地を這う獣は戦場に降り立つ 1
ふわりと浮くような感覚のあと、ぐんっと腹の底が引っ張られる。
この世界で二度目の転移。
慣れる日なんて来るのかな。
体感だけでいうなら、ジェットコースターで急降下した時みたいに、腹の底をぐっと持っていかれる感じ。
それに眩暈みたいな視界の揺れが加わるんだから、やっぱり私は慣れたくない。
……うん、慣れたくないなぁ。
ヴィストのマントの中でぎゅうっと目を閉じていた私は、彼の足が地面についた気配に、そろそろと瞼を開けた。
「着いたぞ」
低い声と共に、視界を覆っていた布が吹き抜ける風で少し持ち上がる。
最初に目に飛び込んできたのは、石畳の道だった。
ところどころひび割れて、雑草が生えている。
その向こうには木造の家々が並び、小さな店らしき建物の軒先には、色褪せた看板がぶら下がっていた。
町、だ。
そう思った瞬間、背筋を何かが這った。
静かすぎる。
風は吹いているのに、人の声がしない。
窓は閉じたまま、扉も閉ざされたまま。
なのに、ずっと昔に捨てられた廃墟って感じじゃない。
軒先には干されたままの布が揺れていて、店先の木箱には、しなびた果実がいくつか転がったままだった。
ついさっきまで誰かが暮らしていたみたいな気配だけが、町のあちこちにへばりついている。
日本とは少しだけ造りが違うけれど、映画とかで見たような外国の街並みに似てる気がする。
「……町はずれ?」
「ああ。中心からは少し外れている」
ヴィストの胸元あたりを見たまま問いかけると、短く返事が落ちてくる。
よし、まだ顔は見てない。
見てないったら見てない。
銀色の髪が視界の端で揺れてるけど、あれはノーカウント。
こんな時だけど、銀髪が綺麗って一瞬思っちゃったけど、ノーカウントだ。
「……何だ、その妙な顔は」
「妙な顔なんて、してないわ」
「している」
「してないってば」
いや、してるかもしれないけど。
でも仕方ないじゃない。
人型ヴィストの顔を見ないようにするって、思ったより大変なのよね。
だって、狼頭だった時はあれだけ遠慮なく触ったり頬ずりしたりしてたのに、人間顔になった途端、もし思ってた感じと違ったらどうするの。
あのもふもふの格好良さからの、ちょっと残念な人間顔だった時の私の気持ち、誰が責任取ってくれるのよ。
いや自分なんだけど。
そんな最低すぎる理由で、相変わらず私はヴェールをかぶったまま、ヴィストの前にいるわけだけど。
結果として、自分の表情も隠せるし、周囲からは意味深で余裕ありげに見えてる……気がする。
うん、きっとそう。
そう思わないとやってられない。
今はもう少しだけ、私のわがままに付き合ってね……。
ごめんね、ヴィスト……。
そう小さく謝ろうと思った時だった。
「匂う」
ヴィストが私を抱える腕に少しだけ力を込めた。
「……え?匂うって、何が?」
「血と、魔の気配だ」
その言葉に、きゅっと喉が縮んだ。
言われてみれば、乾いた風の中に混じって、鉄みたいな匂いが鼻をかすめた。
遠くの方では、木の板が風に揺られて、からん、と寂しい音を立てている。
町の入口近くに立つ井戸のそばには、倒れた桶。
その少し先、半開きの扉の下から、赤黒い染みが細く石畳へ伸びていた。
うわ、見たくない。
見たくないのに、見ちゃう。
ホラー映画で「行っちゃだめ!」って言いたくなるところに限って、何故か目がいくあれだ。
「……ヴィスト」
「何だ」
「私……実は怖いの苦手なの」
「……は?」
ヴィストが、間の抜けた声を出した。
いや、確かにね?ずっとサキュバスキャラで、うふふ、あははみたいにやってたけどさ。
ガチなのはちょっと本気で怖いって事、そろそろ伝えておいた方がいいかと思って!
