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アナタを殺す二十の方法  作者:
間宮日南が津軽蓮司に近づく十の方法
4/4

第四の方法「絶対振り向かないって分かってるから、ね」

 私のお姉ちゃんは、強くて明るくて優しい人だ。十歳以上離れていることもあってか、いつも一緒にいてくれたお姉ちゃんを、姉というよりもお母さんのように思っていた。勉強を教えてくれたり、お菓子を作ってくれたり、同年代の子と遊びたいはずなのに文句も言わず可愛がってくれるお姉ちゃんは、私にとって自慢の姉だ。友達に羨ましがられる度に、誇らしい気持ちになったものだ。お姉ちゃんが中学生になるまでしか一緒に遊んでもらえなかったけれど、お姉ちゃんがいて、お隣の寿也くんがいて、あの頃の私はこの世の誰よりも無敵であるとさえ思っていた。それくらい幸せな時間だった。

 お姉ちゃんは高校を出た後、あんなに頭が良かったのに短大に進学した。早く自立するためだと言っていた覚えがある。勉強はいつでも出来るから、先に手に職をつけたいのだと。そのために短大に進むのだと。社会人になったら家を出るから、そのときは日南も一緒においで、そう言って昔のように優しく私の頭を撫でてくれた。お姉ちゃんは私の憧れだった。

 そんなお姉ちゃんが、あるとき男の人を連れてきた。寿也くんよりも大人で、かっこよくて頭のいい人。お姉ちゃんがその人の横に並ぶと、本当に素敵な二人に見えた。キラキラ輝いて、私の大好きな絵画の世界のようだった。だからそのとき、私は思った。

 やっぱりお姉ちゃんは幸せになるべき人なんだ、と。



   第四の方法



 冷房のおかげで、冷えた空気が布に包まれていない肌に当たる。夏の外気は蒸し暑く、例え日が差していない場所であったとしても、じめりとして茹だって仕方がない。冷気を浴びている今でさえ少し汗を掻いているのだから、これで外に出るとなったら、倒れてしまうんじゃないかと思ってしまう。

 本日は、猛暑。


 「お姉(ニナ)ちゃん!帯の形綺麗になってる?!」


 今日は、念願の津軽くんとの夏祭りだ。


 「なってるなってる。それよりヒナ、髪の毛綺麗にする時間あるの?時間ないならお姉ちゃんがやってあげようか?」

 「ほんと?!私よりニナちゃんの方が上手いから、お願いしたい!」

 「いいよ。用意してくるから、ヒナは帯留め結んだり巾着の中身確認してなさい。」

 「分かったぁ、ありがとう。」


 お姉ちゃんの言葉を後に、机に置いていた巾着の紐を緩めた。

 今日は夏祭り。結局のところ四人で行くことになったのは私的に心強いが、流くんの悪質な交渉によって、学食の限定ランチのチケットを譲ることになってしまった。詐欺である。でも、これで津軽くんが来てくれると考えたら安いものなのかもしれない…。いやいや、あのチケットはタダでもらったものだったよね?

ニヤニヤと憎たらしい笑みを浮かべているであろう流くんから連絡が来た他、なんとなんと、麗しの津軽くんからもメッセージが来たのだ。内容は一文だけ、「迷惑だから迷子になるなよ。」と書いてあった。いつもの津軽くんらしい簡素で辛辣な言葉。だけどそこには、心配の文字が隠れている。明確にメッセージを感じ取った私は、それだけでも舞い上がってしまい、暫く微笑みながら部屋の中をぐるぐる回っていた。あの津軽くんが私の心配をしてくれてる。相変わらず、彼は優しい。


 「ほらヒナ、座って。編み込んで一つに纏めるやつでいいかな。」

 「うん。」

 「可愛くしてあげるね。」


 背中を押されて、足の低い机の近くに鎮座している、お気に入りの座椅子に座る。そのあとすぐに、「鏡の方に向いてね」と言われ鏡なんて置いていただろうかと疑問に思っていると、気づかないうちに机の上に三面鏡が置かれていた。しまった。急ぎ目に準備をしているのに、津軽くんを思い浮かべてニヤニヤしていた。少しトリップし過ぎたかな。

