■第8章:研究ノートの証言
—「息子の強さ」
朝の光が、遮光カーテンの隙間から細く差し込んでいた。
息子がいなくなってから、亮介は朝が怖かった。
日付が更新されるたび、息子の未来だけが1日ずつ遅れていくように思えた。
しかし、その朝は、ほんの少しだけ違った。
亮介は起き上がり、机の上の研究ノートを静かに開いた。
◆
見慣れてきたはずの文字列。
けれど、読み返すたび、息子の輪郭が濃くなる。
数式の意味も、専門用語の意図も、
まだ完全には分からない。
しかし、分かるものがあった。
——意志だ。
息子が苦しみの淵でなお、
誰かのために未来を描こうとしていた意志。
ページの端に、薄く書かれたメモが視界に留まる。
「父さんにも分かるように」
亮介は指先でさらりと撫でた。
涙腺が、ささやかな圧をかけてくる。
「……分かる。絶対に分かる」
決意ではなく、願いでもない。
約束だった。
◆
その日、大学から連絡が入った。
白石が、研究室に来てほしいと言う。
到着すると、白石と教授、院生数人が集まっていた。
「父さん、これ見てください」
ホワイトボードには、悠人の研究の
目的と理論の再構成が描かれていた。
学生たちが、息子の技術思想を読み解きながら
自分たちなりの言葉で補っていく。
「集中維持と脳波フィードバックは補助的な…」
「環境ストレス指数をリアルタイムに判定して、過負荷を回避…」
「つまり、“やりすぎない技術”なんです」
白石がそう言った。
「誰もが『普通』にできるようになる技術じゃない。
できなくても、生きやすいようにする技術です」
亮介は息を呑んだ。
息子は——
弱さを切り捨てる世界で、弱さを肯定する未来を作ろうとしていた。
教授が言葉を継ぐ。
「特性がある人ほど、社会の速度に置いていかれる。
だから、未来の速度を人間に合わせるべきだという思想です」
亮介はゆっくり首を縦に振った。
息子は、世界を責めなかった。
ただ、世界を少し優しくしようとした。
◆
そのとき、白石が躊躇いがちにUSBを差し出した。
「悠人さんのスマホから、ひとつだけ復元できました。
解析中のデータの断片です」
亮介は手に受け取った。
USBは小さく、頼りなく、しかし重かった。
研究室の端のPCで再生する。
画面いっぱいに、波形が現れた。
悠人の脳波データ。
「ストレス指数が上振れしてる。
これは、最後の週……?」
白石の声が震える。
波形の山が異常に尖り、
中脳領域のスパイクが雪崩のように連なっていた。
「こんな状態で……研究してたのか」
亮介は椅子を握りしめた。
拳が白くなる。
波形の横に、小さな文字が添えられていた。
「まだできる
まだ間に合う
まだ…」
最後の一語は滲んでいて読めなかった。
しかし、亮介には分かった。
「まだ生きられる」
そう自分に言い聞かせていたのだ。
◆
画面が暗転する。
別のファイルが自動再生された。
エラーだらけの動画。
ノイズの向こう側に、息を整えようとする
必死な声がかすかに残っていた。
「……大丈夫、まだいける……
信じてる、未来……
ああ、また迷惑かけた……ごめ……」
再生が止まる。
「ごめん」
その一言だけが、耳に残った。
父に対してか。
世界に対してか。
それとも、自分にか。
亮介は、ただ静かに目を閉じた。
◆
教授が柔らかい声で言う。
「息子さんは、本当に優しい人だったんですね」
「……ええ、優しかった。
とても」
「だからこそ、脆かった。
——優しさは、脆さと紙一重です」
「……分かります」
亮介は、ノートをそっと抱えた。
息子の苦しみを、まだすべては理解できない。
だが、息子の強さは痛いほど伝わった。
◆
帰り道、団地へと続く階段。
夕方の空が、オレンジから青へと移り変わる。
亮介は思った。
息子は、
自分の弱さを恥ではなく技術に変えたのだ。
それは、誰にでもできることではない。
「さつきにも……伝えないと」
亮介は、自宅の扉を開けた。
しかし、玄関から奥へ伸びる暗い空気。
居間には、また誰もいない。
「……さつき?」
返事はなかった。
寝室の扉は閉ざされている。
亮介は、扉の前で言葉を探した。
「悠人は……
誰かのために、生きようとしてた」
伝えたいのに、伝わらない。
扉の向こうの沈黙は、深い穴のようだった。
◆
夜。
机の上に広げたノートの余白に、
亮介はそっと鉛筆を置いた。
息子の文字の横に、
父の文字が添えられる。
すべて丁寧に、震えながら。
「まだ間に合う」
息子が残した言葉を、父が引き継ぐ。
未来に遅れるのではない。
未来に追いつくのでもない。
未来を、息子の速度に合わせ直すための文字だ。
「悠人……」
「父さんが続ける」
灯りを小さく絞る。
ページが静かに息をしている。
これが、父の
最初の一歩だった。
第8章 完




