もうやだよ!!
そして週が明けた月曜日。
わたしの眠りを妨げたのは、妹・美嘉の必死な叫び声だった。
「お姉、早く起きて! 鏡子ちゃんが来る前にわたし、出るから!」
「……え、まだ今、起きたばっかり……」
「じゃあね、いってきます!」
嵐のように美嘉が家を飛び出していく。
やはり、まだ鏡子ちゃんと顔を合わせる勇気はないらしい。
まあ、あれは「死」を覚悟するレベルの恐怖だっただろうから、彼女の豆腐メンタルが癒えるまでには相当な時間がかかるんだろうな。
制服に着替え、一階へ降りると、そこにはすでに優雅にマグカップを傾ける鏡子ちゃんがいた。
「おはよー、サキちゃん!」
「おはよう、鏡子ちゃん……」
いつも通りの朝食を済ませ、登校の時間。玄関を出た瞬間、またしても「蛇」が絡みついてくる。
腕に伝わる、相変わらずの柔らかい感触。
鏡子ちゃんと他愛もない話をしながらも、わたしの心は、つい校門の前に立っているであろう優花里さんの姿を思い浮かべていた。ただそれだけで、胸の奥がじんわりと温かくなり、幸せな気分になってしまう。
けれど、校門が視界に入った途端。
「痛っ……痛い痛い、鏡子ちゃん!」
腕が、ギリギリと万力のような力で絞り上げられる。
ふと隣を見ると、鏡子ちゃんがものすごい形相で、校門前の優花里さんを睨みつけていた。
(どうして、こんなに敵愾心を燃やすんだろう……?)
優花里さんは、本当はすごく優しくて、不器用で、いい人なのに。
鏡子ちゃんだって、ゆっくり話し合えば絶対に理解し合えるはずなのに。
鏡子ちゃんが優花里さんを「あいつ」呼ばわりするのを、以前は「おいおい」と苦笑いで流せていた。
けれど、今はその言葉が、棘のように心に深く刺さってくる。
あの週末を経て、わたしの考えが変わったのだろうか。
優花里さんへの気持ちが、以前よりもずっと、強く、深くなったのは確かだ。
けれど、鏡子ちゃんを大切な友達だと思う気持ちだって、以前と変わらずここにある。
(なんなんだろう、この気持ち……。もやもやする……)
優花里さんを「恋人」として意識し始めたことで、鏡子ちゃんの「友情(という名の独占欲)」が、今までとは違う重圧としてわたしにのしかかり始めていた。
校門の前で、こちらを見つめる優花里さんの瞳と、わたしの視線がぶつかる。
彼女の瞳が、一瞬だけ優しく細められたのを、わたしは見逃さなかった。
そして、それを隣の「蛇」が察知しないはずもなかった。
校門前、いつも以上に張り詰めた空気が一気に弾けた。
鏡子ちゃんの手が私の腕をさらに強く引き寄せ、優花里さんへ真っ向から食ってかかる。
「伊藤先輩。……どうして、ずっとサキちゃんに固執してるんですか?」
唐突な直球に、優花里さんは一瞬だけ表情を揺らした。
けれど、すぐに風紀委員長としての仮面を被り直す。
「そんな……わたしは生徒の皆さん全体に気を配っているだけよ」
「そうとは思えません。なんですか? サキちゃんにだけ名前を呼ぼうとしたり、目配せをしたり……」
「……そんな深い理由はないのよ」
「嘘です! そうとは思えません!!」
鏡子ちゃんの声が、登校中の生徒たちの注目を集める。
「待って、鏡子ちゃん! そんなに優花里さんへ食ってかからないで。優花里さんを目の敵にしないでよ!」
わたしは必死に止めた。
けれど、優花里さんを守ろうとすればするほど、鏡子ちゃんの瞳から光が消え、腕を絞める力が強まっていく。
その執着と、大好きで大切な優花里さんが責められている現状。
そして、嘘をつき続けなければならない自分の不甲斐なさ。
「なんで?なんでサキちゃん、先輩の事、下の名前で読んでるの?!もしかして変な事されちゃったの!?ふざけるなよお前!サキちゃんにー!」
「もう……やめてよ……っ!!」
気づけば、わたしの目から涙が溢れていた。
驚いて一瞬力が緩んだ鏡子ちゃんの手を振り解き、わたしは校舎へと駆け出した。
背後から誰かがわたしの名前を呼んで、追いかけてくる気配がする。
でも、今は誰の顔も見たくない。
玄関で上履きをひったくるように履き替え、階段を駆け上がる。
目についた誰もいない空き教室の扉を開け、中から鍵をかけた。
静まり返った教室に、自分の激しい呼吸と嗚咽だけが響く。
「うぅ……っ、ひっく……」
わたしは机に突っ伏して、声を上げて泣きじゃくった。
ただのアニオタでいたかった。
ただ、好きな人を好きだと言える、普通の毎日でよかったのに。
どうして大好きな二人を、あんなに憎しみ合わせなきゃいけないの……?
