3. 8月32日〜思い出とドライブ〜
奇しくも月見ヤチヨさんのお誕生日も8月32日でした。
当たり前と言えば当たり前なのだが、目の前の彼女は成人を果たしていて、とっくに自動車の免許を取れる年齢なのだった。
「“私”はクルマの運転はよくする方だからね。不慣れから来る失敗はないから安心して欲しい」
そして、よく見ると、そのスマートキーは父さんのものだった。ということは、ウチのクルマを運転するつもりなのか。
「仕方がないよ。流石に、“私”の愛車を持ち込むことはできなかったからね。今日だけお借りするよ。さぁさぁ、早く支度をしておいで。待っているから」
そうするより他ないので、さっさと身支度を済ませてしまう。机の方に用意しておいた制服は放置して、昨日までに着ていたような私服に着替えた。改めて今の状況を奇怪に感じながら。
自室から再び下に降りると、彼女が洗い物を済ませてくれていた。
「ごめん。任せてしまって」
「構わないよ。15年後の9月1日は“私”が家事当番だからね」
家事当番って。
先ほどから気になっていたのだが、15年後の香純ちゃんはどういう立場にあるのだろうか。
立場というのはつまり……。
「ああ、そうだよ。既婚者だ。“雲居香純”と呼んでいるが、“私”の姓は既に変わっている」
「え、じゃあ相手は?」
「さーあ誰かなー?」
彼女はチェシャ猫のような笑顔を作った。
すごく楽しそうですごく不愉快だ。
「ちゃんと説明してくれるんじゃなかったのか?」
「“私”たちの将来像については保証の対象外だからね。ガイドとしては教えてあげる義理はないんだよ」
「確かに、8月32日とは関係のないことではあるけど」
「可愛い彼女と結ばれるかがそんなに気になっちゃうのかぁ。かーわいいなぁ。“私”が襲いたくなってきちゃったなぁ。イイコトしたくなってきちゃったなぁ」
「これ以上センシティブな発言はやめてください!」
「……“私”が貴方以外の相手と結婚すると思うの?」
「…………」
発言の端々から、そして僕のよく知る彼女のことを思うと、薄々察することはできていたが。
そうかそうか。
「……男性相手だったら」
「ちょっと待て何だその倒置法!?」
それは流石に察することができなかった。
「もし貴方が浮気をするようなことがあったら、目一杯怒り狂った上で“私”は“私”で咲良先輩と結ばれるよ」
「とんでもないカミングアウトをされている!?」
「ちなみに、咲良先輩を共有の愛人として囲い込む相談を旦那様に持ちかけているのだけど、中々ふたりの了承を得られないんだ」
「未来の僕もまともな価値観を保持しているようで何よりだよ!」
どうしよう。急に将来が不安になってきた。
「ちなみに、優雨ちゃんは一応職は持ちつつも、私たちの寄生虫になりつつあるよ」
「うん。それは予想できた」
あの妹がまともに会社勤めをしている絵面が思い浮かばない。
いざという時は僕が一生面倒を見るつもりだから。
「そこでもちゃんと鋭いツッコミが欲しかったんだけどね」
苦笑を浮かべつつ、もう彼女は靴を履き始めていた。
「さてさて、準備もできたなら出かけるとしよう。私がエスコートしてあげるからね、未来の旦那様♪」
当たり前だが、未来では免許を取得しているらしい香純ちゃんは、慣れた様子で父の愛車の運転席に乗り込んでいた。
「クラウンエステートか……。前から思っていたけれど、寺井家も中々の富裕層だよね」
「え、そうなの? 水川財閥と比べたら全然普通だろう?」
「ファミレス経営で全国チェーンとローカルチェーンの違いくらいの感覚でしかないよ。……まあ、貴方も大人になったらわかるでしょう」
今のセリフの全容は掴めなかったが、少々呆れられたことくらいはわかる。
助手席に乗り込んで、シートベルトを締めた。
「わー、トヨタのクルマはこんな感じかぁ。初めて乗るから、おら、ワクワクすっぞ!」
初めてと言いつつ、手際良くエンジンスタートして、クルマはゆっくりと出発し始めた。
「香純ちゃ……ガイドさんは運転が好きなのかい?」
「“私”としての回答をするなら、そうだね、好きだよ。意識的に好きになったというよりも、慣れから好ましくなった、という感じだよ」
「そうなんだ……」
「尤も、“私”自身のクルマではなく貴方の愛車なんだけどね」
「僕の?」
僕もいつかは取りたいと思っていたけど、ちゃんと未来の僕も取っていてくれたんだな。
いや、待て。
「未来の香純ちゃんが僕のクルマをよく運転していたんだよね? それは交代でしていたということ?」
「…………」
待ってくれ。何故そこで口籠るんだ?