 珍しく家に居たお姉ちゃんに今日祭りに行くんだよと言ったら、たまたま休みだったらしく、じゃあ浴衣の着付けを手伝うと言ってくれて現在に至る。我が家は正月に着物を着る習慣があるので、基本的な着付けは慣れているものの、一人で着付けるとなると全体を見ることが出来ないため、若干不安に思っていた。お姉ちゃんはヘアアレンジも上手だから、今日がお休みでよかった。


 「今日は誰と行くのか聞いていい?」

 「もう聞いてるよ。えっとね、真理とクラスの人だよ。」

 「んふふ…ヒナ、お姉ちゃんが当ててあげようか。男の子と行くんでしょ!」

 「ニナちゃん、ヒナも当ててあげようか。真理に聞いたんだね。」

 「だぁい正解ィ。」


 やっぱり、そうだと思った。万里ちゃんと私の仲が良いように、真理もお姉ちゃんと仲が良い。四月からずっとそわそわしっぱなしの私を気にして、真理に何か聞いているのは確実だ。小さい頃から殊更可愛がられてきた自覚があるので、お姉ちゃんが普通の家庭の姉よりも過保護なことは分かっている。もちろん、そんなお姉ちゃんのことが私も大好きだ。


 「男の子は何人?」

 「二人だよ。真理とヒナと、男の子二人で行くの。」

 「ダブルデートね?!よし、お姉ちゃんがヒナを今よりもっと可愛くしてあげましょう。」


 お姉ちゃん、ダブルデートじゃないよ。そう言ったところでお姉ちゃんが聞いてくれるとは思えないので、あえてスルーして優しく私の髪を結うお姉ちゃんの手の動きを感じ、目を閉じた。

 

 「懐かしいね。ヒナが今よりもっと小さい頃、私がヒナの髪の毛を結ってあげてたな。初めの頃は下手だからぐちゃぐちゃになってたけど、ヒナがこれで行くんだって言ってくれててね。お姉ちゃん嬉しかったなぁ。ヒナ、覚えてる?」


 うん、覚えてるよ。だってお姉ちゃんは、小さい頃から私の大事な人だったから。


 「もちろん!私ね、ニナちゃんにポニーテールしてもらうのが一番好きだったの。時々結び目に三つ編み巻いてくれるのも好きだった。」

 「そういえば、よくポニーテールして!って言ってたね。何で?」


 お姉ちゃんのその言葉に、私は昔のことを思い出した。

 私の物心がついたとき、家族全員で海水浴に行く話が出た。当時の私にとって初めての海。可愛い水着やビーチサンダルを買ってもらって、ルンルンしていた。そのときの私は今よりも髪が長くて、毛先は肩甲骨辺りまで伸びていた。髪を結ぼうか、母がそう言ったとき、お姉ちゃんがやりたいと言ってくれたので代わりに結んでくれることになった。そのときしてくれたのがポニーテール。髪を纏めて上げるだけなのに、加減が分からなかったのか後頭部の髪は弛んで情けない状態だった。やっぱり代わろうかと聞く母やちゃんと直すと言うお姉ちゃんの言葉を押しのけて、私はこれがいいと言い張った。

 だってお姉ちゃんがやってくれたから。幾ら不恰好でも、それがとても嬉しかった。だからいつも、髪を結ってくれと強請り続けた。

 今でも初めての海水浴の記憶なんてなくて、お姉ちゃんが初めて結ってくれたことだけは鮮明に覚えている。


 「んふふ。秘密ぅ。」

 「えー、ヒナ教えてよー。お姉ちゃん知りたいなぁ。」

 「だぁめ。恥ずかしいから教えないもん。」

 「ヒナの照れ屋は変わらないねぇ。初めてトシくんと会ったときも、恥ずかしくて私の後ろに隠れてたし。さてはヒナ、お姉ちゃんのことが大好きだな?」


 違うよ、お姉ちゃん。恥ずかしくて隠れてたんじゃないの。ただね、びっくりしてたんだ。あんまりにも綺麗な光景に見惚れていただけなの。この世界にあんなに素敵なものがあるなんて、思いもしなかったの。お姉ちゃんがくれた宝物のビー玉よりも、もっともっと綺麗な。

 

