下界で遊戯 6
きらっきらしたラテの視線に耐えられず、ヴェールを下げた。
結構な精神的ダメージに目を閉じて、小さく溜息を吐き出す。
純粋系王子様のラテにはこれ以上サキュバスとしてここにいる私が何を言っても、彼は肯定するような気がする。それはとにかく良くない。
彼の後方でジュレやクーヘンが怒っているのが、見なくてもわかる。
彼らにとっては、私の言い分は人を惑わせようとしている甘い罠としか思えないだろうし、それに従う主君の態度と言葉に信じられないと驚愕すると共に、私への怒りが増すという負のスパイラルが生まれているんじゃないだろうか。
下手に人間として私の考えは出さない方がいいのかもしれない。
そう疲れた気持ちで目を開ければ、ヴェールを下ろした視界にラテの薄い口元が見えた。
全部こいつのこの口が悪いんじゃないの?
考えるより先に、手が動いていたっていうのかな。
ラテの引き締まった頬の輪郭をなぞり、薄い唇に人指し指を滑らす。
疲れた思考と狭まった視界の中で触れるそこは柔らかく、触り心地が良い。
驚きにラテが小さく唇を開いたせいで出来た隙間に、指先が入ってしまって自分でも、あ、と思ったけれど口から出たのは普段の自分からは信じられないような言葉だった。
「ラテ、いい子だから少し黙っていてね」
疲れるから。
という正直な気持ちは飲み込んで、指先に当たった歯列を衝動のままになぞる。
現実感の無い狭い視界の中で、綺麗な歯をしてるなぁなんて思っていると、は、と指先に熱く湿った吐息を感じた。
その直後。
ぐいっと横から腕を引かれて、一気に現実が押し寄せてきた。
「いたっ」
ぎりっと力任せに捕まれた腕が痛んで思わず声を上げると、捕まれた腕は離されたけれど、隣からぐるぐると怒りに喉を震わせる声が聞こえる。
いや待って待って……今私何してたー!
ラテの口に指つっこんでたー!
速攻で自己完結しちゃったけど、私一体何やってんの。
顔が見えないせいで、つい大胆な行動を取っちゃったけど、完全痴女の部類じゃないだろうか。
いや、サキュバスとしての行動と思えば、有りか無しかだったら、完全有りのセーフだろうけど、人としてはアウト。
でもここでの私はサキュバスなんだから、やっぱりセーフか。よ、よし。
なんとか気持ちを立て直しながら、さりげなくラテを伺うと、彼は口元に手を当てたままふらりと立ち上がり、元いたソファに座り込んだ。
「ラテイシェル、何をされた」
「な、何も、いや……私の事は気にせず、リィギン、その、話を頼む……」
ジュレとクーヘンの立ち位置からは、どうやら私の奇行は見られなかったらしい。
怪訝な空気を醸し出す二人の視線がこちらにそそがれるのがわかったけれど、私は素知らぬ振りを通すことに決めた。
隣でいまだにヴィストが喉を鳴らしているけれど、こっちも無視だ。今はそれしかない。
「……ラテイシェル様に何をしたのですか。何か良からぬ術を」
「そんな事私がするわけないでしょ。後でラテに確かめたら?」
むすっと顔を背けて、ラテに丸投げする。
けれどそのラテは口に手を当てたまま、もごもごと何かつぶやいたかと思うと、そのあとは無言を貫き通してしまい、結局彼を除いて話を進めることになった。
私自身に気を取られやすいラテが黙ると、その後の話はスムーズに進んだ。
私からの希望は衣食住の提供と外出許可。流石にここにずっといるのは気づまりだし、何より私はこの世界の情報が欲しい。
外出には必ず監視役として人をつける事で承諾となった。ちなみに、監視をまかない、殺さない、誘惑しないと約束させられた。そんな事しないって……!
それで、向こうからは何もないかというと、やっぱりあるよね。
普通に考えて、魔族の力は脅威だし、特に私の背後に立つ銀狼の力は相当らしい。
それを使役出来るかもしれない絶好の機会を逃すわけにはいかないというやつだ。
元々、ラテ達は隣国への視察訪問の際に、その国に張り巡らされた罠に引っかかって、魔界へと拉致されたらしい。
生還したからには、それを放っておくわけにはいかないわけだ。
利用出来るものは、利用しないとね!