「未来の貴方はね、ほとんど運転していないんだよ。ふたりで探して、ふたりで迷って、最後に貴方のイチオシで決めたクルマだったんだけどね、その貴方自身が自分で運転をさせてもらえないの。運転手が居るから」
「運転手が居るの!?」
「要人は自分でクルマの運転はしないものだから」
不安を超えて脳内に無数の疑問符が湧き始めた。
未来の僕は一体何者なんだよ。
「よくぼやいていたよ。高校生時代は“今が一番大変”だと思っていたけど、大人になった今の方がよほど波瀾万丈だって」
「大変そうだな、未来の僕」
「はっはー、不安になっちゃった?」
「……ちょっとね」
そう言っている間に、ガイドさんの運転するクルマは高速道路に入っていた。「他に人間が全くいないのにETCが使えるのは面白いよね」と、彼女がおかしそうに言う。
それを言うなら、朝から水道と電気、そして恐らくはガスも普通に使えていることがおかしい。生活インフラは管理する人間が居なくても利用できるものなのか。
「そこは1日限定のご都合主義だよ。ある種、ここは滅んだ世界みたいなものだからね。気にしなくて良いよ」
「…………」
「どうしたの? 何、その意味ありげな沈黙は?」
「いや、何でもないよ」
「そう」
その後しばらくは気まずい沈黙が流れ続けた。
などということはなかった。
「ねえ、旦那様。高速道路の法定最高時速は知っている?」
「ええと、100キロとか?」
「基本はそう。あとは、一部区間では時速120キロまで引き上げられているんだよ」
「そうなんだ。で、何故それを改まって?」
「8月32日に警察も法もない! 時速180キロ出してやるわ!」
「法と規則と道徳に則って運転してください!」
無人で他に走るクルマのない高速道路。異様なテンションの上がり方をしている彼女を押さえつつ、僕はクルマが東方面に向かっていることに気づいた。
「ガイドさん、これってどこに向かっているの?」
「着いてみてのお楽しみだよ。大丈夫。日帰りできるところだから。それでいて、貴方が行ったことのある場所でもある」
「行ったことのある場所?」
言われて考えてみると、幼い頃家族4人で、父さんの運転するクルマで遠出をした時のことを不意に思い出した。
小さい内から色々な体験をさせてあげよう、という両親の意向から、遊園地、動物園、水族館、科学館、と様々なところに連れて行かれた覚えがある。
覚えがある、とは言ったものの、その体験や思い出を全て覚えている訳ではない。父さんが当時の幼い僕らの面白エピソードを回想していても、覚えていないから乗っかれない。
反応を見るに、優雨も同じく覚えていないらしい。素直にそれを打ち明けると、
「お前らにはがっかりだよ。もう連れてってやんねーからな。ふーんだ!」
と、父は良い歳していじけておられた。
でも、それって普通じゃないだろうか。
人間の記憶にはどうしても容量の限界があって、古い記憶は薄れて、やがては忘れ去られていく。
それら全てを覚えていられるのは無茶というものだ。
かつての彼女を除いては。
「貴方が黄昏れている間に、ほら、もう着きそうだよ。……懐かしいんじゃないかな?」
気付けば、クルマの窓から見える景色が変わっていた。
木々が立ち並び、その奥にはどこまでも広がる草原。そして、いつもよりも遥かに近くにある富士山。
「もしかして、牧場に向かおうとしているの?」
「大正解♪ ここも貴方たちが小さい頃に連れて行ってもらった場所のはずだよ。“私”はそうお義父様から伝え聞いている」