これ絶対、そこかしこで人が死んでる気配するんだもの!
「お前な……」
「だって、私達って快楽主義者!夢の中がメインなのよ?戦闘なんて基本的に無縁なの!」
どうよ!この理由!
咄嗟に出てきたサキュバス設定とはいえ、あってるはず!
ヴィストの頭をすがりつくように抱きしめながら、守ってねアピールを改めてしておく。
私の腕のあたりに、ヴィストの深いため息がかすめた。
「ああ、わかった。お前に着いていくと決めたのも、お前を守ると決めたのも俺だ。お前が目を閉じている間に、全て終わらせる事も出来る」
……ふわーっ!ちょっと私のヴィスト恰好良すぎない!?
ヴィストが強いらしいのは、魔界での戦いやラテ達の言葉からなんとなくわかっていたけれど、改めて言葉にされると素敵!
ありがとうありがとう、私と出会ってくれて本当にありがとう…っ!
なんて、おバカな事を考えながらヴィストの腕の中で悶えてる間に、彼がどんどんと歩を進めていく。
元が狼だし、においで魔族がいる方向とかわかるのかな?
「下りるか」
「え」
ぽん、と軽く言われて瞬きをする。
「このままだと動きづらい。お前を庇うにも限度がある」
「う……」
それを言われると弱い。
確かに、いつまでも片手抱っこされたままではヴィストだって戦いにくいだろう。
渋々頷くと、彼はゆっくりと私を地面に下ろした。
足裏に伝わる石畳の硬さ。
途端に、自分の足でここに立ってしまった実感が増して、背筋が寒くなる。
ヴィストのマントの裾をこっそり指先で掴みながら、私は辺りを見回した。
通りの先には、二階建ての家が並んでいる。
どれも壊れきってはいない。
だけど、よく見れば窓枠には爪で引っ掻いたみたいな跡がいくつも残り、白かったはずの壁には黒い染みがこびりついていた。
それに、一軒だけじゃない。
あっちにも。
こっちにも。
まるで、じわじわと何かに蝕まれたみたいに、同じような痕が町じゅうに広がっている。
「……ねえ、これって」
「人間同士の争いではないな」
短く言い切るヴィストの声が、いつもより少し低い。
遊んでる時や、私の相手をしてる時とは違う、完全に戦う側の声だ。
その時、ふと視界の端で何かが揺れた。
「っ!」
びくっと肩を震わせて振り向けば、風に煽られた洗濯物が揺れていただけだった。
白い布がひらひらとはためいて、もう誰も戻らない家を勝手に飾っている。
心臓に悪い。
ものすごく悪い。
でも、その布の下に置かれた小さな木靴や、戸口に立てかけられたままのほうきなんかが目に入ると、余計に嫌だった。
本当に、ついさっきまで人がいたみたいで。
「……これ、もともと普通の町だったのよね」
「当たり前だ」
「だよね」
当たり前の返事に、当たり前の相槌しか返せない。
でも、それが逆に怖い。
魔界みたいに最初から異世界丸出しなら、多少覚悟もできる。
けれどここは違う。
人の暮らしの上に、そのまま何かおぞましいものが重なっている。
浸食。
そんな言葉が、ふいに頭をよぎった。
少しずつ、ゆっくりと、気づかれないように。
気が付いた時には、もう元には戻れないところまで入り込んでしまうような、そんな感じ。
「ヴィスト、ラテ達ってちゃんと来られるのよね?」
「ああ」
「……すぐ?」
「さあな」
「そこは、すぐ来るって言ってほしいところなんだけど」
むっとして見上げかけて、慌てて視線を止める。
危ない危ない。
今、普通に顔を見そうになった。
「……お前、本当に俺の顔を見ないな」
「気のせいよ」
「気のせいではない」
「今はそういう時じゃないでしょう」
「ほう」
鼻で笑われた気がする。
くっ、腹立つ。
「何よ」
「別に」
「絶対何か思ってる顔した」
「見ていないのに、どうしてわかる」
「うっ」
その返しはずるい。
反論できないじゃないの。
ぐぬぬ、とヴェールの下で口を尖らせたところで、ヴィストがふいに私の肩を引き寄せた。
ぐらっと体が傾いて、そのまま彼の胸元にぶつかる。
「ちょっ」
「黙れ」
叱るような低い声に、反射的に口をつぐむ。
次の瞬間。
さっきまで私が立っていた場所を、黒い影がものすごい速さで通り過ぎた。
「ひっ……!」
短い悲鳴が喉からこぼれる。
石畳を削る爪の音。
地面に擦れる、ぬめった何かの音。
それは通りの反対側の壁にぶつかり、ぐしゃりと嫌な音を立てて止まった。
息を止めたままそちらを見る。
最初は、大きな犬みたいに見えた。
でも違う。
毛並みはところどころ抜け落ちて、剥き出しになった皮膚は黒ずみ、口元は異様に裂けている。
しかも目がない。
あるはずの場所が、ただ黒く窪んでいた。
ホラーゲームで散々見たやつうっ!!!
