3 シェフの秘密
その日は陽が落ちる前に解読を途中であきらめて帰宅した。大公にはイブの計らいで後日、謁見できることになった。
久しぶりの四人揃っての夕食は自宅で食べることにする。張り切るノアが料理をして、助手はエド。アーサーはソファで眼精疲労がひどいと天井を仰ぎ、ウィーンは食事ができるのを待つ間もずっと唯一持ち帰ったブルーローザの章を読んでいた。
「まったくお前は本の虫だな」
呆れたようにアーサーが吐息する。それもそのはず、今日だけで二十万字は読んでいる計算だ。それでもなおウィーンの読書は続く。
「そうだ、ウィーンは本のブイブイ虫だ!」
台所からノアの愉快そうに弾む声が聞こえた。
「ブイブイ虫ってなに?」
ウィーンは一瞬視線を本からあげる。
「さあ」
視線を下ろすと文字の続きを追った。
「ブルーローザはとても大きな浮遊性の水晶でできた大陸だって書いてるけれど、どこに浮かんでいるのかな。そんな物が世界の空に浮かんでいれば皆、気がつくと思うんだけれど」
「これもその本書いていることだけれど、厚い雲に隠れていてその道筋はボクしか知らない」
大皿を持ってきたノアがにやにや笑っている。さあ、机を開けて、と呼びかけた。
「どうやっていくの」
「前頭葉で念じるのさ、選ばれた子らを招きました、って。そしたらブルーローザへの道が開かれる」
「ふうん」
まるでおとぎ話の世界だとウィーンはページを捲った。
「さあ、久しぶりの家族そろっての食事だよ。ウィーン、本はもうおしまいだ。エド、エプロンを外して」
豪勢な料理が並び、もう一年前になる船での食事を思い出す。船内ではいつもこんな風に豪華だったのだ。長らく会っていないけれど幻獣や動物は船で仲良くしているだろうか。
アーサーがマッチをこすって燭台のロウソクに火を灯した。食欲をそそる食事を前にして誰かの腹が鳴る。
ノアは至極嬉しそうに手を組み合わせた。
「さあ、今日の日の再会に感謝しよう。神さまはずうっとずうっとボクたちを見てる」
「それって怖くね?」
世界を滅ぼすような神に始終見張られていたのでは気が休まらないだろう。
「そうだね、それもそうだ。いい直すよ。ボクたちは家族だ、お互いの人生に感謝しよう。ヒポポータマス」
「ヒポポータマス」
みんなで唱和して、思い思いの料理へ手を伸ばした。ウィーンもおいしそうなブルスケッタへと手を伸ばす。
「船の料理お前が作っていたのかよ」
ひと口食べるなりエドが思わず叫んだ。いわれてガリバルダ号と味付けが同じであることにウィーンも気づく。ふふんとノアは鼻を鳴らした。
「エドの舌は正確だ」
これほど美味なものを作れるのであれば、ノアは宮廷料理人になれる。それほどに奥行きがあり美味しい料理だった。
しばらくノアの料理に舌鼓を打ち、腹がいくらか膨れたところでアーサーが話しだした。
「ノア、この本を解読してその後のことを聞きたい」
「目的通りキミたちをブルーローザへと連れていくよ」
ノアはチーズのピンチョスに手を伸ばした。
「お前がもし、今もまだ神の使命に忠実でいようとするのならばおれたちにはおれたちなりの考えがある」
「と、いうと?」
「オレたちの旅はここで終わる。三年後に訪れる大洪水の事実を大公に告げて、国費をかけ、難を逃れる新たな方舟を建造してもらう」
くつくつとノアが可笑しそうに笑った。
「さよならってことかい」
「そうだ」
冗句をいうノアに対してアーサーは真面目な顔をしている。
「だからはっきり明言してほしい」
アーサーの真剣な言葉にノアもまたこれまでの旅で一度も見せなかった真剣な顔を見せた。
「お前はおれたちの味方だろ」
しばらくにらみ合うように互いを見つめていたが、ふっと表情を崩してノアは天井を仰いだ。
「五百年前、ヨハン、ディル、レニーに裏切りものと罵られたとき、ボクの心は決まったんだ。どんなことがあろうとも次は彼らを裏切らないとね。ボクは彼らの愛した大地を守りたい。彼らはもういないけれど、その約束はキミたちに組みすることで果たされると思っている」
ノアはすっと対面のアーサーに向かって手を伸ばした。
「シェイクハンドだよ。すべての挨拶はこれから始まるっていうだろう」
もしかするとこれは出来過ぎた演出かもしれないとさえウィーンは思う。この物語の神がいたならば、彼はノアと自分たちにほんとうの意味での試練を与えようとしている。
アーサーは黙って頷いて、ノアの骨ばった手をしっかりと握った。
「ボクはキミたちとともに世界の神へと抗うよ」




