第6話 揺れない人、揺れる人
人は、揺れないものに触れると、自分の揺れに気づく。
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あすかはそのことを、八月の入口で理解し始めていた。
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八月初旬。
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夏は最も濃い形になっている。
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夜でも空気は重く、外に出るだけで疲れるような季節だった。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「暑いね」
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あすかは小さくうなずく。
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「はい」
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それだけだった。
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席に座る。
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グラスが置かれる。
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今日は冷たさが強い。
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その冷たさは、意図的に作られた距離のようだった。
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悠真は来ない。
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それはもう、説明ではなく環境になっている。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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しばらくして扉が開く。
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カラン。
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朝比奈 恒一だった。
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彼は軽く会釈する。
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「こんばんは」
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あすかも返す。
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「こんばんは」
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それ以上はない。
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しかし今日は、少しだけ空気が違っていた。
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朝比奈は席に座ると、すぐには動かなかった。
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グラスにも手をつけない。
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ただ一度、店内をゆっくり見渡す。
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そして言う。
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「ここ、変わらないですね」
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マスターが軽くうなずく。
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「変わらないようにしてるからね」
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あすかはその会話を聞いている。
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だが、どこか遠い。
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“変わらない”という言葉が、
今の自分には少しだけ重かった。
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朝比奈はようやくグラスに手を伸ばす。
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その動作は静かで、無駄がない。
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あすかは気づく。
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この人は揺れない。
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何かを失っているようにも見えないし、
何かを強く求めてもいない。
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ただそこにいる。
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その在り方が、逆に不思議だった。
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時間が流れる。
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朝比奈はほとんど話さない。
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ただ、時々短く言葉を落とすだけだ。
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「夜は静かですね」
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あすかは少しだけ考える。
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「そうですね」
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それだけ。
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会話は続かない。
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しかし、沈黙は壊れない。
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やがて朝比奈がふと視線を上げる。
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あすかを見る。
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今度は、少しだけ長い。
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「ここにいると、考えなくていい感じがします」
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あすかはその言葉に、すぐ答えられない。
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考えなくていい。
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それは、逃避ではなく機能として語られているようだった。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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あすかは小さく息を吐く。
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「考えないでいられる場所は、少ないかもしれません」
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それだけだった。
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朝比奈は小さくうなずく。
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「そうですね」
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会話はそこで終わる。
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だが、以前よりも“終わり方が自然”だった。
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やがて朝比奈は席を立つ。
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「失礼します」
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軽く会釈する。
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扉へ向かう。
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カラン。
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音はいつも通りだった。
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しかし、あすかはその後に気づく。
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今日は少しだけ違う。
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揺れていない人と、
揺れている自分が、
同じ時間の中にいた。
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その差は、会話では埋まらない。
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あすかはグラスを見つめる。
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悠真はいない。
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その事実はもう変わらない。
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そしてその空白の中に、
揺れないものが少しずつ増えている。
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夏はまだ続いている。
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(第7章 第7話へ続く)




