表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

4/43

メモ

 

「ナターシャ?」 


 玄関に明かりはついてなかった。いつもなら迎えてくれる笑顔どころか気配さえない。羽田に着いた時に送ったショートメッセージに返信がなかったのでおかしいとは思ったのだが、まさか家に辿り着いた時にいないなんて考えもしなかった。


 リビングに入って照明のスイッチを押すと、テーブルの上に置かれたメモが見えた。急いで手に取ると、その瞬間、目を疑った。あり得ないことが書かれていた。


『探さないでください』


 メモを持ってしばらく呆然としてしまったが、ハッとしてスマホの連絡先アイコンから妻の番号を表示させ、それをタップした。


 しかし、応答はなかった。『おかけになった電話は電波の届かない場所にあるか、または、電源が入っていないためかかりません』という録音メッセージが流れてくるだけだった。

 その理由は2つしか思い浮かばなかった。妻が故意に電源を切っているか、機内モードにしているか、そのどちらかだ。仕方がないので電話は諦めて妻の行動を推測することに切り替えた。このメモからすると日本にはいないと考えた方が間違いないだろう。


 とすると、ロシアしかない。

 ということは、実家に帰ったのだろうか? 

 でも何故? 

 もしかして両親が病気になった? 

 いや、そんなことは聞いていない。

 それに、見舞いに行くなら『探さないで』と書くはずはない。

 では、なんだ?


 考えたが、さっぱりわからなかった。心当たりは何も無いし、変な素振りを感じたこともなかった。どんなに考えても思い当たることはなかった。

 ……いや、そんなことはない。あの日はおかしかった。元気がなさそうだったし、笑い方が変だった。買い物から帰った時は元に戻っていたのでそれ以上気にすることはなかったが、明らかにおかしかった。

 それでも、だからといってそれがこのメモに繋がるとは思えなかった。といって、他に原因があるとも考えにくい。喧嘩をしたこともないし、トラブルに巻き込まれたこともない。平凡だけど平和な毎日が続いていたのだ。唯一の気がかりはロシアによるウクライナ侵攻だったが、それが家を出て行くほどの理由とは思えなかった。


 う~ん、わからない。何もわからない。ただ、どういう理由であれ、どういう事情だとしても、ロシアに帰ること以外にはあり得ないだろう。


 だとすれば、もう既に飛行機に乗っているだろうか?


 わからない。もしかしたら羽田か成田で搭乗待ちの可能性もある。しかし、モスクワへの直行便は運航停止になっているはずだ。とすると、トルコ経由か? そうだ、そうに違いない。


 現在トルコには渡航中止勧告は発令されていないはずだと思って調べると、案の定、観光、ビジネス共に入国可能となっている。それにワクチンを3回接種した人は隔離措置の適用もないということだから、ハードルは低い。


 早速、運行状況を調べると、ターキッシュエアラインズが羽田から毎日運航していることがわかった。すぐに電話をして搭乗者名簿の確認を頼んだ。

 しかし、本人以外には教えられないと断られた。夫であることを伝えたが、それでも答えてはくれなかった。個人情報保護や詐欺対策の面から厳しく運用されているのだろう。これ以上粘っても(らち)が明かないので電話を切ったが、スマホに表示された時刻を見て暗い気持ちになった。出発時間を10分ほど過ぎていたのだ。妻はもう機中の人になっている可能性が高いことになる。


 まいった……、


 両手で顔を覆って中指で両目頭を揉んだ。すると、頭の中が後悔でいっぱいになった。行くんじゃなかった、と北海道への出張を悔やんだ。


 水産庁がロシアとサケ・マス交渉を開始したことを受けて北海道に出張していたのだ。交渉自体はウェブ会議方式なのでわざわざ北海道へ行く必要はなかったが、情報収集が必要と判断して現地に飛んだのだ。


 予想はしてはいたが、厳しい現状を目の当たりにした。出漁できないために陸揚げされた漁船が多数あり、漁師の焦りは半端なかった。サケ・マス漁に出られなければ1(せき)当たり6千万円から7千万円の収入を失う。シーズンは6月までと決まっているから、あとから取り戻すことはできない。いま漁に出なければならないのだ。

 それに、影響は漁師だけにとどまらない。卸や鮮魚店、鮨屋に和食料理店などすべての関係者に及ぶのだ。それだけに漁業や水産業が基幹産業である地域のダメージは大きい。もしこのまま漁ができなくなると廃業や失業という問題が顕在化(けんざいか)する。そうなると地域から出て行く人が増える。(すた)れていくのを止めることはできない。


 そんな現地の厳しい現状を目の当たりにして疲れ果てて東京に戻ってきたが、癒しを与えてくれるはずの妻は書置きだけを残して消えていた。


 どうしたらいいんだ……、


 何も考えられなくなった。ただ頭を抱えて苦悶するしかなかった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