第2話 距離のはじまり
距離というものは、目に見えないまま始まる。
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ある日突然離れるのではなく、
気づいた時には、もう少し前から開いている。
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あすかはそれを、次の日から実感することになった。
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三月の終わり。
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春の空気は確かに混ざっているのに、
朝はまだ少しだけ冷たい。
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その温度差が、今の心とよく似ていた。
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「人生の交差点」
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夜。
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扉を開ける。
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カラン。
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マスターは軽くうなずく。
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「昨日は大丈夫だった?」
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あすかは少しだけ間を置く。
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「大丈夫、というより」
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「まだ実感がないです」
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マスターはそれ以上聞かない。
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グラスが置かれる。
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今日は少しだけ軽い味だった。
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でもその軽さは、安らぎではない。
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空白に近い軽さだった。
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悠真は来ない。
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今日は“会う日”ではない。
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それがもう決まっていることだった。
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その事実が、静かに重い。
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あすかはスマートフォンを一度見る。
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何も来ていない。
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それだけで十分だった。
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「連絡がない」という状態が、
これほど静かなものだとは思わなかった。
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マスターは何も言わない。
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ただグラスを拭いている。
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その音が少しだけ大きく聞こえる。
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あすかは視線を落とす。
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距離。
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それは物理的なものではない。
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しかし確実に存在している。
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昨日からではない。
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もっと前から。
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それでも、今になってはっきり見えるようになっただけだ。
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扉は開かない。
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誰も来ない夜。
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あすかは一人で座っている。
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その状態は初めてではない。
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しかし今日は違う。
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“誰も来ない”ことが意味を持っている。
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時間がゆっくり過ぎる。
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グラスの中の液体だけが少しずつ減っていく。
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それ以外はほとんど動かない。
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やがて店を出る時間になる。
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マスターは何も言わない。
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ただ軽くうなずくだけ。
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外に出る。
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春の風が少しだけ暖かい。
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でも心は冷たいままだった。
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駅までの道を歩く。
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いつもと同じ道。
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でも今日は少しだけ長く感じる。
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距離が伸びているわけではない。
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ただ、ひとりで歩いているという事実が重い。
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あすかは思う。
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距離は、時間と一緒にできていく。
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そして壊れる時も、
一気ではないのかもしれない。
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駅に着く。
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ホームには人がいる。
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日常の音が戻ってくる。
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それでも、自分の中だけが少しだけ遅れている。
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電車が来る。
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光が近づく。
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その瞬間、あすかは気づく。
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これは別れではない。
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まだ何も終わっていない。
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ただ、位置が変わっただけだ。
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しかしその“だけ”が、
思っていたよりも大きい。
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電車に乗る。
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扉が閉まる。
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カランという音はない。
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代わりに無音の圧がある。
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あすかは窓の外を見る。
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春の街は変わらずそこにある。
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でも、もう同じ距離では見えない。
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スマートフォンが一度だけ震える。
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見ない。
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見なくても分かる。
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それは「また連絡する」という種類のものだ。
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あすかは思う。
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距離は始まった。
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でもまだ終わりではない。
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ただ形が変わっただけ。
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それだけが、今の現実だった。
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(第6章 第3話へ続く)