「な、なにあれ……」
「魔物だ」
簡潔すぎる答えに、いや見ればわかるわよと思ったけれど、そんなツッコミを入れる余裕はなかった。
その魔物が、ぐるりと首をねじる。
目がないくせに、確かにこちらを見た気がした。
しかも、それ一体じゃない。
家々の隙間。
井戸の陰。
開きかけた扉の向こう。
いつの間にか、ぬるりとした気配がいくつも集まり始めている。
「え、ちょっと待って。多くない?」
「少なくはないな」
「その冷静さどうなの!?」
叫んだ私の声に反応したのか、目の前の一体がぐぱぁっと口を開いた。
その奥で、ありえないほど長い舌がずるりと垂れる。
うわ、無理。
無理無理無理。
もふもふは好きだけど、ああいうのは違う。
違うったら違う。
反射的にヴィストの腕にしがみつくと、彼が前へ一歩出た。
「下がっていろ」
「でも」
「お前を守ると言った」
短いその言葉に、胸がどきっと跳ねる。
いやいやいや、今はときめいてる場合じゃないでしょう私。
場を考えないと。
なのに心臓は言うことを聞いてくれない。
困る。
すごく困る。
「……ちゃんと、守ってよね」
「言われるまでもない」
低く返したその声と同時に、ヴィストの魔力がぶわっと膨れ上がるのを感じた。
まあ、魔力っていまいちよくわかってないけど、こう何かぶわってきたのよ。
……空気が変わる。
ぞくりと肌が粟立つほど濃い、圧。
さっきまでただの銀髪の人……いや人じゃないけど、とにかく抱っこしてくれる相手だったヴィストが、一瞬で『獣』になる。
その気配に、前へ出かけていた魔物達がびくりと動きを止めた。
けれど、逃げない。
むしろ、何かを待つみたいにじりじりと距離を詰めてくる。
変だ。
知性なんてなさそうなのに、ただ飛びかかってくるわけじゃない。
まるで、後ろに誰かいるみたいに。
そう思った時だった。
通りの奥。
黒い影が濃く落ちた路地の向こうから、かつ、かつ、と硬い靴音が響く。
魔物達が、ぴたりと動きを止めた。
ぞわっと、背筋の奥を冷たいものが這い上がった。
通りの奥から姿を現した青い肌を持つ男ツェーザレは、以前と変わらぬ優雅な笑みを浮かべていた。
こんな町はずれの、血の匂いが残る石畳の上だというのに、まるで夜会にでも招かれたみたいな顔をしている。
「……ああ、お会いしたかったですよ。ユーア、そしてジーヴィスト」
穏やかで、歓迎すら感じさせる声音。
以前はコスプレ会場の運営さんだと思っていたけれど、魔族とわかってしまった今はひたすら怖い。
ヴィストの腕にしがみついたまま、私は思わず一歩だけ後ろへ下がった。
それを見て、ツェーザレの金色の瞳が愉しそうに細められる。
「そんなに警戒なさらなくても。私はただ、こうして再びお会いできた事を喜んでいるだけです」
「寝言は寝て言え」
ヴィストが低く吐き捨てる。
その声に、周囲の魔物達がびくりと肩を揺らした。
けれどツェーザレだけは、まるで気にした様子もなく、口元に指先を添えて小さく笑った。
「相変わらず短気ですね。折角の再会だというのに」
「貴様と語る事など無い」
「私はありますよ。特に、ユーアとは」