ちなみに私に関しては、今魔女のせいで力を失っているから、全く役に立たない事を頭に入れておくようにと話しておいた。
怪訝な顔をされたけど、普通の人間(異世界)を隠してるだけなので、ごめんなさい。
またもや魔族溢れる場所に行くのは、気分的には拒否したいところだけど、ラテ達が心配といえば心配だ。それに彼らのいない王城にいて、もしも彼らが戻って来なかったらと思うと……うん、一緒に行こう。
そんなわけで私の方は承諾したけれど、ここでヴィストが難色を示した。
人間なんかの下について、力を振るうなんて御免だと言うかと思ったら違うみたいで、理由を話そうとしない。
というか、ずっと機嫌が悪い。
もしかして私のラテへの行動のせいで、いまだに不貞腐れているようだと気付いて、ぽりぽりと頬をかいてしまった。
えーと、これは……
話し合いは難航してしまい(とにかくヴィストが口を聞いてくれない)陽も落ちてしまっている事から、三人は部屋を去ったけれど、ヴィストの説得を任されたのは言うまでもない。
ちなみにヴィストの部屋は、隣の部屋なのだけれど、当たり前のように彼が移動する事はなかった。
「ヴィスト、まだ怒っているの?」
人型から、また律儀に人狼の姿に戻ったヴィストに尋ねる。
彼はベッドの端に座り、腕を組んで不機嫌さを隠そうともしていない。
私はというと途中めんどくさくなって、彼を無視して、顔を洗ったりお嬢様ワンピースから、いつでも眠れるようにと、ベビードール型ネグリジェへ着替えていた。
もしかして、新たに運ばれた衣装箱の中を嬉々として漁っていたのが、更にまずかったのか。
いやでも、むっすりと話そうとしない相手に対して、いつまでも話しかけるのもあれじゃない?
だから、夜も更けてきた事だしいつでも眠れるように、やれることからやっておこうと思ったんだけど。
ベッドの上で、足をマッサージしながら、こちらに背を向けているヴィストを見つめる。
まあ、でも部屋から出て行かないで、私のそばにいるってところが可愛いよね。
忠犬みたいで。
なんて思っている事が知れたら、たぶん今度こそ激怒して部屋を出ていくだろう。
この世界で生活するにあたって、ヴィストの存在はかなり重要な気がする。
魔族も、人間界の王族までも一目置く存在だし、力も強くて頼りがいがある。
魔界に居た時も、何かしら私を気にかけてくれていたし、彼の人型の姿を見る事に不安を示している私への配慮を必ずしてくれる。
女性としての扱いはかなり雑ではあるけれど。
理由はわからないけど、とにかく相当気に入られているのは確かだ。
ラテ達に着いて行くと承諾した時も、ヴィストがいるならなんとかなるだろうと微かに思ったことも否定できない。
どうやったら機嫌を直してくれるかしら。
マッサージを終えて疲れた手をぷらぷらしながら、ヴィストの広い背中を見つめた。
ふと、その背中にマッサージしたらどうだろうかという考えが浮かぶ。
人にとってマッサージ嫌いな人は滅多にいないように、動物にだってマッサージは気持ちいいんだよって友達から聞いた事がある。
ご機嫌取りにやってみよう。うん。
「ヴィスト」
ずりずりとベッドの上を移動し、ぽすんと彼の背中に抱き付いた。
まずは動物を安心させる事からだっけ?
いまいち覚えてないので、とりあえずくっついて、後ろから狼の顔を覗き込む。
蒼の目がちらりとこちらにそそがれたので、にっこりと笑いかけた。
「マッサージしてあげる」
「……マッサージ?」
「そう。今私が自分にやってたようなの。力抜いててね」
言って、彼の肩を両手でもみこんだ。
ふっくらとした銀の毛に覆われている肩だけど、手に感じる骨格は人間に似ていると思う。
こっているかどうかまではわからないけど、とても硬い。
肩から背中に流れて、また肩にあがる。身体が大きくて硬いせいで、結構疲れる。いやこれは結構どころじゃすまない。
でもヴィストの機嫌を取らないと……!
