第1話「星のない夜」
【序】
その女は、泣きながら笑っていた。
「ほら、ここ。読んでみて」
差し出された古い手帳には、俺の名前と、俺の知らない俺のことが、びっしりと書き込まれていた。
『リゲル、今日も無愛想』
『リゲル、報告書の字が上手くなった。褒めたら嫌な顔をした』
『リゲル、蜜菓子を半分食べた。おいしいとは言わなかったけど、二口で食べた』
……誰だ。
これを書いたお前は――俺の隣で笑っているお前は、誰だ。
喉まで出かかった問いを、俺は呑み込んだ。訊いてしまえば、この女のどこかが壊れる気がした。名前も、声の記憶もないのに、胸の奥でひとつだけ軋むものがある。
守らなければならない。
誰を、なぜ。それはもう思い出せないのに、その衝動だけが、骨に灼きついて残っていた。
――俺は、敵を狩るたびに強くなる。
そして、そのたびに、俺は俺を忘れていく。
母の顔。故郷の冬。師の声。そして、たったひとつの、幼い日の約束。
これは最強に至る階段を上りながら、大切なものを一段ずつ置き忘れていった男が――最後の最後に、その約束だけを取り戻すまでの物語だ。
◇
夜明け前の空には、星がなかった。
厚い雲が村の上に蓋をしていて、月も、星も、何ひとつ見えない。早起きした家畜の鳴き声のみが、眠ったままのアーロイ村に響いていた。
「……ねえ、リゲル。ほんとに振り返らないんだ」
隣に座るニラが、呆れたように言った。膝の上には旅嚢がひとつ。栗色の髪を寒さよけの布で包んで、白い息を吐いている。
「振り返っても、暗くて何も見えない」
「そういうことじゃなくて」
分かっている。分かった上で、俺は振り返らなかった。一度でも村を見てしまえば、足が鈍る気がした。
十五になった。村の男は十五で猟を継ぐか、畑を継ぐか、外へ出るかを決める。俺は三つ目を選んだ。
「見て見て。これ、昨日届いたの」
ニラが懐から紙を取り出して、俺の鼻先に突きつけた。暗くて読めない、と言う前に本人が読み上げる。
「『ヴェルデ冒険者ギルド支部、受付職への採用を通知する』……! すごくない? 私、ちゃんと就職して行くんだから。誰かさんみたいに、当てもなく冒険者になりに行くのとは違うの」
「当てはある」
「へえ。どんな?」
一番上まで行く。
そう言いかけて、やめた。口にすれば笑われる。星鉄級──冒険者の最高位。辺境の村育ちの、剣も魔法もまともに習っていない小僧が目指すには、あまりに遠い。
「……秘密だ」
「なにそれ」
ニラは頬を膨らませて、それから小さく笑った。この幼馴染は、俺が答えないことに慣れている。
腰の短刀に、そっと手を置いた。
昨夜、村外れの小屋で、師匠──ベテルのじいさんがくれたものだ。狩人の使う、飾り気のない山刀。刃だけは異様なほどよく研がれていた。
『餞別だ。持っていけ』
『……じいさんの形見みたいで嫌だ』
『似たようなもんさ。わしはもう、遠からず星に還る』
じいさんはそう言って、赤く濁った目で笑った。老いた狩人の冗談は、いつも笑えない。
『リゲル。街では、才のあるなしをうるさく言われるだろう。だがな、狩りに才はいらん。要るのは、獲物より一日長く待つ執念だけだ。──わしが教えたことを、忘れるな』
『……忘れるわけがないだろ』
『どうかな。人はよく忘れる生き物だ』
じいさんは火の消えかけた炉に薪を一本足して、それから、小屋の窓の外──雲に塞がれた夜空を顎で示した。
『晴れていれば、今頃は巨人の星座が出ている。冬の空の王だ。右手に赤い星、左足に青い星を持つ。……お前の名は、その青い方から取られた』
『知ってる。母さんが付けたんだろ』
『そうだ。青い星は若く、激しく燃える。その分、燃え尽きるのも早いと言われている』
じいさんは炉の火を見たまま、独り言のように付け足した。
『だがな、忘れるなリゲル、燃やし方は選べる。急ぐなよ。』
忘れない。忘れるはずがない。
俺に生き方をくれたのは、あの偏屈な老狩人だけだった。
◇
街道を三日。
初日の夜は農家の納屋を借り、二日目は隊商の焚き火に混ぜてもらった。ニラは焚き火の輪の中であっという間に商人の女房たちと打ち解けて、村では見たことのない菓子を分けてもらっていた。俺は輪の外で、暗い街道に耳を立てる係だった。
