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あすかの幸せについて  作者: こうた
第2章 はじまりの気配を感じる春

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第1話 春の匂いと、知らない感情

三月の風は、冬を完全には終わらせない。


冷たい空気の奥に、ほんの少しだけ柔らかさが混ざる。


その曖昧さが、あすかは嫌いじゃなかった。



---


駅前の花壇には、小さな花が植え替えられている。


コンビニでは春限定の商品が並び始め、街の色が少しだけ明るくなる。


人は気づかないうちに季節に影響される。


最近のあすかは、それを強く感じていた。



---


朝、鏡を見る。


以前より表情が柔らかい。


会社の同僚にも「最近機嫌いいですね」と言われるようになった。


自分では分からない。


でも、確かに夜の終わり方が変わった。



---


「人生の交差点」


その場所が、自分の日常の一部になっている。


最初は逃げ場所だった。


今は少し違う。


そこへ行くことで、自分がちゃんと“今日を終えられる”感覚がある。



---


仕事を終えたあと、あすかはいつもの道を歩く。


最近は、店へ向かう時間が一日の中で一番静かだった。


誰かに急かされない。


何かを求められない。


ただ、自分の足音だけを聞ける時間。



---


路地へ入る。


見慣れた灯り。


扉を開ける。


カラン。



---


「いらっしゃい、あすかさん」


マスターの声。


その瞬間、胸の奥に小さな安心が灯る。



---


席に座る。


今日は少し客が多かった。


笑い声もある。


けれど不思議と騒がしくない。


この店では、誰も他人の空気を壊さない。



---


「今日は暖かいね」


マスターが言う。


「春っぽいですね」


「春は、人の気持ちが動く」



---


あすかは少し笑う。


「そんな季節で変わります?」


「変わるよ。別れも増えるし、始まりも増える」



---


始まり。


その言葉が、妙に耳に残る。



---


グラスが置かれる。


今日は少し軽い味だった。


「あ、いつもと違う」


「春仕様」


「そんな適当なんですか」


「だいたい雰囲気」



---


あすかは笑う。


最近、この店では自然に笑っている。


それがまだ少し不思議だった。



---


扉が開く。


カラン。


入ってきたのは、一人の男性だった。


年齢は三十前後だろうか。


黒いコートを着て、少し疲れた顔をしている。


けれど、その目だけは妙に静かだった。



---


男性は軽く会釈して、カウンターへ座る。


あすかから二席離れた場所。


マスターが声をかける。


「久しぶり」


「少し忙しくて」


落ち着いた声だった。



---


あすかは何気なく視線を向ける。


男性は気づかない。


いや、気づいていて気づかないふりをしているようにも見えた。



---


「珍しいですね、マスターが知り合い感出すの」


あすかが言う。


マスターは少し笑った。


「長い客だからね」



---


男性がこちらを見る。


「あ、どうも」


軽く頭を下げる。


その自然さに、あすかは少し戸惑う。


「……どうも」



---


短い会話。


それだけ。


なのに、なぜか少し空気が変わった気がした。



---


男性は静かに酒を飲んでいる。


無理に会話へ入ってこない。


でも完全に壁を作っているわけでもない。


不思議な距離感だった。



---


「最近、少し顔変わりましたね」


突然、男性が言った。


あすかは驚く。


「え?」


「前より、柔らかい感じする」



---


心臓が小さく跳ねた。


初対面に近い相手から、そんなことを言われると思わなかった。



---


「見てたんですか?」


少し冗談っぽく返す。


男性は苦笑する。


「この店、なんとなく人の変化見えるから」



---


マスターは黙ってグラスを磨いている。


その沈黙が妙に意味深だった。



---


「ここ、長いんですか?」


あすかは男性に聞く。


「たまに来るくらい。でも、戻ってきちゃう」


その言い方に、少し共感した。



---


戻ってきてしまう場所。


それは安心なのか、依存なのか。


まだ分からない。



---


「名前、聞いてもいいですか」


気づけば、あすかはそう言っていた。


男性は少し驚いた顔をする。


そして静かに笑った。


「悠真です」



---


悠真。


その名前が、なぜか耳に残った。



---


「私は、あすかです」


「知ってる。マスターが呼んでたから」



---


その瞬間、少し恥ずかしくなる。


でも嫌ではなかった。



---


会話はそれほど続かなかった。


でも、沈黙が苦にならない。


その感覚が不思議だった。



---


帰り際。


悠真が先に立ち上がる。


「じゃあ、お先に」


「あ、お疲れさまです」



---


扉が閉まる。


カラン。


その音のあと、店が少し静かになった気がした。



---


「知り合いなんですか?」


あすかが聞く。


マスターは少し考える。


「この店で知り合った人」



---


その答えが、この店らしかった。



---


「いい人そうですね」


ぽつりと出た言葉。


マスターは小さく笑う。


「気になる?」



---


あすかはすぐに否定できなかった。



---


胸の奥が、少しだけ落ち着かない。


でも嫌な感覚ではない。


むしろ、長い間止まっていた何かが、静かに動き出したような感覚だった。



---


店を出る。


春の夜風が吹く。


冬ほど冷たくない。



---


あすかは歩きながら、自分の心の変化を感じていた。


誰かの声を待つ夜。


誰かの名前が残る帰り道。


そんなものが、また人生に戻ってくるなんて思っていなかった。



---


春は、人の気持ちを動かす。


その意味を、あすかはまだ知らないまま、少しずつ季節の中へ踏み込んでいった。

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