 「うん。ヒナ、お姉ちゃんのこと大好きだよ。知らなかったの?」


 私が欲しいものだったから。


 「ううん、知ってるよ。ヒナはお姉ちゃんが一番好きだもんね。」


 そうだよ、お姉ちゃん。一番一番大切なのはね、とっくに決まっているの。


 「ほら出来た。可愛いヒナの完成。」


 何本かピンを刺して結った部分をムースで固めたあと、赤を基調としたちりめんの簪を一刺ししてお姉ちゃんは満足げに笑う。そして何かを思いついたのか結い終えた髪を前に後ろにとじっくり見て、徐に自分のスマホを取り出し私の髪形に向けてカメラを構え、何回かフラッシュを炊いた音がした。どうやら後ろの状態がわからない私のために、写真を撮って見せてくれようとしていたらしい。でもねお姉ちゃん、見せてくれた後にその写真を何らかのフォルダに入れた瞬間を私は目撃したからね。こんなところで血の繋がりを実感したくなかったよ。


 「やっぱり凄く可愛くできてる!ヒナだったら絶対こんな風に出来てなかったよ。さすがニナちゃん。」

 「おだてたってお小遣いは五百円しか渡さないからね。」

 「いいよ、ヒナお母さんから貰ってるお小遣いがあるし。」

 「ウソウソ、お姉ちゃんから千円あげるから楽しんでおいで。」


 ニナちゃん、千円じゃあ多くても三つくらいしか買えないよ。分かってるくせに、クスクスと笑いながら私を見つめる。私がお姉ちゃんからお小遣いを貰う気がないことも分かっているのに、そうやって茶化して無理やり渡そうとするんだから。


 「ヒナ、全部持った?」

 「うん大丈夫。」


 いつもと違った服装だからか、お姉ちゃんがエスコートしてくれている。着崩れしないように速すぎず遅すぎず、でもどこかゆっくりと玄関まで歩いていく。巾着は持ったし、扇子も持っている。巾着の中にスマホや小さめのお財布、それからハンカチとティッシュが入っていることも確認済みだ。念のため絆創膏だって数枚入れている。完璧だ。

 頭の中で持ち物を反芻していると、その横でお姉ちゃんは靴箱の奥深くに仕舞われている赤い紐の下駄を取り出して、地面に置いた。そして、下駄を履くときにバランスを取りやすいようにと私に手を差し出した。お姉ちゃんの好意をくすぐったく思いながらも受け取り、左手をお姉ちゃんの手に置く。


 「じゃあこれを履いて行こうね。真理ちゃん、待ってるんでしょう?」

 「うん。学校の近くで待ち合わせなの。」

 「気を付けていってきてね。お土産は焼きそばでいいよ。」

 「はあい。」


 思えば、物心がついた時からお姉ちゃんは多忙な人で、私はそんなお姉ちゃんに遠慮して一緒に夏祭りに行ってと言えなかった。だってお姉ちゃんは毎年夏祭りに行ったりしなかった。私が生まれていなかった頃は、きっと行っていたのだろう。お姉ちゃんの友達からちら、と聞いたことがある。お姉ちゃんはある日を境にお祭りに行かなくなったらしい。誘っても頑なに行かないと言い張ったと。それを最初に聞いたとき、私が小さかったせいだと思っていた。いつだってお姉ちゃんは私を優先してくれた。楽しいときも、嫌な気分のときも、風邪を引いたときだって。誰もいない家で、私が一人で寂しい思いをしないようにとずっと手を繋いでくれていた。正直なところ、それが何よりも嬉しいことであると同時に、自分の嫌なところだったりもする。


 「…ニナちゃんわたあめは食べない?」

 「わたあめはもういいよ。前から思ってたけどヒナ、お姉ちゃんの大好物がわたあめだと思ってるでしょ。」

 「ち、違うもん!わたあめは特別な日にしか出てこないからニナちゃんにあげたいなって思ってるだけ!」

 「いいの。ヒナが買ってきてくれることが特別なの。だからたくさんはいらないよ。」


 この言葉からすると、小さな私がお祭りに行くたびに色々な屋台のものを買って帰ってきていたことを思い出したのだろう。いつの頃からか毎年違うものを一つ選んでから送り出してくれるようになった。少ないお小遣いで自分のものも買わず、お姉ちゃんに買ってばかりなことを分かっていたんだと思う。だからいつも、お祭りから帰ってお土産を渡したとき、「ヒナも一緒に食べようね」と声をかけてくれていた。本当はお姉ちゃんとお祭りに行きたかったんだ、と言えないまま今に至っている。

