4 古き約束
図書館訪問の数日後、イブの取次で大公にお目通りを願えることとなった。公邸に伺いたいと伝えたけれど、大公自らが忙しい公務の間を縫って図書館に出向いてくれるという。家臣にも内密にしたいのでその方がむしろ都合がいいのだそうだ。
今日は仲間外れにならぬようアーサーの婚約者のサラもきている。皆でノアの方舟伝説の続きを読みながらその時を待った。
一時読み更けり、こんこんとドアがノックされ入ってきたのは司書のエリーだった。彼女が扉を押しあけて部屋の中で恭しく礼をする。続いて重々しい様子で入ってきたのは上品な服を纏った白髪の老人だった。
イブの父というからもう少し若いと思っていたけれど、七十代くらいだろうか。どうやらイブは大公が年老いてできた子らしかった。
大公の後に続いてイブも入室し、彼女が扉をかちりと閉める。皆、席から立ってそのひと言を待った。大公は厳格な面持ちでじいっと面々を見ている。一見難しいような顔だが。どうやら大公はノアに目が止まった様子だった。
「青の燕尾服と揃いのズボン、大きなハットにピンクの羽、キャメルのブーツ。いい伝えどおりではあるが……」
大公はゆっくりと自身の記憶を手繰り寄せるようにいってノアに近づいた。ノアは上機嫌に一歩踏み出したかと思うとそのままひざまづいて恭しく礼をする。
「大公さま、御足労いただき感謝します」
手を胸元に寄せたノアに大公は問いかける。
「あなたがノアだという証拠はありますかな」
当然の疑問かもしれない。相手がノアを語る詐欺師という可能性は十分にあり得るのだ。その判断ミスで先祖代々、五百年も秘密裏に受け継いできたことをここで台無しにすることはできないのだから。
ノアがノアである証拠、とても難しいなとウィーンは考えた。だが、一拍置いて考えたノアは優雅に手をひっくり返す。大公の目前にぱっと鮮やかな青いバラが咲いた。
「青いバラ、ブルーローザです。夢があると思いませんか」
なんと余裕の対応なんだろう。ノアをノアと証明するのにそれ以上の振る舞いがあっただろうか。それを見て大公は眉尻を俄かにさげると涙ぐんだ様子だった。手を伸ばし感慨深げにうなづく。
「お会いしとうございました」
大公は両手で青いバラを丁寧に受け取った。
皆が着席して中央に腰かけた大公の語りから話が始まった。
「我々、大公家はノアの方舟に関する秘密をずっとこの五百年間守り抜いてきのです。近年の大衆演劇としたのはエリーのアイデアですが、それにわたしも同調した」
「過ぎた意見かとは思ったのですが」
遠慮がちにいうエリーに大公は微笑む。
「よい、それでこのような素晴らしい再会ができたのだから」
この謁見を大公は心から喜んでくれている様子だった。
「だが、喜んでばかりはいられない。あなたさまが目覚めたということは世界の滅亡が迫っているということを意味している」
「その通りです、陛下」
ノアの言葉に大公はふむ、と髭に触れた。
「本に書かれていない知識として、私が先祖から伝え聞いていることは、いくつかありますが、この場で触れなければならないことは一つでしょう。ノア、あなたとの最後の決別だ。祖先の兄弟は世界を救うためにあなた自身の命を望んだ。それを約束して神の御前に赴いたけれど、直前であなたに裏切られたのだと。その悲しみからあなたを傷つける強い言葉を吐いてしまったことを祖先たちはずっと悔いていたのです」
一瞬、ウィーンは大公のいっている意味が分からなかった。なんだろう、命の話をしているのか。震えが唇に伝わる。皆、沈黙していたがエドが恐る恐る口を開いた。
「命を望むってどういうことですか」
きっと言葉通りの意味だろう。皆もあまりの厳しい現実に沈痛な面持ちをしていた。
「ノア、私は祖先から世界がブルーローザの呪縛から解き放たれるにはあなたの命を奉げなければならなかったのだと聞いています」
目を見開き、時が止まったかのような感覚を覚えた。突きつけられた恐ろしい事実に涙がじわじわと滲んで喉の奥が焼ける心地がする。体中の血の気が引いて真実を拒絶している。当のノアを見ると目線を少しさげ微笑んでいた。
「大丈夫です、陛下。今度は逃げたりしません」
ノアがそう答えたこともまたウィーンを激高させた。
「そんなの! そんなことできるはずないじゃないか」
思わず声を張りあげると皆が驚いた顔をしていた。
「命を奉げるってなに? なにがなんだか分からないよ! そんなこと、そんなことをすればノアは……」
ぽろぽろと涙がこぼれてくる。ノアと過ごしたすべての時間が思い出の洪水となって頭中に押し寄せた。
「洪水から逃れる方法はただ一つ。天空都市ブルーローザを沈めなければならなかったのです。ブルーローザを沈めるのはあなたの命と引き換えだったのだと聞いています」
言葉に、はっとして顔をあげると泣いていたのはノアも同じだった。ぐすぐすと顔を汚して口は不自然に苦しく開かれている。
「ごめんね、ウィーン。ありがとう、嬉しいよ。でもボクはもう、自身の臆病な決断で大切な誰かを裏切ったり、辛い思いをさせたりするのは嫌なんだ」
ノアの揺れる言葉が突き刺さり心が痛かった。どれほど彼は切なかったのだろう。ウィーンはイスから立ちあがりノアに抱きしめた。ノアもまたウィーンを抱きしめ、背を撫でて優しく語りかける。
「あのときの約束をボクに果たさせてほしい。でないとボクはまたこの悲しみも孤独も忘れてまた眠りにつかなければならないのだから」
ウィーンはノアから手を放すと涙にぬれた瞳で皆に向かって呼びかけた。
「ノアを犠牲にするなんて間違っているよね、そうだよね。アーサー兄さん、エド兄さん」
縋る問いかけだったが、二人は首を縦には振らなかった。それが余計に悲しくてとめどなく涙がこぼれてくる。二人は故郷を襲う現実を見つめているのかもしれなかった。
「方法ないのかな……方法は」
そういってウィーンはイスに脱力するように座って机に突っ伏す。ノアは天を見あげていた。
「ウィーン、本を読んで。キミの大好きな本だ。キミは知恵の称号を持つセシルブリュネの王子だろう。そうすればこの悲しい物語の意味をキミはきっと理解する」
机に突っ伏したままウィーンは静かに泣きながらうなづいた。
「本はすべてあなたの手元に戻るのが正しいのだと思っています。どうか、旅にお持ちください」
「御協力感謝します」
アーサーが静かに答えた。
「さあ、物語の欠片はすべて手に入れたよ。それをもってボクたちは旅立たなくてはならない。この国には長い間、居すぎたのだと思うよ。大地が愛しくなるほどにね」
そう静かに語るとノアは己の想いを抱きしめるようにそっと目を閉じた。




