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あすかの幸せについて  作者: こうた
第1章 温もりを得た冬

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第10話 温もりを知った夜

冬の終わりが近づいていた。


まだ寒い。


けれど風の奥に、わずかに違う匂いが混ざり始めている。


季節が変わる前の空気。


街はそれに気づかないまま動いている。



---


あすかは会社帰りの歩道を歩きながら、自分の変化について考えていた。


最近、夜が少しだけ短い。


前は帰宅してからの時間が苦痛だった。


テレビをつけても頭に入らない。

スマホを見ても誰とも繋がっていない。

静かな部屋の中で、自分だけ取り残されている感覚。


それが今は少し違う。


“夜に行ける場所”がある。


それだけで、一日の終わりの形が変わっていた。



---


路地へ入る。


見慣れた灯り。


「人生の交差点」


あすかは立ち止まらず、扉を開けた。


カラン。



---


「いらっしゃい、あすかさん」


その声に、自然と肩の力が抜ける。


もう驚かない。


でも、嬉しいとは思う。



---


席に座る。


最近は、カウンターのこの位置が自分の場所みたいに感じる瞬間がある。


危ないな、と少し思う。


人は安心できる場所を見つけると、そこに心を預け始める。



---


「今日は静かですね」


店内には客が二人だけだった。


マスターはうなずく。


「こういう日もある」



---


グラスが置かれる。


今日は透明に近い酒だった。


光を受けて、少しだけ揺れている。



---


「最初に来た日のこと、覚えてますか」


あすかは聞く。


マスターは少し笑った。


「寒そうな顔してた」



---


あすかも笑う。


「そんなに分かりやすかったですか」


「外の寒さじゃない感じだった」



---


その言葉に、あすかは視線を落とした。


確かに、あの頃の自分は冷えていた。


仕事。

人間関係。

未来。


全部に大きな問題があるわけじゃない。


でも、何にも触れられていない感覚があった。



---


「私、ずっと“平気な人”でいようとしてたんだと思います」


自然に言葉が出る。


マスターは静かに聞いている。



---


「弱いと思われたくなくて」


「うん」


「寂しいって認めるのも嫌で」



---


あすかは少し笑った。


「でも結局、寂しかったんですよね」



---


店の中に静かな音楽が流れている。


低く、柔らかい旋律。


その中で言葉だけがゆっくり浮かぶ。



---


「人って、一人でも生きられると思ってたんです」


あすかは続ける。


「でも最近、そうじゃないのかもって思います」



---


マスターはグラスを磨きながら言う。


「一人で生きることと、一人で耐えることは違うからね」



---


その言葉が胸に落ちる。


一人で耐える。


あすかはずっと、それをしてきた気がした。



---


助けを求めるほどじゃない。

でも苦しい。

そんな曖昧な孤独。


誰にも見せずに抱え込んできた。



---


「ここに来ると、不思議と息ができるんです」


あすかはぽつりと言う。


「それなら、この店にも意味がある」


マスターは静かに答える。



---


その言葉を聞いた瞬間、あすかは少しだけ泣きそうになった。



---


大袈裟な救いじゃない。


人生が変わったわけでもない。


恋人ができたわけでもない。


明日から突然幸せになるわけでもない。



---


でも、


「ここに来ていい」


そう思える場所がある。


それだけで、人は少し生き延びられる。



---


「マスター」


「ん?」


「この店、なくならないでくださいね」



---


冗談っぽく言ったつもりだった。


でも声は少しだけ本気だった。



---


マスターは苦笑する。


「未来のことは分からない」


「それ困ります」


「人生って、だいたい困るようにできてる」



---


あすかは笑う。


その会話が、妙に愛おしかった。



---


気づけば、最初に来た頃の緊張は消えていた。


この店の空気。

グラスの音。

マスターの声。


その全部が、少しずつ自分の日常になっている。



---


でも、それは依存だけじゃない気がした。


凍えていた心に、少しずつ温度が戻ってきている。


そんな感覚だった。



---


「ねえ、あすかさん」


珍しく、マスターのほうから声をかける。


「はい?」



---


「ちゃんと笑うようになった」



---


その言葉に、あすかは返事ができなかった。



---


笑えていたのか。


自分では気づかなかった。



---


最初はただ、寒さを避けるために入った場所だった。


でも今は違う。


この店に来ることで、自分の感情が戻ってきている。


寂しい。

安心する。

また来たい。

話したい。


そんな感情を、ちゃんと感じ始めていた。



---


店を出る。


冬の夜風が吹く。


でも今日は、その冷たさが嫌じゃなかった。



---


空を見上げる。


吐いた息が白い。


その白さを見ながら、あすかは静かに思う。



---


自分はまだ、幸せが何なのか分からない。


でも。


少なくとも今、完全な孤独の中にはいない。



---


それだけで、この冬を少し好きになれる気がした。



---


こうして、あすかの冬は静かに終わり始めていた。


凍えていた心の奥に、小さな温もりを残したまま。

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