 お姉ちゃんのお仕事も落ち着いてきているらしいので、そろそろ素直になってみようかな。


 「あのね、ニナちゃん。ヒナ、────。」


 そのとき、閉まっていたはずの玄関が目の前で開いた。突然の事態に、頭の中が真っ白になる。なんで。いつも帰ってくるのが遅いくせに、何でこういうときだけ早く帰ってくるの。


 「ただいま…あら。西奈と日南じゃない。珍しいね。」

 「おかえり、お母さん。ヒナはこれから友達とお祭りに行くんだって。」


 お姉ちゃんの言葉に、機嫌の良かった表情が段々と怪訝な顔つきになる母。そんな母を目の前にして、硬直状態のまま。何も言わない私を見た母がまた、何かを言うために唇を動かした。きっとそれは良くないことだ。真っ白な頭でもこれだけは分かった。


 「友達…?まさか日南…男と行くんじゃないでしょうね。」

 「お母さん、何言ってるの。」

 「日南、ちゃんと返事をしなさい。」

 「ちょっとやめてよお母さん!日南は友達と約束してるって言ったじゃない。」

 「西奈は黙ってなさい。日南に聞いてるの。」


 母の左手が私の右肩にギチリ、と食い込む。お姉ちゃんは私を庇うように、母と私の間に入った。そして、私はそんなお姉ちゃんを言葉を出すのも忘れるほど、唖然とした気分で見つめていた。

 母とお姉ちゃんが言い争っている。私は未だに、声を出すことができなかった。母はいつもそうだ。自分の理想に沿うことが叶わないと、どんな結果になろうとも無理を通してしまおうとする。いつまで経ってもお嬢様気分が抜けないから、父にだって呆れられてしまって。だからと言って、私は同情したりなんかしない。


 「…今更何なの?」


 きっと、このときの私は震えていた。それでも私の胸からこみ上げてくるものが、泣いてしまうことを許さなかった。だから、一切の力を掌に込めて、ぎゅうっと力強く握ってしまったのだろう。


 「あなたは、お姉ちゃんのときだってお姉ちゃんを傷つけた!私達のことを顧みてると言いながら自分たちのことしか考えてないじゃないっ。」

 「日南、」


 だってお姉ちゃん、泣いてたじゃない。

 目を見開いて、お姉ちゃんが私を見た。傷つけたのかもしれない。その事実に、ぐっと歯を食いしばる。


 「…別に、そういうのじゃないから。あなたが考えているようなことは起こらない。……今更そうやって母親面するのやめてよね。」

 「ま、待ちなさい日南!まだ話は終わってないわ!」


 話すことなんてない。今までだって話なんてしてこなかったじゃない。母から背を向けて、下駄を履いた。そんな私を母は止めようとするも、今度はお姉ちゃんが母を止めたようで、母はこれ以上私に何かを言うことはなかった。小さく息を吸って、お姉ちゃんに向けるための笑顔を作る。

 これ以上お姉ちゃんを傷つけたくない。


 「じゃあニナちゃん、行ってくるね。二十二時までには帰るから。」

 「うん、気を付けてね。」


 いつものように朗らかに笑うお姉ちゃんに笑顔を向けたまま、玄関をぱたりと閉める。少し前まで楽しい気分でいたのに、もう心はどんよりだ。いまの私の心の中に今日これから起こる楽しくて色鮮やかな話は一つもなかった。



 私はいつも願っていた。あの人が幸せになればいいのに、と。

 それ以外のどんな幸福も私はいらないのに、と。胸から喉の奥へと嫌なものがせりあがっていく感覚がする。喉も瞼も焼けてしまいそうだ。頭の中がぐちゃぐちゃになって叫び出してしまいそうで、下駄を履いたまま行き先も考えず走り出した。消えてしまいたかった。青の中に溶け込んで、いっそのこと孤独になってしまいたかった。私が欲張りになったからこんなことになったんだ。全部、自業自得だ。こんなの望んだこと、なかったのに。


