胡蝶の夢
視線が合う。
お互い50代の中年の顔に戻っている。
二人が幸せになるようにと授けてくれた若さだったのだ。二人が離ればなれになるとその魔法は解けてしまう。その魔法が解けかかっていく体の痛みが二人を襲っている。
そしてそれよりも大きな後悔が二人を支配していた。
また同じ事をしてしまったという後悔だった。
また同じ事をしてはいけない。
横断歩道を渡りきった俊之は振り返る。
愛子も気持ちは同じだ。
急速に50代に戻っていく脳は、状況を把握できていなかった。
俊之の方へ、よろよろと赤に変わった横断歩道を渡り始めていた。
その時、大型トラックが愛子に向かって突っ込んできた。
急ブレーキの音が響き渡る。
愛子の目の前が真っ暗になった。
トラックは愛子の目の前で止まった。
「おばさん、危ないじゃないか」トラックの運転手が真っ赤な顔をして怒鳴っている。
その言葉を背中に、俊之は愛子を抱きかかえ家に戻りついた。
朦朧としている二人はもつれるようにベットに崩れ落ちた。
窓のカーテン越しに朝日が差し込んでいる。
愛子は目が覚めている。横を見ると俊之が眠っていた。
俊之の顔は50代の顔だった。愛子は静かにベッドから起き出し洗面所に向かう。おそるおそる鏡を見ると、50代の顔だった。
肌はくすみ、目元にはしわが有り、体も少し縮んでいる。
しかし、その瞳は穏やかな深い落ち着きを持っている。
いつの間にか俊之もがそばに来ていた。やはり鏡をのぞき込む。
俊之の体も元に戻り、髪の毛には白髪が交じっている。しかし知的で落ち着いた紳士の顔に見える。
洗面所の四角い鏡に、50代の二人がうつっている。
「元のおばさんになってるわ。すべて夢だったのよ。あーよかった」
愛子は涙がこぼれている。
「また、同じ事を私はやろうとしていたのよ。あなたを愛しているのに引き留められなかった。
それは私の若さのせいだったのね。今の幸せに不満はないはずなのに、必要以上の事を望んでいたのを神様は教えてくれた」
「僕もそう感じたよ。幸せなのに、もっと幸せになろうとしていたんだ。幸せが何かを知らないのに」
俊之はつぶやく。
「胡蝶の夢か」
胡蝶の夢とは、夢の中でほんの一眠りの間に、人生を丸ごと経験したという話だ。
二人はその夢を経験したのだった。
俊之も愛子も、改めて若さの意味を考えていた。
若さは怖いものだ。
そして、若さは心の未熟さを必ず持っているものだと深く思い知った。
俊之はぽつりとつぶやいた。
「年をとっているという事は、そんなに悪い事ではないんだな」
「そうね。若さというのは感情が強すぎて、不安定になってしまうのがよくわかったわ」
お互いを思いやる心は、ある程度、経験を重ね苦労と年齢が必要なんだと。
今という時間は、二人がやっと勝ち取った幸せなんだ。二人はしっかり抱き合って、涙をこぼした。
二人の脇を二匹の蝶々がひらひらとすり抜けていった。そして二度ほど戯れると、少し開いている窓から外に飛び出していった。
急に風が吹き込んでくる。カーテンが大きく揺れる。
愛子は窓の外を見た。
「ありがとうございました」と言葉がこぼれた。
了