ぴくり、とヴィストの気配が変わる。
その変化すら面白がるみたいに、ツェーザレは私の方へと視線を向けた。
私は反射的にヴィストの背へ半分隠れながら、でも完全に隠れるのは負けた気がして、ヴェール越しにじっと見返す。
「……何」
「いえ。本当に面白い方だと思いまして」
「全然嬉しくないんだけど」
「でしょうね」
くすり、とツェーザレが笑う。
にこやかなまま、全然油断ならない。
「魔界から逃れただけでも驚きでしたのに、今度は自らこちらへいらっしゃる。あなたは本当に、私の予想を少しだけ越えてくる」
「別に、あんたに会いに来たわけじゃないわ」
「ええ、もちろん存じています」
そう言って、ツェーザレは楽しそうに目を細めた。
「ですが、こちらとしては歓迎したくもなるというもの。あなたは場をかき回して下さる」
「それって、褒めてる?」
「さあ、どうでしょう」
にこやかなまま、やっぱり答えになっていない。
この感じ、本当嫌だ。
私がヴェールの下で眉をひそめていると、ツェーザレの視線がするりと周囲をなぞった。
干されたままの布。閉ざされた扉。赤黒い染みの残る石畳。
それら全てを見ているはずなのに、その目に憐れみは欠片もない。
「この町も、ようやく馴染んできたところだったのですよ」
「……馴染む?」
「ええ。人の暮らしというのは面白い。少しずつ綻びを広げていっても、当人達は案外気づかないものですから」
その言葉に、ぞっとした。
少しずつ。
ゆっくりと。
さっき頭に浮かんだ『浸食』という言葉が、そのまま形になって聞こえた気がした。
「だから、ラテ達を魔界に引きずり込んだの?」
「おや」
ツェーザレがわずかに目を瞬く。
「随分と率直ですね、ユーア。嫌いではありません」
「答えて」
「ラテとは…あの矮小な国の王子の名前でしたか。あれが少々余計なものをご覧になったのは事実です。けれど、僥倖でしたね。まさか王子自ら魔界へ来て下さるとは、流石に思っておりませんでしたから」
その言い方。
本当に、拾い物でもしたみたいに言う。
「貴様……」
「そんなに怒らないで下さい、ジーヴィスト。今回はあなたにも感謝しているのですよ」
「何だと」
「まさか、こうして自ら餌場へ戻ってきて下さるとは思いませんでしたから」
その瞬間、ヴィストの魔力がどくんと脈打つみたいに膨れ上がった。
空気が震える。
石畳の隙間の砂が、びり、と小さく跳ねた。
私は反射的に彼の腕を掴む。
「ヴィスト……!」
けれどツェーザレは、そんな怒気すら愉快そうに見つめていた。
「安心して下さい。私は今日は、あなた方を止めに来たわけではありません」
「なら何をしに来た」
「ご挨拶ですよ。久しぶりに地上へ出ましたので」
絶対嘘だ。
少なくとも、挨拶だけで済ませる顔じゃない。
そう思った時、ツェーザレがまた一歩こちらへ近付いた。
魔物達が左右に退き、その道を開ける。
「それに、ユーア」
名前を呼ばれて、肩がびくりと揺れる。
「あなたがここで、何を壊すのか。少し興味がありましてね」
「!?」
……私が、壊す?
何言ってるの、こいつは……!




