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未来の速度で  作者: 未世遙輝
エピソード1
8/31

 ■第8章:研究ノートの証言


—「息子の強さ」


 朝の光が、遮光カーテンの隙間から細く差し込んでいた。

 息子がいなくなってから、亮介は朝が怖かった。

 日付が更新されるたび、息子の未来だけが1日ずつ遅れていくように思えた。


 しかし、その朝は、ほんの少しだけ違った。

 亮介は起き上がり、机の上の研究ノートを静かに開いた。



 見慣れてきたはずの文字列。

 けれど、読み返すたび、息子の輪郭が濃くなる。


 数式の意味も、専門用語の意図も、

 まだ完全には分からない。

 しかし、分かるものがあった。


 ——意志だ。


 息子が苦しみの淵でなお、

 誰かのために未来を描こうとしていた意志。


 ページの端に、薄く書かれたメモが視界に留まる。


「父さんにも分かるように」


 亮介は指先でさらりと撫でた。

 涙腺が、ささやかな圧をかけてくる。


「……分かる。絶対に分かる」


 決意ではなく、願いでもない。

 約束だった。



 その日、大学から連絡が入った。

 白石が、研究室に来てほしいと言う。


 到着すると、白石と教授、院生数人が集まっていた。


「父さん、これ見てください」


 ホワイトボードには、悠人の研究の

 目的と理論の再構成が描かれていた。


 学生たちが、息子の技術思想を読み解きながら

 自分たちなりの言葉で補っていく。


「集中維持と脳波フィードバックは補助的な…」

「環境ストレス指数をリアルタイムに判定して、過負荷を回避…」


「つまり、“やりすぎない技術”なんです」


 白石がそう言った。


「誰もが『普通』にできるようになる技術じゃない。

 できなくても、生きやすいようにする技術です」


 亮介は息を呑んだ。


 息子は——


弱さを切り捨てる世界で、弱さを肯定する未来を作ろうとしていた。


 教授が言葉を継ぐ。


「特性がある人ほど、社会の速度に置いていかれる。

 だから、未来の速度を人間に合わせるべきだという思想です」


 亮介はゆっくり首を縦に振った。

 息子は、世界を責めなかった。

 ただ、世界を少し優しくしようとした。



 そのとき、白石が躊躇いがちにUSBを差し出した。


「悠人さんのスマホから、ひとつだけ復元できました。

 解析中のデータの断片です」


 亮介は手に受け取った。

 USBは小さく、頼りなく、しかし重かった。


 研究室の端のPCで再生する。

 画面いっぱいに、波形が現れた。


悠人の脳波データ。


「ストレス指数が上振れしてる。

 これは、最後の週……?」


 白石の声が震える。


 波形の山が異常に尖り、

 中脳領域のスパイクが雪崩のように連なっていた。


「こんな状態で……研究してたのか」


 亮介は椅子を握りしめた。

 拳が白くなる。


 波形の横に、小さな文字が添えられていた。


「まだできる

まだ間に合う

まだ…」


 最後の一語は滲んでいて読めなかった。

 しかし、亮介には分かった。


「まだ生きられる」

そう自分に言い聞かせていたのだ。



 画面が暗転する。

 別のファイルが自動再生された。


 エラーだらけの動画。

 ノイズの向こう側に、息を整えようとする

 必死な声がかすかに残っていた。


「……大丈夫、まだいける……

 信じてる、未来……

 ああ、また迷惑かけた……ごめ……」


 再生が止まる。


「ごめん」

 その一言だけが、耳に残った。


 父に対してか。

 世界に対してか。

 それとも、自分にか。


 亮介は、ただ静かに目を閉じた。



 教授が柔らかい声で言う。


「息子さんは、本当に優しい人だったんですね」


「……ええ、優しかった。

 とても」


「だからこそ、脆かった。

 ——優しさは、脆さと紙一重です」


「……分かります」


 亮介は、ノートをそっと抱えた。


 息子の苦しみを、まだすべては理解できない。

 だが、息子の強さは痛いほど伝わった。



 帰り道、団地へと続く階段。

 夕方の空が、オレンジから青へと移り変わる。


 亮介は思った。


 息子は、

 自分の弱さを恥ではなく技術に変えたのだ。


 それは、誰にでもできることではない。


「さつきにも……伝えないと」


 亮介は、自宅の扉を開けた。


 しかし、玄関から奥へ伸びる暗い空気。

 居間には、また誰もいない。


「……さつき?」


 返事はなかった。

 寝室の扉は閉ざされている。


 亮介は、扉の前で言葉を探した。


「悠人は……

 誰かのために、生きようとしてた」


 伝えたいのに、伝わらない。

 扉の向こうの沈黙は、深い穴のようだった。



 夜。


 机の上に広げたノートの余白に、

 亮介はそっと鉛筆を置いた。


 息子の文字の横に、

 父の文字が添えられる。


 すべて丁寧に、震えながら。


「まだ間に合う」


 息子が残した言葉を、父が引き継ぐ。


 未来に遅れるのではない。

 未来に追いつくのでもない。


未来を、息子の速度に合わせ直すための文字だ。


「悠人……」

「父さんが続ける」


 灯りを小さく絞る。

 ページが静かに息をしている。


 これが、父の

 最初の一歩だった。


第8章 完


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