながら歩きつつ、私は想夜のお土産を買い忘れたことを思い出す。
「そんなのまたデートした時に買えばいいだろ」
「またデートしてくれるの?」
「当然。伴侶にせがまれてもデートに応じない男なんて、愚の骨頂」
「もう。今まで自分がそうだったくせに」
「過去は過去。現在は現在。俺たちは未来に向かって生きないと」
小夜はニヤリと笑った。本当に調子がいいんだから。
私は今日一日ずっと気になっていたことがある。
「連れ合いとか伴侶とか言ってるけど、私はいつから小夜の奥さんになったの?」
「そんなのこの世界でヤコと再会した時からに決まってる。俺はずっとそのつもりだったし。
まさか、ヤコ。今さら嫌だなんて言わないよね? 俺の奥さんになってくれるよね?」
先程までご機嫌だった小夜は、急に迷子の子供のような頼りなげな表情になり、私の顔を懇願するように覗き込んだ。
組まれた腕には、痛いほど力が入ってる。
私は小さくため息をついた。
私の思い描いていたプロポーズとはだいぶ違う。
けれども今、こうして小夜になったセレナーデと一緒に腕を組んで歩ける。
これからも一緒にいられる。
それはものすごく奇跡的で幸せなことなのだ。
その幸せを思ったら細かいことなんてどうでもいいじゃないか。
「うん。私、小夜の奥さんになります」
「ありがとう。ヤコ、大好き!」
「えっ」
次の瞬間、いきなり身体がふわりと持ち上がり、視界が高くなった。
小夜がいきなり私を横抱きに抱き上げたのだ。
いくら降ろして欲しいと懇願しても、聞き入れてもらえなかった。
そのまま小夜のマンションに連れて来られた私は、衰弱していたのにも関わらず、妙なスイッチが入ってしまったらしい小夜にがっつり食べられてしまう。
翌朝から私は体調を崩して数日間寝込む羽目になった。
後日、遊びに来た想夜が、ぐったりして小夜に看病されている私を見て驚いた。
小夜から全てを聞き出した想夜は、弱っている私に無理をさせたと怒り、小夜に長時間説教をした挙げ句、罰として10日間私と会うことを禁じたのだがそれはまた別の話である。
花言葉
プリムラ
永続する愛情 運命を開く
ジョルジュ・ド・ラ・トゥール
フランス古典主義を代表する巨匠
現存する作品の中で、 最も多い主題のひとつが「悔悛するマグダラのマリア」
検索すると同じタイトルで違う図案の絵がたくさん出てきます。




