第十一話
「月を眺めているのですか」
その日の夜。いつまでも起きている私に石上麿足がそっと声をかけてきた。咎める色はない。どこか心配されているのがわかった。
今日は特に月が明るい。夜だけれどお互いの姿がよく見えた。私が彼に目を向けるのに合わせて、石上麿足も照れたように目を逸らした。
「ごめんなさい。少し月が気になって」
「確かに明るい夜ですが……」
明るかろうが、暗かろうが夜は寝るものだ。まして石上麿足は官僚、明日も早い。わかってはいるが日に日に月から目が離せなくなっている。
私の不安には気付いているのだろうが、何に由来するものなのかわかっては。それでも寄り添おうとするのは流石だなと思う。
もう一度月を仰ぐ。原作のかぐや姫は独身だった。でも私は人妻だ。それで連れて行かれるのを阻止出来るかもと考えた。というかそれ以外私に試せることなんてなかった。本当にどうなるんだろう。
私は断罪を回避出来るのだろうか。
「……泣いているのですか?」
ふと言われる。いや、泣いてはいない。私に月の記憶なんてないから。
改めて石上麿足がこちらに寄って来ようとしたその時、突然「うっ」と呻いた。へなへなと座り込む様子に何だかおかしいぞと思い、咄嗟に駆け寄る。
助け起こそうとするも本当に力が抜けているのか、重くて支えることも出来ない。石上麿足は信じられない顔をしたまま座り込んでいた。
どうしたの、と言うより早く、パアッと部屋に光が広がった。月の光を台無しにした光は徐々に人の像を結ぶ。
光が収まった時、そこには人がいた。
「やはり穢らわしい。地上の空気など汚れている。一刻も早く月に戻らねば肺が腐りそうだ」
男とも女ともとれない顔と体つき。明らかに時代にそぐわぬ衣装。人間とも思われない何者かがそこに立っていた。
動けない石上麿足を後ろ手で庇う。こいつひょっとして、というか確実に。月の都の者では。
その尋常ならざる人物は実に嫌な目で私を見下していた。
「それで? 贖罪は果たしたのかカグティーヌ」
やはりかぐや姫の罪を知っているということはいや待てや今なんつった?
「は?」
「相変わらず理解が遅くて辟易するよ。お前がヒロインナを陥れた罪で追放されたことだ」
は?
「麗しのヒロインナが健気にカグティーヌは悪くない、私が悪いの……と泣いて訴えるので貴様のような罪人をわざわざ迎えに来たのだ。あまり手間を掛けさせるな」
は、……は?
なに、待って。話の冒頭の高天原から出向してた神様、どういうこと? 上手く断罪を回避しろって言ったじゃないですか。回避出来ていないような言い回しをされたんですけど。
それになんですかこのベタベタな悪役令嬢物は。
ひょっとして、かぐや姫ってもしかして。
既に断罪された悪役令嬢……ってこと?
確かに追放された先で新しく人間関係を築いて幸せになっていくのも悪役令嬢物ではよくあるし、それも醍醐味だけれども。これは景品表示法違反ではなかろうか。私はかぐや姫が断罪されるって聞いたんですけど! 既に月の都で断罪されて、地上に追放されていたとかわかるわけないでしょ!
あと本当に月の都でのかぐや姫は悪いことしたのかな。なんかテンプレ臭がすごいする。階段から突き飛ばされたと嘘の証言をされてそう。あとはカッターキャーとか。それは別ジャンルか。
かぐや姫、絶対にハメられただろ。
そしてそれに騙された筆頭らしい月からの使者に、ひとまず返事をする。
「えーとなんでしたっけ、貴方は。ゴミ?」
「私の名前はカスだ。二度と間違えるな」
うるせーよニアピン。
月での生活は一ミリも覚えていないがなんか腹たってきた。
「とにかく私に月の都への未練はありません。お引き取りください」
「……あまり意地を張るものではない。私が何も調べずに来たとでも? 貴様随分地上の人間に言い寄られていたそうではないか。そこに転がっている男は騙し討ちで強引に貴様を娶ったと聞いているぞ」
カスが顎をしゃくる。後ろ手に庇った石上麿足の身体がピクリと震えた気がした。
「まさか月へ帰る機会を捨ててまで、そんな男と共にこの地上で生きていく価値があるとでも?」
ふわりと淡い光が灯る。いつの間にかカスの手には布が現れていた。軽い絹の美しい布。まるで天女の羽衣のよう。その美しさとは裏腹に、あれは私が一番恐れていた人格を消失させる羽衣だ。
あれを羽織れば私はあらゆる感情を喪失し、見目の良いだけの人形へ成り下がる。
私はすぅっと息を吸った。この場に相応しい美辞麗句は思い付かない。元来私は口達者ではないのだ。だから思うところを正直に言うしかない。
「時として価値の無い物がある物に変わり、価値のある物が無い物になってしまうのです。貴方にも覚えがあるはず。誰かを大切に想う心はそうする力があるのだと」
「……」
「お引き取りを。貴方に価値は無くとも私にはあるのよ。これ以上の侮辱は決して許しません」
正気かと問うような目で見られた。正気だとも。私は生まれる前からずっと地上の人間だからちょっとイレギュラーかもしれないけれど、月の都に魅力を感じない。
それに石上麿足のことも、不意打ちといえば不意打ちではあるが、知恵比べに負けたと言えば負けたのだ。燕の子安貝のことを聞かれた時点で私が気がつけばよかった。どんな理由であれ負けたことを認めないのは潔くない。私は私なりの理由で彼に嫁いだことを納得してはいるのだ。
それに石上麿足のことは嫌いじゃないしね。うん嫌いじゃない。……うん。
「後悔するぞ」
「そうですか」
「皆も泣くだろう。貴様は月の者すべてを裏切ったのだ」
「まさか強引なやり方を咎めた口で、私を無理矢理連れ帰ったりは出来ないでしょう?」
カスは痛いところを突かれたというより、悔しそうな顔をした。
「……ならば地上の穢れに塗れながら死ね」
「貴方様もお元気で」
その言葉を最後にカスはパッと消え去った。
元の静けさがそこここに戻って来た。ふらついていた石上麿足も身体の自由が戻ったのか、起き上がりジッと私を見つめた。
身体が動かずとも耳は聞こえていたのだろう。かぐや姫が元は月の都の住人だったというのも分かったはずだ。気持ち悪がられるかもしれない。
しかし反応を伺う私に対して石上麿足はぎゅっと私の手を握った。
「実のところ、今のやり取りが夢現だったのかもよく分かっていません。あの者の言うことも半分くらいしか理解出来ませんでしたし」
そりゃそうだ。私もメタ知識がなければ分からなかったと思う。
「ですが、貴女が大きな決断をし、その結果この場所を、……俺を選んでくれたのはわかりました」
口をへの字に曲げ、眉間に皺を寄せている。一見すると怒っているようだが、その顔の赤さがそれを否定していた。そして握られてわかったが手が震えていた。
出会った時のようなあの怖いほど無表情な石上麿足はいない。
震えながら、汗を掻きながら、それでも私を引き留めようとしている男の顔がそこにあった。
「どうかこれより先も俺の傍にいてください。どうか、どうか……」
石上麿足と夫婦になるかぐやなんて、世界にどれほどいるのだろうか。少なくとも私は知らないし、これからも知ることはない。
「……はい!」
そんなかぐや姫は私だけで十分なのだ。