わたしのせいなの?
止まらない涙は、週末の幸せな記憶を塗りつぶしていくように、冷たく頬を濡らし続けた。
「サキちゃん! サキちゃん!」
閉ざされた扉の向こうから、鏡子ちゃんの悲痛な叫びが響く。
ドンドンドンドンと扉を叩く音が、わたしの心臓に直接響くようだった。
「サキちゃんごめん、扉を開けて! お願い!」
鏡子ちゃん……。
執着は怖いけれど、彼女は間違いなくわたしの、大好きで大切な友人だ。
一通り泣いて、少しだけ熱が引いたわたしは、重い足取りで扉の方へ歩いていった。
扉の向こうでは、まだ彼女が叫んでいる。
「サキちゃん! 出てきて! お願い、ごめんなさい! わたしが悪かったから……わたしが、全部悪かったから謝るから!わたしもカッとしてしまって! ごめん! だから……」
次第に彼女の叫び声は、掠れた泣き声へと変わっていった。
「お願い……出てきてよ……サキちゃん……っ」
その声に耐えられなくなり、わたしは震える指で鍵を開けた。
ガラッと扉が開いた瞬間、勢いよく鏡子ちゃんが飛びついてきた。
「サキちゃん……! サキちゃんっ!!」
「鏡子ちゃん……」
しがみついて泣きじゃくる鏡子ちゃんを前に、私はどうしたらいいのか分からなかった。
ただ、彼女の肩が激しく揺れているのを、どこか遠くのことのように感じていた。
ふと、廊下の向こうに視線をやると、そこには優花里さんがいた。
彼女は今にも駆け寄ってきそうな表情をしながら、けれど鏡子ちゃんに抱きつかれている私を見て、声をかけられず立ちすくんでいる。
鏡子ちゃんの泣き声が、制服の肩口を濡らしていく。
わたしは泣いている鏡子ちゃんを腕の中に閉じ込めたまま、遠くにいる優花里さんを、呆然とした表情で見つめ返すことしかできなかった。
三人の想いが交錯して、バラバラに解けていく。
晴れ渡った月曜日の朝なのに、私たちの周りだけが、ひどく冷たい雨に打たれているようだった。
その日の授業は、文字通り全く頭に入ってこなかった。休み時間のたびに鏡子ちゃんがやって来てはわたしを抱きしめていたように思う。クラスの誰もがそれを「いつもの光景」として、違和感なく受け入れているのが逆に不思議だった。
(まあ、ずっと蛇のように絡みつかれていたから、今さらなんだろうな……)
そんなことを考えられるくらいには、少しずつ頭が回りだしていた。
昼休み、事件は起きた。鏡子ちゃんがわたしにお弁当を食べさせ始めたのだ。
まさか学校で「アーン」をされる日が来るとは。隣の席の茜ちゃんが、持っていたパンを取り落としそうになるほど唖然として口を開けている。
「……茜ちゃん、わたしのお弁当ちょっとあげようか?」
「い、いや、いいよいいよ! サキはしっかり食べて元気出してよ」
「ありがとう、茜ちゃん……」
鏡子ちゃんが私の卵焼きを箸で持ち上げ、口元へ運んでくる。
「サキちゃん、アーンして」
「アーン……」
口を開けると、卵焼きがそっと中に入ってくる。
鏡子ちゃんは椅子をぴったり寄せて私に密着していた。ふと瞳を見ると、まだ少し潤んでいる。
こんな状態だけれど、やっぱり可愛いな……と思ってしまった。
(可愛い鏡子ちゃんと、綺麗な優花里さんに挟まれて、わたしって実は幸せなのかな? 両手に美少女かぁ……)
半分現実逃避のようなことを、他人事みたいに考えていた。
放課後。ようやく頭がいつも通りに回り始めた頃、わたしは昇降口へと向かった。
隣には当然のように鏡子ちゃんがいて、腕を絡ませてくる。
下駄箱の近くに、優花里さんが立っていた。
もじもじと俯きながら、わたしたちに話しかけようかどうしようか、激しく葛藤しているのが見て取れる。
二人がその前を横切ろうとした時、意外なことが起きた。
「……伊藤先輩、今日は、すみませんでした。さようなら」
鏡子ちゃんが、静かに声をかけたのだ。
わたしと優花里さんは、同時に驚きで目を見開いた。
鏡子ちゃんが優花里さんに、噛みつく以外の挨拶をしたことなんて、今まで一度もなかったからだ。
「鏡子ちゃん……?」
「……伊藤先輩が、心配そうな顔をしてたからよ。わたしも今朝、校門で大人げなかったし……サキを悲しませたから」