 「っ、おい間宮…間宮?」


 どうしてだろう。彼の声がする。目の前の光景なんて無かったことにしたい私の脳味噌が、現実を見ることを激しく拒否する。

 がむしゃらに走ったせいで、親指の付け根が痛い。きっと足の裏側は靴擦れのように水膨れが出来て悲惨なことになっているだろう。でも今の私にはそんなこと関係なかった。消えてしまいたかった。どこか遠くへ行ってしまいたかった。そんな私の心を見透かすように、彼が私の腕を掴んで、私の突飛な行動を止めた。 やめてよ。何で。あなたのせいなのに。

 あなたが私に優しくするから、私がこんな風になったんじゃない。


 「…っ、つ、がるくんのせいなのにっ。」

 「…うん。」

 「津軽くんが悪いのに…!」


 どんなに悪態を吐いても、理不尽に詰る私を彼は責めなかった。それどころかもがいて逃げ出そうとする私を、ふわりと両腕で包んで、その広くて熱い彼の胸へと、私が落ち着くまで閉じ込めたままだった。


 

 熱気のこもったゆるやかな風さえ届かない。彼の胸に閉じ込められたままの私の顔は、きっと涙でぐちゃぐちゃだ。せっかく綺麗にしたのにやっぱり私はどこか格好がつかない。ふ、と力が抜けて彼の胸に耳を預けてみると、とくり、とくりと一定の速さを保った心音が聞こえてくる。泣きすぎて、瞼と喉が熱い。密着しているせいで、彼の熱がじりじりと私へと移っていく。ああ、なんでだろう。暑くて熱くてぐらぐらする。

 不意に、ごつごつとした大きな手が、私の後頭部をさらりと撫でた。


 「落ち着いたか?」

 「…うん。」


 何度も何度も一定のリズムで、まとめた髪を崩さないようにやんわりと撫で付ける。津軽くんはズルいんだ。こうやって甘やかす癖に、結局は私のことなんて見向きもしないんだから。期待させておいて、舞い上がった瞬間すぐに現実を突きつけてくる。私が夢を見る瞬間なんてないんだと、分かりきっていたことを白日の下に曝して。そうやって、私がいずれ傷ついてしまう可能性を消してくれるなんて。

 分かっていた。本当に、とても優しい人だってことを。そんな優しい人の無意識の甘さに付け込んで、水の底にズルズルと彼の優しさを引き落として私と言う錘をつけたことは、誰にだってわかる最悪な行為だ。いまだってそう。どうしても縋ってしまう私を、彼なら躊躇なく振り払ってくれるとわかっている。だからまた、彼の優しさを出汁にしようと狡い言葉を発してしまう。

 何て汚い口だ。だけど、やめられない。


 「…やっぱり津軽くんは優しいね。だから私が勘違いしちゃうんだよ。」

 「あっそ。」

 「ふふ…でも大丈夫。私ね、分かってるんだ。津軽くんが、絶対振り向かないって分かってるから、ね。」


 私の涙で少し湿った彼のTシャツ。心の中でふふふ、と笑って彼の腕から離れるためにゆっくりとその胸板を押し返そうとした。


 「…馬鹿じゃねぇの。」

 「うん。馬鹿なの。」


 彼が、離れようとする私の両手を右手で掴む。そして突然その手を引っ張ったかと思えば、左手で私の頭を抱き込み、もう一度腕の中に囲ってしまう。

 息を呑んだのはほんの一瞬だった。


 「アンタは本当、馬鹿だよ。」


 触れたら壊れてしまうような、溶けてなくなってしまうかのような扱いに、心の内で酷く動揺する。何で彼は、私の頬に手を置いているの。なんで私は、彼の声に反応して顔を上げてしまったの。そのせいで彼の目から顔を背けることが出来ない。

 意味不明な私のことなんて少しも気にもしないで、あの青いビー玉のような瞳が暗闇で光って、私を捉えてしまうから。また彼に魅入られてしまう。


 そのときの私は、情けなくも彼が私の手を引いて歩くまで、口は愚か指の一本すら動かすことが出来なかった。後にも先にも、彼の、津軽蓮司のこの言葉が私達の関係の流れを変えたのだということに関しては、きっと私は予期出来なかっただろう。

 ゆっくりと告げられた言葉は、私の大好きなお菓子のように甘い薫りを放った。


 「俺がアンタを好きになるように、俺をアンタのところまで落とせばいい。なあ、間宮?」


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