その気持ちの一心で指を動かし、首や耳の付け根あたりを優しくほぐすように指の腹でもみこんだ。
目を閉じてされるがままになっている狼の顔は、気持ちよさそうにも見えるけど、どうなんだろう。
「ヴィスト、気持ちいい?」
「……ん? ああ…こんな事は初めてだが、悪くない」
「そっか。でもい……狼よりも人型の方がいいかな? そっちの方が自分と比較してこの辺りが気持ちいいかなとかわかるし」
危ない危ない、あやうく犬って言いそうになってしまった。
本当は狼だし、機嫌取るはずが逆に怒らせるところだった。
「ヴィスト、ちょっとベッドに横になって、人型になって」
ぐいぐい腕を引っ張りながら、ベッドに寝させようとする私に、ヴィストが困惑する。
「お前、俺の人型は苦手なんじゃないのか」
「うん。まだ見る勇気は無いわよ。だから、うつぶせになって欲しいの」
「…………」
「それに苦手っていうより、今の姿と獣型が好み過ぎて、人型にもつい過剰な期待を捨てきれないから、違ったら怖いってところ?」
「……お前は本当に、勝手な奴だな」
私の発言に疲れたように、ヴィストはどさっとベッドに倒れこんだ。
正直な気持ちだからこの際言っておいた方がいいかなと思ったんだけどダメだったのか。
人狼の大きな体躯を、結構な腕の疲れをともなってもみほぐしたのに、まさかのここで失敗?
目の上に片腕を乗せて、はあっとわざとらしく溜息を吐くヴィストににじりよって、上から彼を見下ろした。
「怒ったの?」
問いかけながら、短い毛で覆われた顎下をなでた。
ヴィストが片腕を少しずらして、細めた目でこちらを見つめくる。
ん? と首をかしげながら、ここの毛もなかなか癖になる感触だなって思ったりしてたら、ふわっと欠伸が出てしまった。
動物って癒し効果凄い。
「……眠いのか?」
「んー、さすがにね。でも今はヴィストの機嫌を取らないと」
一度眠さを自覚すると、眠気って一気に強くなる気がする。
そんな時にヴィストの低くて優しい声音で問いかけられて、素直に本音を答えてしまったら、くくっと喉で笑われた。
ヴィストを撫でていた手を引っ張られて、私の身体は簡単に彼の上にぽすんと転がってしまう。
「お前は本当に最初から意想外で、わけがわからん。言動も行動も全て」
「……うーん?」
ヴィストだって何を言いたいのかさっぱりわからないけど。
でもとりあえず、声音はさっきからずっと優しいので、どうやら怒りは収まっているようだ。
ほっとしたら、もう一度欠伸が出た。
そんな私の姿を見て、ヴィストがまた低く喉を震わせて笑う。
銀色の毛がさざ波うつ様が、綺麗だなと眠気と戦いながら目を瞬かせて見つめていると、ぽんっと頭に手を置かれた。
「寝るか」
言ってヴィストが顔に当てていた腕を上げると、ふっと部屋の明りが消えた。
室内が真っ暗に変わり、明りを消すために起きなくていいのは楽でいいなぁとかぼんやりした頭で考える。
でも流石に掛布は勝手に動いてくれないので、なんとか最後の力を振り絞って足元にたたまれていた掛布を引っ張っりあげ、肩までずり上げた。
布団にくるまれると、眠気と安心感がまた一気に押し寄せてくる。
もぞりとヴィストが動いてふわふわの毛が頬に当たったので、自分からもすり寄って、一番寝やすい位置を探した。
「そうだ、ヴィスト、隣の国一緒に行ってくれる?」
「……ああ、だが」
「良かった……おやすみ、ヴィスト」
「…………」
たった一日で、いろんな事があり過ぎた私は、暗くなったら本当に一瞬で眠ってしまったようだった。
ヴィストが大きな溜息をついたようだったり、指先がなんだかくすぐったかったような気がするけれど、たぶん気のせいだろう。