「リゲルも食べなよ。堅焼きの蜜菓子だって」
「見張りの口に甘いものは要らない」
「はいはい」
そう言いながら、ニラは菓子を半分に割って、勝手に俺の手に押しつけた。歩き通しの体に、蜜の甘さは正直、染みた。
……こういうやつなのだ、昔から。
辺境都市ヴェルデが見えたのは、四日目の昼だった。
「わ……」
ニラが声を上げた。無理もない。灰色の城壁が地平を横に塞ぎ、その中央に、巨大な門が口を開けている。門の前には荷馬車と人の列。俺たちの村が丸ごと十は入りそうな街だ。
街の名物は、城壁の内側にあるという迷宮――通称〈灰の大穴〉。地の底から湧く魔物と素材が、この街の全てを回している。冒険者は毎日そこへ潜り、稼ぎ、そして。
列に並んでいると、門の内側から一台の荷車が出てきた。
引いているのは僧衣の男。荷台には、粗布を被せられた細長い荷が四つ、並んでいる。布の端から、泥に汚れた革のブーツが覗いていた。
ニラが息を呑んで、俺の袖を掴んだ。
「今日は四人か」
前に並んでいた行商人が、慣れた調子で呟く。
「多いんですか」
訊くと、行商人は肩をすくめた。
「少ない方さ。大穴は毎日腹を空かせてる。兄ちゃんも冒険者志望かい? ……悪いことは言わねえ、荷運びの仕事の方が長生きできるぜ」
荷車が、目の前を通り過ぎていく。
車輪の音。揺れる四つの膨らみ。誰かの息子で、誰かの友で、昨日までは飯を食って笑っていたかもしれない、四人。
門の衛兵は荷車を一目も見なかった。列に並ぶ人々も、話を途切れさせることすらしない。子供が一人、母親の袖を引いて荷台を指さし、母親は子供の手を軽く叩いて前を向かせた。それで終わりだった。
この街では、あれは天気の話と同じなのだ。
ニラの手が、袖を掴んだまま震えていた。
「……リゲル」
「大丈夫だ」
何が大丈夫なのか、自分でも分からないまま、俺はそう言った。ただ、ここで怯んだ顔を見せたら、こいつはきっと一生心配し続ける。それだけは避けたかった。
命が安い街だ。
分かって来た。分かって、選んだんだ。
◇
門を抜けてから、ニラはしばらく黙っていた。
大通りの雑踏を並んで歩きながら、やがてぽつりと言った。
「ねえ。……なんで冒険者なの。今さらだけど」
「今さらだな」
「はぐらかさないの。畑でも、狩人でもよかったでしょ。じいさんの跡を継げば、村で一番の狩人だよ、リゲルは」
なんで、か。
理由なら、ある。ずっと前から、ひとつだけ。ただそれは、口に出して伝えるようなものではない──そもそも当のこいつが、覚えているかどうかも怪しい、子供の頃のたった一言だ。
「……強くなる必要が、あるからだ」
「なにそれ。誰と戦うの」
「決めてない」
ニラは「変なの」と笑って、それきり追及しなかった。
冒険者ギルドのヴェルデ支部は、街の大通りに面した石造りの建物だった。
扉を開けた途端、酒と汗と血の匂いが混ざって押し寄せる。昼だというのに酒場は半分埋まり、壁の依頼掲示板の前には人だかりができていた。
そして正面の壁、受付の真上。
天井近くに、金属の板が階段状に打ちつけられている。銅、鉄、銀――上に行くほど数が減り、一番上の段には、黒鉄色の板がたった三枚。
星鉄級。
この大陸に十数人しかいないという、頂の証。
「……あそこか」
呟きは、喧騒に紛れて誰にも届かなかった。届かなくていい。これは誓いであって、宣言ではない。
「登録の方は、こちらへどうぞー」
受付の女性に手招きされる。ニラは職員用の入り口を案内されて、別れ際に振り返り、口の動きだけで「がんばれ」と言った。
カウンターの前に立つ。
「冒険者登録ですね。お名前は?」
「リゲル。アーロイ村から来た」
「リゲルさん、と。……あら、いいお名前。冬の星の名ですね」
受付嬢は書類に羽根ペンを走らせ、それから、水晶の嵌まった小さな台座をカウンターに置いた。
「では最初に、適性検査を行います」
はじめまして!あおあおと申します。
今日から,「継承者は忘れていく」投稿させていただきます!
右も左もわからない若輩者ですが,ご支援よろしくお願いいたします!
毎日投稿(21:00~23:00)目指して頑張っていきます。




