第8話 戻れない温度
戻れないものは、失われたものとは違う。
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そこに確かに存在していたのに、
もう同じ形では再現できないもの。
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あすかは最近、それをはっきり感じていた。
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二月中旬。
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冬の冷たさの中に、わずかな緩みが混じり始めていた。
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日が伸びるのも少しだけ早くなっている。
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それでも夜はまだ長い。
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「人生の交差点」
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夜。
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あすかはいつもの席に座っていた。
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カラン。
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扉が開く。
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マスターは軽くうなずく。
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「今日は少し疲れてる?」
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あすかは少しだけ間を置く。
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「そう見えますか」
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「見えるね」
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短く、それだけ。
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グラスが置かれる。
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今日はいつもより少しだけ深い味だった。
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静かな重さのある味。
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悠真はまだ来ていない。
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遅れる連絡はあった。
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そのこと自体はもう揺れない。
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でも、心のどこかで小さな違和感がある。
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“当たり前”になりすぎていること。
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扉が開く。
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カラン。
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悠真だった。
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「遅れた」
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「大丈夫です」
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座る。
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沈黙。
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でも今日は少し違う。
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その沈黙に、わずかな距離がある。
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悠真が言う。
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「最近さ」
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あすかは顔を上げる。
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「前より、ちゃんと分かってるはずなのに、遠く感じる時ある」
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その言葉に、あすかは息を止める。
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否定できない。
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むしろ、自分も同じだった。
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近いのに遠い。
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以前とは逆の感覚。
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あすかは静かに言う。
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「たぶん、分かろうとしすぎなくなったからかもしれないです」
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悠真は少しだけ笑う。
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「それ、どうなんだろうな」
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その笑いには答えがなかった。
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マスターは何も言わない。
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ただ静かにグラスを拭く。
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帰り道。
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冬の夜は乾いている。
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二人は並んで歩く。
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距離は変わらない。
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でも、その距離の意味が変わっていた。
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悠真が言う。
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「最初の頃ってさ」
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あすかは横を見る。
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「もっと、全部が強かったよな」
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あすかは少しだけうなずく。
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「強かったですね」
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感情も、
言葉も、
不安も。
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今はそれが弱くなっている。
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そのことが少し怖い。
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駅が見える。
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別れ際。
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以前より短い沈黙。
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でも、そこに確かに何かがある。
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悠真が言う。
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「これでいいのか、分からなくなるな」
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あすかはすぐに答えない。
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少し考えてから言う。
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「戻れないんだと思います」
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少し間。
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「でも、悪いこととも限らないです」
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悠真は小さくうなずく。
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「そうかもな」
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改札を抜ける背中。
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その背中はもう迷っていない。
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でも、温度も以前とは違う。
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あすかは思う。
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戻れないということは、
終わったということではない。
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ただ、別の場所に来ただけだ。
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冬の夜は静かに続く。
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そして二人の関係は、
形を変えながら進んでいた。
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第5章 第9話へ続く