鏡子ちゃんは恥ずかしそうにプイッと向こうを向いた。けれど、その首筋が真っ赤になっているのが見えた。
「鏡子ちゃん……」
「……何、サキちゃん?」
「好きだよ」
なぜか鏡子ちゃんの体がビクッと震えた。
「寒いの?」
「……もう6月だから暑いよっ!」
真っ赤な顔で返された笑顔は、いつもの親友の顔だった。
結局、鏡子ちゃんは家の中までついてきてくれた。
「ありがとうね、鏡子ちゃん」
「わたしこそごめんね。朝、あんなことを伊藤先輩に言って、サキちゃんを悲しませて」
「ううん。わたしは、鏡子ちゃんと優花里さんが仲良くしてほしいなって思ってるだけ。あの人も、わたしの大切な……友人だから」
一瞬、鏡子ちゃんは驚いたような顔をしたが、すぐに普段の表情に戻った。
「サキちゃんがそう言うなら、分かった。わたしもあの人に、挨拶から始めてみるよ」
「鏡子ちゃん!」
わたしは彼女に飛びついて抱きしめた。
「ありがとう。やっぱり鏡子ちゃんはわたしの親友。大好きだよ!」
鏡子ちゃんの細い腕もわたしの背中に回ってくる。その体温が、いつもよりずっと温かく感じられた。
ーーー
今日、私は一番大切な人を悲しませ、泣かせてしまった。
きっかけは、あの伊藤先輩だ。
これまでも毎朝、サキにだけ特別な名前の呼び方をしたり、意味深な視線を向けてきたり……はっきり言って、ずっと気に食わなかった。
サキちゃんの前だというのに、普段の私なら絶対に使わないような汚い言葉で彼女を罵ったりもした。
でも、それはすべてサキちゃんへの愛情の裏返し。 このままだと、サキちゃんが伊藤先輩に奪われてしまう気がしたから。
私から、彼女が遠くへ離れていってしまう気がして、怖くて仕方がなかったから。
だから今日、これまで溜め込んできたドロドロとした感情を先輩にぶつけた。
だけど、サキちゃんはそれに耐えられなかった。
泣きながら走り去るサキちゃんを追いかけ、空き教室の前で必死に名前を呼んだ。
扉の向こうから聞こえてくる、あの子の悲痛な泣き声。胸が締め付けられる。
私のせいで、世界で一番大事な彼女をあんなに悲しませてしまった。全部、私のせいだ。
「お願い、出てきて……」
謝罪と祈りを込めて呼び続けると、しばらくして、ようやく彼女が出てきてくれた。
私の元に戻ってきてくれたことが、ただただ嬉しくて、私は迷わず彼女に抱きついた。
一度、彼女が目の前から消えそうになったことで、はっきりと再確認した。
やっぱり私は、この子が大好き。……いいえ、「愛している」と断言できる。
この子がいないと私は生きてはいけない。
もう二度と、この子を離したくない、絶対に離さないと誓った。
それからは、罪滅ぼしを兼ねて彼女のお世話をした。
お弁当を食べるお手伝いもした。
まるで子供みたいにされるがままのサキちゃんだったけれど、彼女の世話を焼くのは、私にとって何よりも楽しくて幸せな時間だった。本当に彼女を愛おしいと思った。
少しずつ、サキちゃんが元気を取り戻していく。
決めた。もうこの大切な子を悲しませたり、手放したりはしない。
だから、帰り際に伊藤先輩を見かけた時、自分から声をかけて謝罪をした。
確かに、喧嘩を仕掛けたのは私の方だ。
サキちゃんが望むのであれば、これからは伊藤先輩とも挨拶を交わし、可能な限り歩み寄る努力もしなければならない。
それはしょうがないとも思う。
それが、大好きなサキちゃんの笑顔を守るための、唯一の道だから。
サキちゃんを家に送り、それを話した私にサキちゃんは大好きと言ってくれた。
ああ、私の望んだサキちゃんとの繋がりだと強く思った。
ただ伊藤先輩も大切だと言われたのは驚いたけれど。
でも――心の中で、もう一人の自分が冷たく囁く。
「絶対に!あの人にサキちゃんを渡しはしない!」
サキちゃんは私だけの、誰にも代えがたい一番大切な人。
私がこの世で唯一愛している人。
彼女の笑顔も、涙も、その体温も。 彼女自身はすべて私だけのものなんだ。
反省した様に見えて、サキへの執着を更に強める鏡子でした。
サキの涙はどう影響を与えるでしょうか?




