2. 8月32日〜未来の彼女と朝食を〜
今では、夏休みは8月31日よりも早く終わることがほとんどなようで、時代錯誤なお話になってしまったようです。
平成感覚でお楽しみください。
意識の覚醒が突然訪れた。アラームはまだ鳴っていない。
目を閉じたまま、意識はすぐにはっきりとしてくる。
間近に人の気配がするからだ。
朝から誰だろう。候補はいくらか思いつく。しかし、意外と誰も当てはまらない。
両親は言わずもがな。妹も母に頼まれて起こしに来る以外はあり得ない。幼馴染の咲良も常識から外れた行動は取らない。香純ちゃんは……前科が何度かあるが、今日こんなことをする理由がないと思われる。
それならば、一体誰が……?
「晴輝。あなたが目が覚めているのは、呼吸と瞼の下の眼球運動からわかっている。早く起きてよ」
その声、その物言いは、やはり香純ちゃんだった。
恐るべき観察眼から、僕の意識の覚醒は既にバレているらしい。
抵抗する意味もない。観念して起きるとしよう。
「おはよう、香純ちゃん。なんで朝から……」
身体を起こして声の方角を向いたところで、途中で言葉が途絶えてしまった。脳内を戸惑いが支配している。
「え、香純、ちゃん?」
大人びたメイク。長く伸ばした髪を括って肩に垂らしている。紺色のジャケットにワイドパンツ。記憶よりも背が伸びているが、見た目だけでなく全体の雰囲気から落ち着きと余裕を感じさせる。
雲居香純にそっくりな大人の女性。
あるいは、大人になった雲居香純を目の当たりにしているようだった。
僕の反応を見た彼女は、微かに口元を綻ばせる。
「香純ちゃん、か。なるほど。貴方には“私”が雲居香純に見えているんだね」
「?」
彼女が何がおかしいのかがわからない。
いや、どこからどこまでおかしいのだろう。
この状況は一体何だ?
「貴方の混乱は至極真っ当だ。不明点は順を追って説明する。まずはスマホで日付を確認してごらん」
言われるがままに、僕は枕元にあるスマホに手を伸ばした。壁紙画面の一番目立つ位置にある現在時刻は5:54。その上にある日付は8月32日。
……見間違いか? 寝ぼけているのか?
しかし、何度目を凝らしても8月32日と表示されている。
「そう。“私”は今日という日の案内人。8月32日にようこそ、寺井晴輝くん」
「関心を煽るための情報の出し惜しみはしない。ちゃんとここで全てを教えるよ。まずは朝食にしよう」
そう言って、部屋を出て行く彼女の後を、僕はふらふらとついて行くしかなかった。
何となく察していたが、家の中には僕と彼女以外に誰もいない。それどころか、外にも人が誰もいないような気さえする。
階段を降りてダイニングに行くと、キッチンの方では彼女が手慣れた様子で朝食を作っていた。
「簡単なものだから過度な期待はしないでね。“私”は“私”以上のことはできないから」
そう言いながらも、彼女は手際良くトレイにお皿を並べてくれた。サラダにベーコンエッグトースト。ミルク少なめのホットカフェオレ。和食主体の母の朝食とは全く違うけれど、何故か親しみと食欲が湧いてくる。
「いただきます」
席について二人揃って食べ始めた。
「うま」
思った言葉がそのまま口をついて出た。カフェオレもコーヒーと牛乳の量が完全に僕好みだ。母以外に知らないはずなのだが。
「今の貴方にも気に入ってもらえて良かったよ。で、食べながらで良いから、説明の続きを聞いてもらえるかな?」
「え? あ、あぁ……」
我ながら呑気が過ぎる。特異な状況を早くも受け入れ始めている。
何より、目の前の彼女に早くも馴染み始めた自分自身がわからない。
コーヒーをひと口飲んでから、彼女は話し始めた。
「まずは8月32日について。ここは8月31日と9月1日の間にある異なる時空。
「元の時空に限りなく忠実だから、超自然な要素は何もない。
「強いて挙げるならば、貴方が察している通り、ここに貴方以外の人間は誰もいない。
「ここには選ばれた人間以外は入れないからね。
「選ばれる基準は、未来に期待と不安を併せ持っている人からランダムで。
「尤も、そのふたつがない人なんてほとんど居ないだろうけれどね。
「だから、宝くじの1等に当選したとでも思ってくれれば良い。
「ちなみに、8月32日も他の1日と同じく24時間だ。
「だから、安心して。この日は貴方を閉じ込めるためにあるんじゃない。
「8月32日という時空の目的は。
「貴方に気持ち良く9月1日を迎えてもらうことにあるのだから。
前の言葉通りに、彼女は訳の分からない状況を可能な限りわかりやすく説明してくれた。
少なくとも、僕にとって一応の納得ができる程度にはわかりやすかったと思うーーこれまでも超自然なイベントに巻き込まれてきた僕の感想なので世間的にはあまり参考にはならないかもしれないが。
しかし、彼女はまだ、僕が最初に抱いた疑問に対しての回答を出していない。
彼女自身のことだ。
「“私”のことだね。“私”は8月32日のガイドだ。異なる時空に連れて来られたら誰でも戸惑うに決まっている。故に、導く存在が必要になる。ただ、それ以外に役割を持たないから、“私”は固有のアイデンティティを持たない。“私”の存在は、訪れた人間の持つ“未来の象徴”を模ったものになる」
「“未来の象徴”って?」
「貴方が未来を想像した時に真っ先に思い浮かぶ人物のことだよ。それが“私”。15年後の雲居香純なのさ」
そうだったのか。意識的に考えたことはなかったから、無意識下で思い浮かべていたのだろうか。
昨日、優雨と香純ちゃんの話をしていた影響もあるのかもしれない。
……それにしても、香純ちゃんの15年後って、こんなに綺麗になるのか。
「貴方の望む姿ではあるが、残念ながらえっちな要望には応えられないよ」
カフェオレ吹いた。
「誰がするか! そんな要望!」
「えー、本当に? 思春期の少年が好みのお姉さんと世界でふたりきりになったらリビドーに身を任せてしまうものだとばかり思っていたのだが……」
「君は“しろ”と言ってるのか、“するな”と言ってるのか、どっちなんだ! というか、絶対にしないから!」
「ちなみに、“私”は本物の15年後の雲居香純の姿形だけでなく記憶や精神形態も忠実にコピーしている。貴方の受験後に、彼女がイイコトをしてくれたかどうかも知っているんだ。聞きたい?」
「結構です!」
彼女の申告通り、嫌になるほど香純ちゃんにそっくりだ。ただ、そっくりなだけでなく、こういう大人に成長し、そんな彼女が高校生の僕を前にしたらこういう振る舞いをするであろう想像が、容易にできてしまう。
彼女はケラケラ笑っていたのがようやく落ち着いたところで、
「かように“私”は未来の雲居香純のコピーであって、決して本物ではない。ただのガイドとして接してくれれば良いよ」
その笑みをシニカルに変えた。
「ええと、じゃあ、ガイドさん。僕はこれから32日で何をすれば良いんですか?」
僕が訊ねると、彼女はポケットから何かを取り出した。その手にあったのはクルマのスマートキーだった。
「“私”とドライブに出かけよう」




