第7話:隠れ家と黒き羊皮紙
遠征への出発を明日に控えた夜。里全体が独特の緊張感と熱気に包まれていた。
鍛錬場では遅くまで松明が焚かれ、遠征隊に選ばれた者たちが武具を研ぎ澄ましている。
その喧騒から遠く離れた里の南端。
イグニスは岩の割れ目にある二畳ほどの「潜伏地」の中に立っていた。
湿った壁面、転がる薬草の袋。
周囲に人の気配がないことを手足の皮膚で確かめると、イグニスは壁の凹凸に指を掛けた。
特定の順番で岩の起伏を加圧する。
無音で岩壁がわずかに滑り、奥へと続く暗い隙間が現れた。
イグニスは身を滑り込ませ、内側から岩壁を戻す。
そこは、里の誰も存在を知らない隠し研究室だった。
無煙脂肪の蝋燭が、冷ややかな光で室内を照らし出す。
カビ臭い外とは異なり、ここには乾燥薬草とアルコール、そしてかすかな血の匂いが充満していた。
壁一面には、無数の手書きの羊皮紙が隙間なく貼り付けられている。
人体の骨格、血管、神経の走行を緻密に描き落とした解剖図。
かつて黒嶺の里で「卑怯な外道術」として焼却され、途絶えたはずの古代外傷医術――「還生録」の復元図だった。
イグニスは作業台に歩み寄り、棚から一本の透明な小瓶を取り出した。
瓶の中には、粘度の高い褐色の液体が満ちている。
ただの毒ではない。
人体の運動神経を一時的に麻痺させ、痛覚を遮断するための薬調合。
過剰に投与すれば心臓を止める殺傷の毒となり、極小量であれば激痛で動けない兵の身体を強引に動かす術薬となる。
「……また少し、沈殿が早いな」
イグニスは瓶を光にかざし、液体の混ざり具合を観察した。
幼い頃、兄たちの圧倒的な武才を見上げるしかなかった自分が、泥の中で見つけた唯一の領域。
人体の構造を誰よりも深く知り、その継ぎ目と弱点を正確に把握すること。
長男アルスの正面突破も、次男ルシアンの華やかな魔導も、それ単体では完璧だ。
だが、人間である以上、肉体には必ず限界が訪れる。
王国の汚い陰謀、そして最深部に潜む災厄級の魔物。
正々堂々とした武術だけでは防ぎきれない「理不尽」が襲いかかった時、最後の一線を越えて彼らを生かし直すのは、この暗がりで培った外道の知恵だけだった。
イグニスはタレ目を細め、細い針を使って薬液の度合いを微調整していく。
誰に褒められる必要もない。
腰抜けと罵られ、陰に隠れる無能と見下されて結構だった。
明日から始まる遠征。
王国の企みがどのような形であれ、自分が泥を被ればいい。
調合を終えた小瓶を革袋へ厳重に収めると、イグニスは無煙蝋燭の火を吹き消した。
再び訪れた暗黒の中で、静かな殺気と生存への執念だけが、確かに息づいていた。




